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リスク評価による行動選択の落とし穴

2011年08月16日 22時53分43秒 | 放射能
2011年8月16日-1
リスク評価による行動選択の落とし穴


  「ときおり緊急の目覚まし電話が鳴り響き、われわれを立ち止まらせ、用心するように促す。その一例は、東海村の核燃料加工工場で一九九九年九月に起きた臨界事故である。悲劇的な事故の真相が明らかになり、放射線がまき散らされ、気分が悪くなる者が出てくるにつれ、現地の地方自治体の当局者は、危険を避けるために何をするのが最善なのかという問いに直面させられた。住民を疎開させるべきか否か、住民をドアを締め切った屋内にとどまるよう要請すべきか否か、といった問いである。技術システムを生み出したり、それを管理したりする人々が、もっと知恵を働かせていれば、こうした種類の苦渋の選択が起こることを予期し、それを避けることができたはずである。大きな災難がわれわれに降りかかるのを座して待つことはない。」(ラングトン・ウィナー (吉岡斉・若松征男訳,2000)「日本語版への序文」、『鯨と原子炉』:7頁)。

 上記は、ウィナー『鯨と原子炉』の「日本語版への序文」に書かれたものである。
 結局、東海村JCO臨界事故の後では、柏崎刈羽原発事故もあったが、多くの日本人は福島第一原発事故を、当局の隠蔽と国民の騙されやすさと無関心の上に、座して待ったことになるだろう。
 
 さて、危害、危険、危機といった語の意味を調べてみる。

  「危害。身体・生命・物品を損なうような危険なこと」(大辞泉)。
  「危険。生命や身体の損害、事故?災害などが生じる可能性のあること」(大辞泉)。
  「危機 〔crisis〕。悪い結果が予測される危険な時?状況。あやうい状態」(大辞泉)。
  「リスク risk。1 危険。危険度。2 保険で、損害を受ける可能性」(大辞泉)。
  「使い分け。〔略〕【2】「危険」は、広く危ないことを意味するが、「危機」は、危ない場面、境遇に焦点が当てられている。英danger【3】「危険」と「危機」では、「危機」の方がやや硬い表現であると同時に、一般に危なさの度合いも大きく感じられる。」

  「危険。(a) danger; (a) hazard; 〔差し迫った,大きな危険〕peril; 〔冒険,賭けに伴う〕(a) risk」(プログレッシブ英和中辞典)。
  「危害。(an) injury; harm」(プログレッシブ英和中辞典)。
  「害。harm (▼物質的精神的肉体的な害について広く用いる); 〔損害〕damage」(プログレッシブ英和中辞典)。

 
 さて、訳者あとがき(この執筆者は吉岡斉氏)の287頁に、「「リスク」概念については第八章で、精密な批判的分析が展開されている」と書かれている。そのウィナー『鯨と原子炉』の第八章「タール人形につかまらないために」から、下記を引用する。

 
  「相対的なコストとベネフィットのバランスを進んで取ろうとする姿勢は、自分の状況を記述するために「リスク」という概念を採用すること自体に内在したものである。ふつうに使うとき、この言葉は損害の大きさを可能な利得に対して測った人の立場からの「損害のチャンス」を意味する。人はリスクにどう対処するか? 時には人はそれを引き受けることを決心する。いっぼう危険【ルビ:ハザード】にはどう対処するか? ふつう人はそれを避けるか、除去することを求める。ビジネスでの取引、スポーツ、そしてギャンブルでは「リスク」という概念が使われている。そのことはこの概念がきわめて密接に、自発的な企てという感覚と結びついているさまを表わしている。〔略〕
 〔略〕「危険」【ルビ:デンジャー】、「危険」【ルビ:ハザード】、「危険」【ルビ:ペリル】の概念とは対照的に、「リスク」という概念は、問題となる損害のチャンスを利得の期待のもとに進んで受け入れるということを意味する傾向にある。」(ウィナー 『鯨と原子炉』: 233-234頁)。

 
  「日常生活はリスクに関するさまざまな種類の状況に満ちている。これに注目して現代のリスク評価は、一連の心理学的な紛糾の種に焦点を当ててきた。それは科学的不確実にかかわる困難や、リスク/コスト/ベネフィット分析の計算にかかわる困難の上に、さらに困難を積み上げるものである。人々は実際直面するリスクを正確に評価するだろうか? 彼らはどのくらい上手に、そのようなリスクを比較し、評価することができるだろうか? なぜ彼らは他のリスクではなく、あるリスクに焦点を当てようとするのだろうか? 数多くの興味深く、また有効な心理学的研究が、そのような疑問に答えるべく行なわれてきた。概してこれらの研究は、日常的活動に含まれる損害の相対的チャンスについて、人々がかなり曖昧に理解していることを示している。そのような知見に、現代生活におけるさまざまな状況の中でこうむる傷害者数と死亡者数の統計的比較を重ね合わせて考えると、なぜ人々がある種のリスクについて心配し、他のリスクについては心配しないのかという問題は、まことに謎に包まれたものとなる。
 この謎をレトリックとして使おうとする者もいる。彼らはしばしば、人々のリスク感覚における混乱を引き合いに出して、ある特定の原因による損害のチャンスに焦点を当てる者の主張の評判を落とそうとする。あのいまいましい傷害と死の原因である自動車を運転する人は、いったいなぜ原子力や大気汚染の程度について心配するのか? この種の不快を催させる比較は、人々の技術的危険【ルビ:ハザード】についての恐怖が、まったく不合理であるということを示すためにときどき用いられる。たとえばこの見解のある指導的な提唱者は次のように論じる。「心理的、社会的問題をもった人々が、技術進歩に不安をいだくのは驚くにあたらない。その恐怖は、高層建築物のエレベータに対する不安から、煙探知器からの『放射線』についての懸念に至るまで、幅広い事柄にわたっている。決まって、これらの恐怖は、精神科医が恐怖症と分類する内的不安を、置き換えたものである」。こう書いた著者は、ふつうの人は現代技術がわれわれすべてにもたらした数えきれない益を思い出すことによって、そのような恐怖症を克服することができると説明している。「健全な心をもった人々は、驚くべき物質的な利益にしばしば伴う無視できるほどのリスクと小さな不便とを受け入れるのである」。」(ウィナー 『鯨と原子炉』: 234-235頁)。

 この後でウィナーは批判しているが、それはさておき、最後の文での「健全な心」というのは、そう書いた或る著者が勝手に決めただけで、心の健全性を個々人について測定したわけではないだろう、おそらく。

 「タール人形」とはなんだろうと思って、ネット検索すると、「タバコってなんですか? 日本のタバコ規制が進まないのは財務省、JT、悪法・たばこ事業法の三悪が元凶です。」という網所に、

  「たばこの健康被害を訴えるため、シドニー中心部に設置された人形」
http://blog.goo.ne.jp/tankobu_x/e/8247ea82666d95b50fd104c3a342bcb7

とあった。




 
[W]
ウィナー.1986.(吉岡斉・若松征男訳,2000)鯨と原子炉:技術の限界を求めて.306+xiii pp.紀伊国屋書店. [Winner, Langton. 1986. The Whale and the Reactor: A Search for Limits in an Age of High Technology. The University of Chicago Press.] [B000327, y2,600]