生命哲学/生物哲学/生活哲学ブログ

《生命/生物、生活》を、システム的かつ体系的に、分析し総合し統合する。射程域:哲学、美術音楽詩、政治経済社会、秘教

イデオロギーと歴史記述

2011年08月19日 13時57分12秒 | 生命生物生活哲学
2011年8月19日-2
イデオロギーと歴史記述

 イデオロギーの定義または、或る主張がイデオロギー的かどうかの基準はどうなのだろうか。
 下記は、「「イデオロギー」とはなにか」と題した文からの引用である。実証主義への批判であるようだ。

  「われわれは思考する存在なのだ。たとえば、正義とはなにか、国家の目的、歴史の意味はなにか、といった問題についてわれわれはいろいろと考えをめぐらさずにはいられない。われわれの思考は他の実在と同様、実在するものである。しかし、それを追求して行く者だけが理解できるのだ。ここには原理的な意味での「認識の汚染」はない。あるのはその思考が深遠か浅薄か、高貴か低劣か、独自のものか他に依拠したものか、中庸かファナティックか、善か悪か、という区別である。そして、それ自体不確かなこうした区別の方が、あらゆるレヴェルの差を平均化せざるをえないイデオロギーの概念よりは、思想家の価値を明らかにするには役立つ。もちろん、悪しき思考、虚偽、無内容な思想、もったいぶった弁舌を、内容の充実したものに対比して「イデオロギー的」と呼ぶことにはやぶさかでない。しかし、そのような区別をするなら、もっと正確な言いまわしを用いられるようおすすめする。」
(マン 『歴史論II:尺度と価値』132頁)。

 アーサー・ダント〔Danto ダントォ?〕の『物語としての歴史』の見解はどうなのか。

 
[D]
ダント,A.C. 1965, 1966.(河本英夫訳,1989)物語としての歴史.390pp.国文社.[B000919, y4200]
 
[M]
マン,ゴーロ. 1961.(加藤二郎・宮野悦義訳,1973)歴史論II:尺度と価値.189+vi pp.法政大学出版局.[B740304, y950]


リスク論の乱用

2011年08月19日 13時00分29秒 | 放射能
2011年8月19日-1
リスク論の乱用

 こんにちの社会は、外を歩けば数多くの危険に出会うことになる。家の中にいても、たとえばシック病にかかるかもしれないし、クレーンが倒れてくるかもしれないし、車が飛び込んでくるかもしれない。

 さて、リスク論の考え方そのものの(要文献)、あるいは、リスク論の適用での(要文献)、問題点はいくつかの段階(要文献)で考えられる。もともと政治的意図を入れやすいところがあると思われる(要文献)。

 平川秀幸(2011.5)「三・一一以降の科学技術ガバナンスに向けて:過去を通じての未来へ」では、<リスクの「合理的理解」を盾にした「リスク受容の要求(ときには強要)」について触れられている。浜岡原発の耐震性を主題とした、1998年頃の科学技術庁(当時)での討論会のやりとりに触れてのことであるが、論点はリスク論に関わっており、一般化できるものである。たとえば放射能汚染あるいは放射線被曝に対してである。

  「なるほど、かつては絶対安全と言い張るだけだった原子力の行政や専門家がリスクの存在を公然と認めたことは大きな進歩だろう。しかしそこには、リスクの「合理的理解」を盾にした「リスク受容の要求(ときには強要)」の意図が見え隠れしている。 ここでリスクの合理的理解とは次のようなものだ。第一に、リスクは科学的に理解しなければならない。すなわちリスクとは、ある損害の大きさにその発生確率を掛けたものであり、大きなものもあれば小さなものもある。そして原発が全電源喪失などによって過酷事故を起こす確率は、極々低確率であるため、事実上無視できる。第二に、あるリスクを削減するかどうか、するとすれば、どれだけ削減するかは、そうするためのコストや、逆にリスクを引き受けることで得られるはずの便益(たとえば薬の副作用のリスクを引き受けることで得られる治療効果)とのつりあい、身の回りの他のリスク(たとえば自動車事故や喫煙のリスク)との比較によって、判断されねばならない。あるリスクの削減にコストを掛けすぎれば、他のリスクの対策を圧迫することになるし、便益を得たければリスクも引き受けねばならない。自動車や喫煙のリスクは受け入れているのに、それよりはるかに小さな原子力のリスクを受け入れないのは辻棲が合わない。第三に、あるリスクを小さくすることは、別のリスク(対抗リスク)を大きくすることもある。たとえば薬の副作用リスクを下げると効能も減り、病気がなかなか治らないというリスクが高まる。そして、これらの考え方に反し、小さなリスクでも不安になったり、さらなる削減を要求したりするのは、リスクに関する科学的理解が足りないか、不合理な「ゼロリスク指向」だと批判される。上の科技庁でのやりとりで専門家が主張しているのは、そういうことだ。そして、これらのことを理解して安心するか、安心できない場合でも「正しく怖がる」こと。三・一一以降の放射能汚染についても、そうすることを説く言説をあちこちで見聞きした。 こうした考え方は、個人としても社会全体としても、数多あるリスクに対処していくためには不可欠の考え方ではある。しかし常に適切なわけではない。今回の事故に照らしていえば、何が正しい怖がり方かの基準自体が揺らいでいる。」(平川秀幸 2011.5 176頁)。

 「こうした考え方」とは、どこからどこまでを指しているかわからないが、少なくともすべて不可欠とは考えないような社会にすべきだろう。
 自動車については、衝突防止装置を装備した車を販売すべきであろう。少なくとも、受動喫煙にはならないように、全国禁煙にする。など、など。

 さて、論理的筋道を明示的にすると、下記の通りとなるだろう〔要記載〕。

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[H]
平川秀幸.2011.5.三・一一以降の科学技術ガバナンスに向けて:過去を通じての未来へ.現代思想 39(7): 172-177.