2011年8月6日-5
バリー・コモナー『科学と人類の生存』から
「たとえばライナス・ポーリング
が、核爆発によって生じる放射性炭素が、あらゆる生物学的な現象に重大な関係をもっているこ
とを最初に指摘したさいに、彼は政府筋の専門家によって激しい攻撃をうけた。しかし、政府の
研究機関が、ポーリングの計算を詳細に検討した結果、まもなくこの論争はおさまった。という
のは、彼らが得た解答がポーリングの結果と実際上一致していたからであった。
論争は科学にとって、別に新しいものでもない。対立する見解に断を下すのに利用しうるデー
タが十分でない場合、論争が起こるのはあたりまえである。その対策は、より多くのデータを手
に入れることである。放射性降下物に関する論争は、降下物の放射能の分布と、それがもたらす
影響に関するより多くの情報が必要であることをあきらかにした点で有益であった。以前には秘
密であった原子力委員会のリポートを一般の科学者が利用し得るようになってはじめて、降下物
についての資料の収集が極めて不完全であったことがあきらかになった。核実験地点近くでの試
料収集はかなりよく行なわれていたが、アメリカおよび世界の他の地域についてほ、きわめてば
らばらな測定しか行なわれていなかった。」(コモナー 1966: : 122-123頁)。
データの公開と公平な態度は、議論の収束に役立つかもしれない。
以下は、閾値とその基準が他の要因で変更されるということの関連である。
「降下物に関する論争の一部は残っ
た。つまり、その議論は放射能の許容量の基準を決めるところに集中した。放射性降下物の議論
がはじめて起きたころ、放射能の基準として存在していたのは、工業用の放射能防御のためにき
められたものだけであった。大陸全体および全国民が被爆〔→被曝〕するような情況の場合に、その基準を
そのまま直ちに適応するわけにはいかない。この理由ならびに降下物にもとづく放射能のレベル
が産業でみられる場合よりもはるかに低いことから、どんな基準を適用するべきかについて意見
の一致がみられなかった。
特に重要な欠陥は、放射能が生物にあたえる害作用について明確に説明する理論がないことで
あった。ある説では、このように極めて低いレベルの放射能の場合は、被爆〔→被曝〕によってうける永久
的な傷害作用から生体組織を保護すれば、もとのように回復するとしていた。このアプローチ
は、被爆〔→被曝〕量がある値を越すことによって、もしも何らかの生物学的な傷害が(結果的に)起こるな
いきち
らば、それを基準とした"閾値"という概念を導入する。この場合、うけてもかまわないような
被爆〔→被曝〕量の基準は、単にそれを実験動物による実験や、事件によって被爆〔→被曝〕した人々についての観測
データから決定される"閾値"よりも低くおくことによって、かなりたやすくきめることができ
る。
これに対して、放射線障害についてのもうひとつの概念??比例理論??では、"閾値"なる
ものは存在しないとし、いかに少量の放射線被爆〔→被曝〕量が増大しても、それから起こる生物学的な障
害の危険はその被爆〔→被曝〕量に比例して増大するとした。この場合には許容被爆〔→被曝〕量のスタンダードをき
める絶対的な方法は存在しない。つまり、どんな量の被爆〔→被曝〕も何らかの程度は有害であるとみなさ
ねばならない。
いろいろな分野の科学者がこの論争の解決に決定的な役割をはたしてきた。主として放射性降
下物の問題に関連して、遺伝学者は低レベルの放射能によって起こる遺伝効果を明らかにするた
めの詳細な実験を行なった。放射線病理学者は、低い放射能レベルによって起こる組織障害につ
いて実験を行なった。その結果、放射能障害の比例理論が、放射能基準を考えるにあたっては、
もっとも合理的な指標となることが、今日ではおおむね一般の一致をみることとなった。アメリ
カの行政機関である、連邦放射能協議会によって採用された基準は、この結論にもとづいている
のである。
もし放射能被爆〔→被曝〕量が、いかにわずかでも増大すれば、それに応じて、医学的に好ましくない危
険が増大し、放射能の"安全レベル"というものが考えられないとすると、どのようにして許容
し得る放射線量をきめたらよいであろうか。この判断のためには、あたえられる放射線量に関連
して生ずる危険性と、そのみかえりとして得られるであろう利益とのバランスが問題となる。連
邦放射能協議会は、一九六〇年に、この立場をはっきりと採用した。すなわち、
「もしも……放射線防御に注意をはらうことなく、利益のみを考えて、ほしいままに放射能
を利用したならば、その結果おこる生物学的な危険性はきわめて大きいものと考えねばなら
ないであろう。この危険を零にするためには、実際上いかなる放射能の利用も行なえなくな
り、それによって得られるいろいろな利益も失うことになる。したがって最大限の利用と、
危険を零にすることの間の、何らかのバランス点をきめることが必要となる。放射能防御の
基準をきめるにあたっては、危険性と利益とのバランスは、医学的、社会的、経済的、政治
的、その他のファクターによって決定される。そのようにしてきめられたバランスは、厳密
な数式のみにもとづいてつくられるものでなくて、世間一般がみとめる判断によって行なわ
れねばならない」。
しかしながら、このようなスタンダードを実際に降下物の問題に適用する場合には、かなりの
混乱が起こっている。
一九六二年にアメリカとソ連が行なった大気圏中の核実験の結果、ミルク中のヨウ素一三一含
量が、いくつかの州において、連邦放射能協議会によってきめられた防御活動を必要とするレベ
ルまで上昇したが、そのときに各地方の保健官庁はそれぞれが各自勝手な尺度を採用していた。
ユタ、ウィスコンシン、ミネソタでは州の保健部は農家に対して、ミルクが人間の口にはいらな
いうちにヨウ素一三一が安全な量まで崩壊する時間がたつように、新しいミルクをしばらく市場
に出さないように要求した。
しかしこの処置はアメリカの保健厚生教育省長官(同時に彼は連邦放射能協議会の会長でもあ
る)によって反対された。彼は協議会の放射能被爆の基準は "平常の平和時の条件"のもとでの
み適用できるものであるとのべ、さらに、これらの条件は核実験の場合は成り立たないとした。
この解釈は、核実験は、協議会が行なったもとの計算にくみこまれていた "社会的、経済的、政
治的および他の因子" にふくまれていない別の因子をつくっていることを意味したものである。
この長官の言葉は、彼の見解によれば、国家にとっての核実験の価値は、ヨウ素一三一によって
うけるであろう危険性がたしかに増加することを単に意味するだけである。このことは、一見技
術的なことと思われる環境汚染の問題が、科学の領域をこえてひろがっていったことをはっきり
と示す例である。」(コモナー 1966: 125-129頁)。
汚染水放出、平田オリザ氏、米要請、発言撤回、など。
[C]
コモナー,B.1966.(安部喜也・半谷高久訳,1971.10)科学と人類の生存:生態学者が警告する明日の世界.198pp.講談社.
バリー・コモナー『科学と人類の生存』から
「たとえばライナス・ポーリング
が、核爆発によって生じる放射性炭素が、あらゆる生物学的な現象に重大な関係をもっているこ
とを最初に指摘したさいに、彼は政府筋の専門家によって激しい攻撃をうけた。しかし、政府の
研究機関が、ポーリングの計算を詳細に検討した結果、まもなくこの論争はおさまった。という
のは、彼らが得た解答がポーリングの結果と実際上一致していたからであった。
論争は科学にとって、別に新しいものでもない。対立する見解に断を下すのに利用しうるデー
タが十分でない場合、論争が起こるのはあたりまえである。その対策は、より多くのデータを手
に入れることである。放射性降下物に関する論争は、降下物の放射能の分布と、それがもたらす
影響に関するより多くの情報が必要であることをあきらかにした点で有益であった。以前には秘
密であった原子力委員会のリポートを一般の科学者が利用し得るようになってはじめて、降下物
についての資料の収集が極めて不完全であったことがあきらかになった。核実験地点近くでの試
料収集はかなりよく行なわれていたが、アメリカおよび世界の他の地域についてほ、きわめてば
らばらな測定しか行なわれていなかった。」(コモナー 1966: : 122-123頁)。
データの公開と公平な態度は、議論の収束に役立つかもしれない。
以下は、閾値とその基準が他の要因で変更されるということの関連である。
「降下物に関する論争の一部は残っ
た。つまり、その議論は放射能の許容量の基準を決めるところに集中した。放射性降下物の議論
がはじめて起きたころ、放射能の基準として存在していたのは、工業用の放射能防御のためにき
められたものだけであった。大陸全体および全国民が被爆〔→被曝〕するような情況の場合に、その基準を
そのまま直ちに適応するわけにはいかない。この理由ならびに降下物にもとづく放射能のレベル
が産業でみられる場合よりもはるかに低いことから、どんな基準を適用するべきかについて意見
の一致がみられなかった。
特に重要な欠陥は、放射能が生物にあたえる害作用について明確に説明する理論がないことで
あった。ある説では、このように極めて低いレベルの放射能の場合は、被爆〔→被曝〕によってうける永久
的な傷害作用から生体組織を保護すれば、もとのように回復するとしていた。このアプローチ
は、被爆〔→被曝〕量がある値を越すことによって、もしも何らかの生物学的な傷害が(結果的に)起こるな
いきち
らば、それを基準とした"閾値"という概念を導入する。この場合、うけてもかまわないような
被爆〔→被曝〕量の基準は、単にそれを実験動物による実験や、事件によって被爆〔→被曝〕した人々についての観測
データから決定される"閾値"よりも低くおくことによって、かなりたやすくきめることができ
る。
これに対して、放射線障害についてのもうひとつの概念??比例理論??では、"閾値"なる
ものは存在しないとし、いかに少量の放射線被爆〔→被曝〕量が増大しても、それから起こる生物学的な障
害の危険はその被爆〔→被曝〕量に比例して増大するとした。この場合には許容被爆〔→被曝〕量のスタンダードをき
める絶対的な方法は存在しない。つまり、どんな量の被爆〔→被曝〕も何らかの程度は有害であるとみなさ
ねばならない。
いろいろな分野の科学者がこの論争の解決に決定的な役割をはたしてきた。主として放射性降
下物の問題に関連して、遺伝学者は低レベルの放射能によって起こる遺伝効果を明らかにするた
めの詳細な実験を行なった。放射線病理学者は、低い放射能レベルによって起こる組織障害につ
いて実験を行なった。その結果、放射能障害の比例理論が、放射能基準を考えるにあたっては、
もっとも合理的な指標となることが、今日ではおおむね一般の一致をみることとなった。アメリ
カの行政機関である、連邦放射能協議会によって採用された基準は、この結論にもとづいている
のである。
もし放射能被爆〔→被曝〕量が、いかにわずかでも増大すれば、それに応じて、医学的に好ましくない危
険が増大し、放射能の"安全レベル"というものが考えられないとすると、どのようにして許容
し得る放射線量をきめたらよいであろうか。この判断のためには、あたえられる放射線量に関連
して生ずる危険性と、そのみかえりとして得られるであろう利益とのバランスが問題となる。連
邦放射能協議会は、一九六〇年に、この立場をはっきりと採用した。すなわち、
「もしも……放射線防御に注意をはらうことなく、利益のみを考えて、ほしいままに放射能
を利用したならば、その結果おこる生物学的な危険性はきわめて大きいものと考えねばなら
ないであろう。この危険を零にするためには、実際上いかなる放射能の利用も行なえなくな
り、それによって得られるいろいろな利益も失うことになる。したがって最大限の利用と、
危険を零にすることの間の、何らかのバランス点をきめることが必要となる。放射能防御の
基準をきめるにあたっては、危険性と利益とのバランスは、医学的、社会的、経済的、政治
的、その他のファクターによって決定される。そのようにしてきめられたバランスは、厳密
な数式のみにもとづいてつくられるものでなくて、世間一般がみとめる判断によって行なわ
れねばならない」。
しかしながら、このようなスタンダードを実際に降下物の問題に適用する場合には、かなりの
混乱が起こっている。
一九六二年にアメリカとソ連が行なった大気圏中の核実験の結果、ミルク中のヨウ素一三一含
量が、いくつかの州において、連邦放射能協議会によってきめられた防御活動を必要とするレベ
ルまで上昇したが、そのときに各地方の保健官庁はそれぞれが各自勝手な尺度を採用していた。
ユタ、ウィスコンシン、ミネソタでは州の保健部は農家に対して、ミルクが人間の口にはいらな
いうちにヨウ素一三一が安全な量まで崩壊する時間がたつように、新しいミルクをしばらく市場
に出さないように要求した。
しかしこの処置はアメリカの保健厚生教育省長官(同時に彼は連邦放射能協議会の会長でもあ
る)によって反対された。彼は協議会の放射能被爆の基準は "平常の平和時の条件"のもとでの
み適用できるものであるとのべ、さらに、これらの条件は核実験の場合は成り立たないとした。
この解釈は、核実験は、協議会が行なったもとの計算にくみこまれていた "社会的、経済的、政
治的および他の因子" にふくまれていない別の因子をつくっていることを意味したものである。
この長官の言葉は、彼の見解によれば、国家にとっての核実験の価値は、ヨウ素一三一によって
うけるであろう危険性がたしかに増加することを単に意味するだけである。このことは、一見技
術的なことと思われる環境汚染の問題が、科学の領域をこえてひろがっていったことをはっきり
と示す例である。」(コモナー 1966: 125-129頁)。
汚染水放出、平田オリザ氏、米要請、発言撤回、など。
[C]
コモナー,B.1966.(安部喜也・半谷高久訳,1971.10)科学と人類の生存:生態学者が警告する明日の世界.198pp.講談社.