江戸時代は鎖国政策のために欧米に後れを取ったとお考えの方が少なくありませんが、徳川幕府は長崎、対馬、薩摩、蝦夷の4つの口を通じて外交と貿易を行っていましたので、国を閉ざしているという意識はなかったようです。
そもそも「鎖国」という用語は、1690年9月から92年10月までオランダ長崎・出島商館医として日本に滞在したE・ケンペルが、帰国後にラテン語で著した「廻国奇観」の中にある<日本が国を鎖すことの是非>に関する論文が出自となっています。
これが英語版「日本史」に英訳転載され、そのオランダ語訳が日本に伝わりましたが、E・ケンペルは鎖国の状態を肯定し、賛美の言葉を惜しまない論評をしています。それを読んだオランダ語通詞の志筑忠雄が共感共鳴して、1801年に<鎖国論>と意訳したことから、これ以降「鎖国」という用語が使われるようになったものです。それは、E・ケンペルが日本を去ってから100年以上も後のことなのです。