NPOな人

NPOの現状や日々の雑感などを徒然なるままにお伝えします。

江戸時代と米(その2)

2010年07月18日 | エコでボランタリーな江戸の町
100万都市である江戸には、全国から約100万石もの米が天領や諸藩から送られてきました。

その大量の米は、浅草、深川、本所、芝、日本橋の河岸沿いに立ち並ぶ米蔵に納められていました。その界隈は蔵前と呼ばれましたが、この地名は現在も浅草に残っています。

幕府や各藩は家臣たちに給料として俸禄米を与え、残った分は米問屋に売って収入としていましたので、江戸には大量の米が流通していたと考えられます。

江戸時代の絵師で戯作者の山東京伝は、江戸っ子を「金の魚虎をにらんで、水道の水を産湯に浴びて、御膝元に生れ出ては、拝搗(おがみつき)の米を喰て、乳母日傘に長・・・」と表現しています。

拝搗の米とは精米のことで、江戸には臼と杵を携えて町中をまわり、玄米を精米して生計を立てていた大道搗という人たちがいました。搗き米屋が表れたのは、承応・明暦期(1652~57年)以降といいますから、それまでは玄米を食べていたと思われます。

これが仇となり、「江戸わずらい」という病気が流行しました。これは今でいう脚気で、ビタミンB1の欠乏症です。玄米には十分なビタミンB1が含まれていますので、玄米を食べている頃には起きなかった病気です。

江戸詰の武士や地方からやってきた商人などにかかった者が多かったようで、故郷に帰ると自然に治ってしまうために、江戸の奇病として恐れられていました。

江戸わずらいという病気があったほどですから、江戸では大量の白米が食べられていたことは疑いのない事実だということが分かりますね。
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