ヒゲジイのアル中よもやま話

断酒を始めて早7年目。このブログは回復プロセスの記録と脳のリハビリを兼ねて綴っています。やはり、まだチョット変ですかネ?

聞き役に徹する訓練も立派なリハビリ

2017-03-03 06:44:47 | 自助会
 前々回の記事では、“自分に正直になる” という切り口から “言語化” がいかに回復(=“認知のゆがみ” の矯正)へのリハビリとして有用かを述べました。今回は、自助会のミーティングを切り口に、聞き役に徹する訓練も回復へのリハビリとしていかに有用かを述べてみます。

 想起障害は老化現象に伴う記憶障害としてよく知られています。「アレがアレして、アーなって」と揶揄されるアレです。言葉にしたいのに肝腎の言葉がなかなか思い出せないことが頻繁に起き、思いが言葉にならない辛さ、もどかしさは「度忘れ」などと笑って済ませられるものではありません。断酒継続中のアルコール依存症者は、程度の差はあれ、想起障害を主とした記憶障害を共通して引き摺っています。

 記憶障害の代表格である認知症の人は、遠い過去の記憶が思いの外鮮明に残っており、逆に近い過去の記憶の方がむしろおぼろげだと聞いたことがあります。遠い過去のことは記憶のネットワークの中でしっかり固定されていて、その一方で、近い過去のことはまだ固定されずにいるという意味に思えてなりません。

 上の傾向は私にとっても当てはまることばかりです。話すにせよ書くにせよ遠い過去の思い出を語るときは、度々言葉に詰まったり話が飛んだりはするものの、一旦始めさえすれば意外にスラスラ進むものです。もし、その話が意図と違ったと気づいたら、すぐにその間違いを正せます。逆に、つい最近のことを語るとなると、思いの外考えがまとまらず、表現や言葉の間違いにも気づけないことが多いのです。老化のせいか急性離脱後症候群(PAWS:記憶障害を伴う)のせいか私にはわかりませんが、これは大なり小なり断酒継続中のアルコール依存症者に共通した悩みだろうと考えています。

 こんな記憶障害に加え、アルコール依存症者は根深い “認知のゆがみ” という問題も抱えています。そのどちらも記憶のネットワークがうまく機能していないことが原因ではないかと私は睨んでいます。

 ところで、聞き上手の人はたまに相槌を打つぐらいで聞き役に徹します。大概、一通り話を聞いた後で核心を突く質問や勘所を押さえた客観的な意見をしてくれるものです。土台、聞き上手の人は頭の出来が違うのだろうと、ずっと考えていました。聞き下手の私は、自分自身を引き合いについ話に巻き込まれてしまい、当事者になった気で余計な質問や意見をしては話の腰を折ったものでした。ところが今は、聞き役に徹することこそが肝腎で、終始第三者の立場で話を聞けるようになれれば立派な聞き上手になれるのでは、と思えるようになりました。

 自助会のミーティングには二つの好条件が揃っています。一つは言いっ放し・聞きっ放しの舞台環境が完備していること。二つ目は全員が共通してアルコール依存症者ということです。

 言いっ放し・聞きっ放しのルールで行われる自助会のミーティングでは、現場にいながら話し手に何の負い目も感じずに話が聞け、話を聞いた後で感想や意見を述べなくて済みます。聞きたくなければ聞き流せばいいだけですし、話し手として指名されても「今日は仲間の聞き役でいます」と断ればいいのです。

 生々しい刺激的な話を聞くのにこんな気楽な環境はありません。あたかもラジオを聞くように、第三者の立場で聞き役に徹し切れるところがミソなのです。とは言っても、聞き手の多くはいつ指名されても話せるよう、その準備に半ば気もそぞろで、その分だけ半ば聞き流し状態となっているのが普通です。聞き流していたとしても、琴線に触れた言葉は不思議と記憶に残っているものです。(いずれにしても、聞き上手になるまでにはある程度の年季が要るようです。)
 
 自助会に共通したこのルールに加え、一般的にアルコール依存症者の酒害体験は次のことが共通しています。


 ● 経験した事柄(症状)は個人を超えて意外に共通項が多い
 ● 大抵は遠い過去の思い出なので話し手が気楽に話せる
 ● 聞き手も類似の酒害を経験しているので言外の察しが効く


 これらの共通項が揃っているからこそ聞き手は、経験した者同士にしかわからない引け目や後ろめたさなど、微妙な心理が共有できるのです。自分に似通った体験を聞くことで、埋もれた記憶が刺激され、過去の思い出が鮮やかに蘇るという経験も聞き手全員に共通します。ミーティングからの帰り道、名状しがたいカタルシスに浸れるのはこのお陰だと思います。このことは明らかに記憶機能のリハビリに当たります。

 以上から二つの結論が導き出せます。


 ○ 記憶のネットワークのリハビリには、自助会で聞き役に徹し切る
   訓練が一つの有用な手段であること
 ○ 第三者として聞き役に徹し切れれば聞き上手になれ、同時にもの
   事を客観的に考えられるようにもなれるハズ


 これが帰納法的(?)に導かれた今回の結論です。自助会で酒害体験を聞くことは、よく言われる断酒継続中の “空白の時間” 対策として気軽にできるばかりでなく、記憶のネットワーク回復へのリハビリとしても打って付けだと考えた所以です。

 このことをさらに広げて考えてみます。ありのままに物事を見るには、自分から離れて見ることが肝腎で、全体を客体として第三者の立場から眺めることが欠かせません。この場合の客体とは、もちろん自分自身をも含めての話です。聞き役に徹することで第三者の目を保つことができれば、前々回述べた校正者の目で「自分に正直になる」ことにも通じます。それがひいては回復への王道へ導いてくれるとも思えるのです。

 要は、自分への囚われ(自己執着)から抜け出すことが “認知のゆがみ” の矯正への第一歩。これが帰納法的(?)思考から導き出したもう一つの結論です。この拡大解釈は乱暴すぎるでしょうか?



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