生命哲学/生物哲学/生活哲学ブログ

《生命/生物、生活》を、システム的かつ体系的に、分析し総合し統合する。射程域:哲学、美術音楽詩、政治経済社会、秘教

風間虹樹的、絵画要素1

2011年08月02日 23時31分56秒 | 美術/絵画
2011年8月2日-5
風間虹樹的、絵画要素1


  ↑:玉線(玉突き線)


  ↑:玉線の拡大


  ↑:ぺたりん、や、ぽたりん、の様々


  ↑:ぽたりん円、の様々


  ↑:高いところから落としたぽたりん円。一部が円の外に撥ね散る。
  なお、画面を斜めにして落とすと、楕円形になる。
  また、円の上に重ねると、液が重力方向に垂れる。
  また、画面をかなり斜めにして(たとえば床に対して55度)、養生テープの上に落として(マスキングである)、(円状部分は画面に付けず)、飛沫だけを画面に着地させるという応用もできる。さらに、乾いてから、異なる色で同様のことを行なうのも一興。







Ernst Haeckelを批判するA.R. Wallace

2011年08月02日 01時09分39秒 | 生命生物生活哲学
2011年8月2日-1
Ernst Haeckelを批判するA.R. Wallace

 A.R. Wallace(ウォーレス、ウォレス、ワラス)は、一元論者 monistのErnst Haeckelを批判している。
 この部分に関する限り、Wallaceの説得力は無い。
 単純な構造を持つ存在者(たとえば等質的な水晶)から複雑な構造を持つ存在者(異質的な生物体)までを、根拠を持って分類することはできない。
 複雑性または複雑度をどう定義できるのか?


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 生物によつて示される現象は、不可思議で変化窮りなく、生物の有する能力は、単に機械的、物理
的若しくは化学的法則の下にある諸物質のそれに比して遥に超越するが故に、生物学者は、これ等諸
現象の根底に伏在する原因「生命」を捕へて、これに科学的術語をもつて正確な定義を下さうとした
のであるが、その労は常に無効に終つたのであつた。チエムバース百科辞典に於いて、一学者はこれ
を要約して「連続、調律、自由」の三語に帰したのであるが、これは真に近いとはいへ、未だ以つて
説明し得たとは言へぬのである。ハーバート・スペンサーは、更にこれを解釈して、「並行的または
連続的に起る雑駁なる内的変化が相一致して、外界の境遇や結果に対して相順応すること」とした。
しかし、この定義は余りに術語的で且つ抽象的であるから、一般読者に対しては殆ど何等の意義をも
成さぬのである。
 次に記述する定義は、比較的完全なものと言へるのであるから、これは生物一般の重要な特徴を要
約したものであるとも言へるのである。
 ??生命とは、主として空気、水及びその中に溶解される諸物質を用ひて複雑なる構造を有する組

 
  織体を造り、且つこれに各々一定の形状と官能とを具備せしむるものである。そして、これ等の
  組織体は、間断なく老廃に陥ると共に、その内部に於ける液体や瓦斯体の循環によつて常に補修
  されるのである。彼等はまた己と同形のものを生殖して、幼年、壮年、老年の各状態を通過した
  後、斃死して再び元の原素に復帰するのであるが、既に己と同様な個体を連綿として続生遺留す
  るが故に、凡そ外界の境遇の許す限り、一種不死不滅の性を有するが如きものなのである。
 ここに列挙したところの特徴は、動植物以外の物質には決して見られぬものであつて、結晶体の如
きは、一定の形状を具ふる外は、少しも生物に似た点がないのである。即ち結晶体は、必ず常に或る
単純な原素若しくは化合物の周種の分子が集合してなるものであつて、一結晶体の各部は、相等しい
ものであるが、生物体はこれと異り、これを構成する各部は、皆な相異り、異種雑多の分子が相共同
して複雑な構造組織をなしてゐるのである。
 現今でも、一般人民間には、「石も生長す」とか、「総ての物質は皆な生く」とか、或ひは.「無機
物と下級有生物との間には区別すべき様なし」等の言を信じてゐるものがあるのであるが、これに対
しては、学術上何等の憑拠〔=根拠〕はないのである。しかし、「生命は単に化学作用や電気作用や各種の物理
作用によつて動かされた物質のー状態である」といふ意見は、恐らく現代大多数の科学者によって広

 
く信用されるところであつて、「一元論といふ名の下に唯一の科学的見解だとされてゐるが、これに
反して、生命は独立別種のものであつて、死物や無機物間に働くところの各種の法則を離れて、別に
一種の内住的指導カの存在を証するものである」といふ意見は、非科学的な旧式迷信の一に属すると
して排斥されてゐるのである。
 有名なドイツの生物学者エルンスト・へツケル氏は、その近者「宇宙の謎」に於いて、次のやうに
言つているのである。
「意識といふ特種の現象は、デユボア・レーモン氏や二元論者が唱導する如く、全く超越的の問題で
はなく、却つて私が三十三年前に論証した如く生理的の問題である。故に畢竟するにこれには物理学
と化学の現象中に帰着しなければならない」(マツケーブ氏訳六五頁)
「実在の二要素(物質やエーテル)は死物でもなければ、単に外力によつて動かされるものでもない。
却つて感覚と意志とを具有してゐるものである(勿論仮令、最低度のものに過ぎぬとしても)。そし
て、この二者は、共に凝集を好み、この傾向に赴き、圧屈を嫌つて、これを避けるのである。云々」
(同七八頁)
 この二句に於いて、我々は既にヘツケル氏の思想が自家撞着であることを見るのである。前句に於


いて、氏は意識を以つて単に物理と化学の現象に過ぎずとなし、後句に於いては、物質やエーテルは
共に感覚と意志とを具へると説いてゐる。そして、同書第六四頁に於いては、「物質の原子が具有す
る感覚や意志の初歩的心理状態は非意識的である」と説いた。
 かくの如く物質やエーテルは感覚や意志を有して、努力し反抗するの性ほ具へるものであるが、非
意識的であるといふ氏の立場は、殆ど我々の了解に苦しむところである。氏は更に進んで、左の如く
言つてゐる。
「私はゲーテと共に、物質は精神なくしては存在しまた働き得ず、精神も亦物質なにくしては存在し活
動し得ぬものであると主張する。私はスピノーザの純然明瞭な一元論を固く支持する。即ち物質や精
     エツセンス  サブスタンス
神は全宇宙の精華即ち宇宙的実在の二箇の基礎的固有性であつて、甲は無限に拡張した実在を表して
エネルギーとも称して感受し、また思考する実在を表すのである。云々」(同八頁)
 この点に於いて、我々はまた新しい自家撞着を発見する。即ち「思考する無限の実在は、非自覚的
である」といふことである。そして、氏は、この理を進めて、終に、「総ての意識自覚の起原である
セルソール
細胞の霊は、それ自身非意識的である」といふ論をたてて熱心にこれを反復している。
 極端に独断的で専断的なへツケル氏の言論が、諸方面の多数読者に対して莫大な勢カを有すること

 
は事実であるが、一般の読者は、人が一科の学術に卓越した権威である時は、その人の言論は他科の
学術問題に対しても等しく権威である安全な指導者であると誤信するものである。思ふに、ヘツケル
氏が自家の専門である生物学的知識の領域を離れ、剰へ科学の範囲外に逸して、徒に「無限」とか「劫
久」とか、不熟の問題に指を染めるのは、科学的の方法でないばかりでなく、また、実に拙劣な哲学
だと評すべきである。
 へツケル教授が、神学者輩の独断説を嫌忌するのは我々も亦同感である。癖に神学者が萬有のうち
                           マインド
その背後、またはその周囲にあつて、そのカである不可思議な心意の性質に関して、敢て絶対的知識
を有するが如く誇示するのは、我々の賛成し得ぬところである。しかしまた、へツケル氏の如く、独
断的に否定し、若しくは独断的に己が知識を誇張するのは我々の亦取らぬところであり、特に氏が生
命それ自身の性質に関して己が無識を蔽はんがために、ことさらに卓絶した知識を装ふの風があるの
は甚だ忌むべきことである。氏は、栄養、同化、発育等の各種難問題を解決しようとする企画を全然
回避してゐるが、私は本書で特に鳥類と昆虫類に就いて最も明瞭にこれを詳論しようと思ふ。ヴァイ
スマン教授の言の如く、有機体を構成する無限に異なる諸材料が「常に適所に配置され、適時に会し
て細胞を現出する」その原因や機制に至つては、従来提出された総ゆる遺伝論の学説には、毫もこれ

 
に触れたものはなく、殊に宇宙の謎を解釈するなどと揚言して、我々の前に現れ出たへツケル氏でさ
へ一言もこれには言及してゐないのである。」(A.R.ウオレス『生物の世界』4-9頁)。

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[W]
ウオレス,A.R. (赤木春之訳 初版1942.7、二版発行1944.3(2000部) )生物の世界.[20+]474pp.東江堂.[定価参円 特別行為税担当額金二十銭 合計定価三円二十銭]