ヒゲジイのアル中よもやま話

断酒を始めて早7年目。このブログは回復プロセスの記録と脳のリハビリを兼ねて綴っています。やはり、まだチョット変ですかネ?

マスクが語る世相

2017-03-07 07:12:59 | 世相
 スギ花粉の真っ盛りとなりました。行き交う道ではマスク姿が多く見られます。スギ花粉症が世に騒がれ始めてすでに40年以上経つでしょうか。マスク姿は、今ではこの季節ならではの風物詩の感さえあります。

 最近、私には何とも解せないことが一つあります。ゴミ拾いをしていると、マスクが数多く道に落ちていることです。白いだけに余計に目に付きます。流行カゼの少ない夏の真っ盛りでもそうなのですが、スギ花粉が猛威を振るう春先でも変わりありません。だからこそ解せないのです。

 よほどうまく設計されていない限り、マスクでウイルスの侵入を完璧に阻止するなど不可能なのだそうです。花粉を防ぐためや口から唾を飛ばさないための遮蔽効果か、喉や口内を乾燥から防ぐための保湿効果が目的なら、マスク着用は有用と私にも理解できます。そうであれば着用にはTPOがあるはずで、年がら年中、マスクが道のゴミというのは不思議でなりません。要らなかったから捨てた? カゼでも花粉症でもないのに、なぜマスクなのでしょう。

 しばらく前、TVで対人恐怖症のためマスクが手放せなくなった若い女性のことが報道されていました。マスクで素の顔を隠さなければ人と向き合えないのだそうです。これは人との親しい交わりを怖がる引き籠もりと同じです。

 恐らく無意識の内に、彼女は他人との関わりで上下・優劣観念に殊の外強く囚われているのだろうと思います。平たく言えば上昇志向と劣等感の虜になっているという意味です。タネを明かせば、私がそうだったから、勝手にそう考えただけなのですが・・・。

 50年以上前の昔なら、町中でマスクを着けるなどは少数派で、病人か罪人かと内心警戒されたものでした。やましいことがなければ顔を隠す必要などないはずです。マスクはサングラスと同様、当時は胡散臭い輩の象徴だったのです。

 今では感染症を防ぐためと称し、電車・バスの車内ではマスク着用を指導している学校もあるやに聞いています。今より遙かに衛生状態が悪かった戦後世代の私からすると、どう見てもやり過ぎで正気の沙汰ではありません。呆れるやら滑稽やらで、つい潔癖症に近い強迫神経症の類ではないかと心配してしまいます。やはり現代人は少し気が振れているのではないでしょうか。

 口元は目元と同じくらい人柄が現われます。マスクを着けるのは素の自分を晒すのが怖いからなのでしょう。「そんなヤワな心でこの先どうするの?」と心配なのです。

 人との素の付き合いでは、腹も立ち、傷つくこともあります。逆に、心の痛みがわかって貰えるのも、親身な励ましが骨身に染みるのも、肌で息づかいを感じる(?)ぐらいの素の付き合いがあってこそなのです。どんなに頻繁なメール交換でも素の付き合いの醍醐味は味わえないハズです。マスクは素の付き合いに水を差す帷でしかありません。

 それら素の付き合いの思い出が生きる上でどんなに糧となることか、道に落ちているマスクを見る度になげかわしく思うばかりです。自分が傷つくことを恐れてばかりいては何も儘ならないのです。これが66年間生きてきた男の偽らざる感慨です。なに、こんなエラソウに言えるのも隠居した身だからこそなのですが・・・。



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コメント (2)
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