生命哲学/生物哲学/生活哲学ブログ

《生命/生物、生活》を、システム的かつ体系的に、分析し総合し統合する。射程域:哲学、美術音楽詩、政治経済社会、秘教

コモナー『科学と人類の生存』から

2011年08月06日 23時19分36秒 | 生命生物生活哲学
2011年8月6日-5
バリー・コモナー『科学と人類の生存』から


  「たとえばライナス・ポーリング
が、核爆発によって生じる放射性炭素が、あらゆる生物学的な現象に重大な関係をもっているこ
とを最初に指摘したさいに、彼は政府筋の専門家によって激しい攻撃をうけた。しかし、政府の
研究機関が、ポーリングの計算を詳細に検討した結果、まもなくこの論争はおさまった。という
のは、彼らが得た解答がポーリングの結果と実際上一致していたからであった。
 論争は科学にとって、別に新しいものでもない。対立する見解に断を下すのに利用しうるデー
タが十分でない場合、論争が起こるのはあたりまえである。その対策は、より多くのデータを手
に入れることである。放射性降下物に関する論争は、降下物の放射能の分布と、それがもたらす
影響に関するより多くの情報が必要であることをあきらかにした点で有益であった。以前には秘
密であった原子力委員会のリポートを一般の科学者が利用し得るようになってはじめて、降下物
についての資料の収集が極めて不完全であったことがあきらかになった。核実験地点近くでの試
料収集はかなりよく行なわれていたが、アメリカおよび世界の他の地域についてほ、きわめてば
らばらな測定しか行なわれていなかった。」(コモナー 1966: : 122-123頁)。

 データの公開と公平な態度は、議論の収束に役立つかもしれない。
 
 以下は、閾値とその基準が他の要因で変更されるということの関連である。

  「降下物に関する論争の一部は残っ
た。つまり、その議論は放射能の許容量の基準を決めるところに集中した。放射性降下物の議論
がはじめて起きたころ、放射能の基準として存在していたのは、工業用の放射能防御のためにき
められたものだけであった。大陸全体および全国民が被爆〔→被曝〕するような情況の場合に、その基準を
そのまま直ちに適応するわけにはいかない。この理由ならびに降下物にもとづく放射能のレベル
が産業でみられる場合よりもはるかに低いことから、どんな基準を適用するべきかについて意見

の一致がみられなかった。
 特に重要な欠陥は、放射能が生物にあたえる害作用について明確に説明する理論がないことで
あった。ある説では、このように極めて低いレベルの放射能の場合は、被爆〔→被曝〕によってうける永久
的な傷害作用から生体組織を保護すれば、もとのように回復するとしていた。このアプローチ
は、被爆〔→被曝〕量がある値を越すことによって、もしも何らかの生物学的な傷害が(結果的に)起こるな
           いきち
らば、それを基準とした"閾値"という概念を導入する。この場合、うけてもかまわないような
被爆〔→被曝〕量の基準は、単にそれを実験動物による実験や、事件によって被爆〔→被曝〕した人々についての観測
データから決定される"閾値"よりも低くおくことによって、かなりたやすくきめることができ
る。
 これに対して、放射線障害についてのもうひとつの概念??比例理論??では、"閾値"なる
ものは存在しないとし、いかに少量の放射線被爆〔→被曝〕量が増大しても、それから起こる生物学的な障
害の危険はその被爆〔→被曝〕量に比例して増大するとした。この場合には許容被爆〔→被曝〕量のスタンダードをき
める絶対的な方法は存在しない。つまり、どんな量の被爆〔→被曝〕も何らかの程度は有害であるとみなさ
ねばならない。
 いろいろな分野の科学者がこの論争の解決に決定的な役割をはたしてきた。主として放射性降
下物の問題に関連して、遺伝学者は低レベルの放射能によって起こる遺伝効果を明らかにするた
めの詳細な実験を行なった。放射線病理学者は、低い放射能レベルによって起こる組織障害につ

いて実験を行なった。その結果、放射能障害の比例理論が、放射能基準を考えるにあたっては、
もっとも合理的な指標となることが、今日ではおおむね一般の一致をみることとなった。アメリ
カの行政機関である、連邦放射能協議会によって採用された基準は、この結論にもとづいている
のである。
 もし放射能被爆〔→被曝〕量が、いかにわずかでも増大すれば、それに応じて、医学的に好ましくない危
険が増大し、放射能の"安全レベル"というものが考えられないとすると、どのようにして許容
し得る放射線量をきめたらよいであろうか。この判断のためには、あたえられる放射線量に関連
して生ずる危険性と、そのみかえりとして得られるであろう利益とのバランスが問題となる。連
邦放射能協議会は、一九六〇年に、この立場をはっきりと採用した。すなわち、
  「もしも……放射線防御に注意をはらうことなく、利益のみを考えて、ほしいままに放射能
  を利用したならば、その結果おこる生物学的な危険性はきわめて大きいものと考えねばなら
  ないであろう。この危険を零にするためには、実際上いかなる放射能の利用も行なえなくな
  り、それによって得られるいろいろな利益も失うことになる。したがって最大限の利用と、
  危険を零にすることの間の、何らかのバランス点をきめることが必要となる。放射能防御の
  基準をきめるにあたっては、危険性と利益とのバランスは、医学的、社会的、経済的、政治
  的、その他のファクターによって決定される。そのようにしてきめられたバランスは、厳密

  な数式のみにもとづいてつくられるものでなくて、世間一般がみとめる判断によって行なわ
れねばならない」。
 しかしながら、このようなスタンダードを実際に降下物の問題に適用する場合には、かなりの
混乱が起こっている。
 一九六二年にアメリカとソ連が行なった大気圏中の核実験の結果、ミルク中のヨウ素一三一含
量が、いくつかの州において、連邦放射能協議会によってきめられた防御活動を必要とするレベ
ルまで上昇したが、そのときに各地方の保健官庁はそれぞれが各自勝手な尺度を採用していた。
ユタ、ウィスコンシン、ミネソタでは州の保健部は農家に対して、ミルクが人間の口にはいらな
いうちにヨウ素一三一が安全な量まで崩壊する時間がたつように、新しいミルクをしばらく市場
に出さないように要求した。
 しかしこの処置はアメリカの保健厚生教育省長官(同時に彼は連邦放射能協議会の会長でもあ
る)によって反対された。彼は協議会の放射能被爆の基準は "平常の平和時の条件"のもとでの
み適用できるものであるとのべ、さらに、これらの条件は核実験の場合は成り立たないとした。
この解釈は、核実験は、協議会が行なったもとの計算にくみこまれていた "社会的、経済的、政
治的および他の因子" にふくまれていない別の因子をつくっていることを意味したものである。
この長官の言葉は、彼の見解によれば、国家にとっての核実験の価値は、ヨウ素一三一によって

うけるであろう危険性がたしかに増加することを単に意味するだけである。このことは、一見技
術的なことと思われる環境汚染の問題が、科学の領域をこえてひろがっていったことをはっきり
と示す例である。」(コモナー 1966: 125-129頁)。

 汚染水放出、平田オリザ氏、米要請、発言撤回、など。
 
[C]
コモナー,B.1966.(安部喜也・半谷高久訳,1971.10)科学と人類の生存:生態学者が警告する明日の世界.198pp.講談社.


チェルノブイリ事故についての司馬遼太郎氏の言

2011年08月06日 22時20分27秒 | 生命生物生活哲学
2011年8月6日-4
チェルノブイリ事故についての司馬遼太郎氏の言


  「ソ連のチェルノブイリの原子炉が壊れまして「死の灰が各
地で降って大騒ぎになっておりますが、これは、「地球は一
つなんだな」という認識を世界じゅうに植えつけた点で、歴
史的な事件だと思います。ソ連の原子炉付近で被曝された方
にとってはお気の毒ですけれども、遠く離れた日本にまでジ
ェット気流に運ばれて、少しは灰が降ってきました。平凡な
ことですが、人間というのはショックが与えられなければ、
自分の思想が変わらないようにできているものです。〔略〕

               自分のところの技術がまず
かったわけではないとか、被害はたいしたことないんだとか、
〔略〕
                   あの事件に関する
限り、地球上で外国はソ連だけになってしまったのです。つ
まり、ソ連政府のこの事件についての対応方法が、非常に自国
中心、あるいは秘密主義で、自国の人民にもあまり教えてい
ない。そして外国の被害については謝ろうともしないし、実
情を非常にフランクに発表するということをしない。ご迷惑
をかけました、実はこういう事情です、こういう結果があっ
たのです、被害はこれだけです、皆さんにきっとご迷惑が及
んでいると思います、という態度をとって、ソ連は初めて外
国でなくなるのです.。
 隠している限りは、自分は地球でただ一つの外国であると
言い続けているのと同じなんです。これはソ連の悪口ではあ
りませんが、ただ一つソ連を残すほか??この事件に限って
いえば??、世界じゅうは一つだという認識が広まりつつあ
る。その点では不幸中の大きな幸いだったし、どうも地球と
いうものは将来その方向にいくのだろうという感じです。」
(司馬遼太郎 1986.9『世界』492号 31-32頁)。

 「外国である」という言があまり理解できないが、この伝でいけば、東京電力や原子力(安全・)不安院(たちあがれ日本の片山虎之助参院幹事長による
http://www.jiji.com/jc/zc?k=201107/2011073100134
)や原子力安全委員会や日本政府は、日本国民にとって、外国ということになるだろう。結局外国とは、相手のこと(ここでは福島周辺の住民や日本国民)を親身に考えないという意味か。
 海洋の放射能汚染について、日本政府は謝ったのだろうか? 「近藤昭一環境副大臣は29日、放射能汚染水の海への放出を事前に伝えなかったことについて、「韓国国民に不安を抱かせた」と謝罪した」
http://atmc-tokyo.com/radiation/924/
とのことだが、これは「事前に伝えなかったことについて」謝罪したのであって、放射能汚染水の海への放出自体については、謝ったのではないということなのだろうか。

 「世界じゅうは一つだという認識」というのもあまり理解できないが、少なくともその中身あるいは立場が問題である。

[S]
司馬遼太郎.1986.9.樹木と人.世界 (492): 31-45頁.


コモナー『科学と人類の生存』

2011年08月06日 21時37分45秒 | 生命生物生活哲学
2011年8月6日-3
コモナー『科学と人類の生存』

 バリー・コモナーの『科学と人類の生存』に、放射能汚染の話があった。

  「この〔1965年11月晩の〕大停電の一カ月後に、〔略〕ユタ州のソルトレークシティ
近くで、大停電とならんで現代の科学技術の業績を傷つけることになった手ぬかりの記念碑とも
いうべき出来ごとが起こった。
 ユタ州のワシントン郡で、九人の子供が甲状腺に異常な瘤ができたために入院した。この瘤が
果たして、甲状腺腫、良性またほ悪性のおできといった甲状腺炎の発病なのかどうかの検査を受
けるために入院したのである。この子供たちは十五年前に、近くのネヴァダ原子爆発実験場から
の降下物中に含まれた、放射性ヨードの放射能にさらされていた。この甲状腺の瘤の発生範囲
が、統計的に意味のあるものかどうか、またその場合でも、瘤の原因が果たして降下物によるも
のかどうか、判明するには多少の時間を必要とするだろう。

 しかし、その結果がどうであれ、衛生官庁がこれら子供たちの健康におよぼす降下物の影響に
ついて、注意せざるをえなくなっているという事実だけでも、重要なことである。
 子供たちが病院に運びこまれるに至った出来ごとの「連鎖」は、一九五〇年代にA・E・C(ア
メリカ原子力委員会)が長期におよぶ一連の核爆発を、ネヴァダ実験場で開始したときにはじま
った。そのときは「これらの核爆発は、実験場の外側に住んでいる住民の健康にたいして、短期
のあるいは長期にわたっていかなる害をも与えることはない」という確信のもとに始められたの
である。
 ところが、しばしば隣接地域に流れ出た降下物の雲の中には、ヨウ素一三一という放射性同位
体の粒子があった。そして、この雲がユタ州の牧場の上を通過するとき、落下したヨウ素一三一
は牧草にふりかかった。しかし、きわめて広い範囲にちらばったために、野外で行なった放射能
測定では、警戒すべき値を示すことはなかった。
 ところが、牧場の乳牛が、この牧草を食べ、その結果、キノコ雲の中でできてユタ州の牧場に
流れてきたヨウ素一三一は、乳牛の体内にはいり込み、ついで、ミルクを通じて子供たちの体の
中にはいり、甲状腺に集積して、いちじるしく高い濃度を示すようになったのである。そこに蓄
積されたヨウ素一三一は、二、三週間にわたって放射能を出した。放射能が甲状腺の細胞を通過
することによって、たとえきわめてわずかずつであっても変異を起こし、その効果が積み重なっ
て、数年たった後に発病するに至ったと考えられる。
 合衆国の北東部地域で起こったさきの大停電と同様に、この場合もーつの連鎖反応である。停
電の連鎖反応が数分しかかからなかったのに対して、ヨウ素一三一の反応は、何日も、ある意味
では何年もかかって起こった。しかし二つの場合とも、何が起こったのかについて、われわれが
理解できないうちに、ことが進行して、被害が発生してしまったのである。
 現代科学とそれがつくり出す巨大な産業は、人類の自然に対する理解の成果を意味している。
科学的な知識は、われわれが自然の力を制御しようとする場合、もっともすぐれた道しるべであ
る。そして、この点についてはすばらしい成功をおさめている。この成功こそ、われわれに電気
の驚異や、核爆弾のおそるべき力を与えているのである。
 一方、大停電とか、ユタ州での子供の甲状腺の問題は、科学の輝かしい成果に、一つの小さ
な、しかし深刻な影を投げかけている。われわれは、新しい電力システムや新型爆弾がもたらす
結果を、何もかも知るというわけにはいかないのであろうか? われわれは、科学が与えた巨大
な新しい力を、真の意味で支配しているのであろうか? それとも、科学はわれわれの手におえ
なくなってゆくのであろうか?」(コモナー『科学と人類の生存』: 15-17頁)。

 最後のところのあたり。現在では、「科学」という言葉で大括りの議論をしても実りはないだろう。様々な側面を分析し統合する必要がある。
 しかし、「「これらの核爆発は、実験場の外側に住んでいる住民の健康にたいして、短期のあるいは長期にわたっていかなる害をも与えることはない」という確信のもとに始められ」て、「きわめて広い範囲にちらばったために、野外で行なった放射能測定では、警戒すべき値を示すことはなかった」のに、被害が生じたことは、だいぶ前(1966年)からわかっていたということである。


[C]
コモナー,B.1966.(安部喜也・半谷高久訳,1971.10)科学と人類の生存:生態学者が警告する明日の世界.198pp.講談社.



美浜原発2号機事故日誌より

2011年08月06日 11時05分28秒 | 生命生物生活哲学
2011年8月6日-2
美浜原発2号機事故日誌より

 『月刊ちいきとうそう』1991年4月号、通巻244号(ロシナンテ社)の特集は、「原発いらないくらしを求めて」である。
 その裏表紙からは、特別付録「美浜原発2号機事故日誌」となっていて、

  「2月11日 美浜原発2号機事故、海へ一年分の放射能。二次冷却水通じ七〇〇万ベクレル、細管破損も最大級。
 美浜原発2号機の事故で、関西電力は一〇日、二次系冷却水に含まれて海に出た放射能量は約七〇〇万ベクレル(推定)と発表した。美浜1、2号機の八九年度一年間の総排出量に当たる。〔略〕
 2月12日 美浜原発2号機事故、放射能漏れ確認後も運転。ECCS作動30分前、手順違反の疑いも。〔略〕
 2月13日 美浜原発2号機事故、金属栓破損の可能性。〔略〕加圧器逃がし弁作動せず。〔略〕米・スリーマイルアイランド原発事故でも加圧器逃がし弁が作動しなかったことが大事故につながっており、安全管理が十分だったか改めて論議を呼びそうだ。〔略〕
 2月14日 〔略〕原因調査を進めている関西電力は十三日、破損した細管一本を確認したと発表した。この細管は、これまでの定期検査では全く異常が認められなかった「健全管」。安全とみられていた細管が運転中に突然破損し、大量の一次冷却水漏れ、ECCSの作動という大事故を引き起こしたわけで、他の全国十六基の加圧水型軽水炉の安全性、定期点検のあり方にも大きな疑問を投げかけ眼ことになった。〔略〕
 2月16日 〔略〕「ギロチン破断」といわれる細管損傷〔略〕の〔略〕同様の事故は、米・ノースアナ原発1号機(八七年七月)があるだけ。通産省などは「日本ではありえない」としてきただけに、原子力行政の信頼性が揺らぐことになりそう。」(『月刊ちいきとうそう』1991年4月号、通巻244号、裏表紙とその裏頁)。

とある。
 その後の日誌記事では、色々の不具合が判明している。たとえば、
  「二系統ある加圧器逃がし弁2系統とも作動せず」
  「主蒸気隔離弁も故障」
  「原子炉内の温度沸騰寸前に」
とか、である。

 美浜原発2号機の廃止に向けた株主運動も行なわれていたようだ。

  「3月9日 関西の市民グループ「脱原発へ! 関電株主行動の会」は、六月の関西電力の株主総会に向け、議案を出すのに必要な三万株の株主を集めて、美浜原発2号機の廃止などを求める議案を提出する方針を、九日までに決めた。」(『月刊ちいきとうそう』1991年4月号、通巻244号、表表紙の裏頁)。

 美浜原発2号機は、今どうなっているのかと思って検索すると、産経新聞による下記の記事があった。


  「関電、美浜原発2号機の「40年超運転」を申請 地元は「国の新基準が条件」
2011.7.22 21:13
 〔略〕

 関西電力は22日、来年7月に運転開始から40年目を迎える美浜原子力発電所2号機(福井県美浜町、出力50万キロワット)の運転を延長するため、「高経年化技術評価」などの報告書を国に申請した。だが県は、高経年化を踏まえた安全審査基準や対策を国が示さない限り運転継続を認めないと表明。今後の焦点は、国が新たな審査基準を示すかどうかに移る。

 関電は報告書で美浜2号機の運転期間を60年と仮定。現在の保全作業に加え、一部の機器に追加策を講じることで、40年目以降も機器の健全性は確保できるとした。さらに東京電力の福島第1原発事故を含めた国内外のから、評価に反映すべき新たな事項が見つかった場合は、速やかに評価の見直しを行〔な〕う方針を明らかにした。」
http://sankei.jp.msn.com/economy/news/110722/biz11072221150029-n1.htm

とある。
 「40年目以降も機器の健全性は確保できると」という「健全性」とはどういう健全性なのか。

 『月刊ちいきとうそう』1991年4月号の44頁に、1990年11月6日付けの中国新聞からの記事の複製がある。長野県議会でのことである。

  「放射性廃棄物拒否条例の否決 傍聴の住民「納得できぬ」 今後も運動を続行
 高レベル放射性廃棄物の持ち込みを拒否する全国初の県条例は五日の臨時県会で、自民、民社県民連合が反対し否決された。」

とある。


エネルギーの定義、dark energy、エーテル、reality

2011年08月06日 10時08分48秒 | 生命生物生活哲学
2011年8月6日-1
エネルギーの定義、dark energy、エーテル、reality

 
  「エネルギーを一言で定義するならば、他の物体に対して有効な作用を及ぼす能力である。」(高木 1992: 73頁)。

 語源となったギリシャ語の(原語の読みをカタカナ表記した)エネルゲイアは、「仕事をする能力」(高木 1992: 73頁)ということである。
 では、物体が無いところには、エネルギーは存在しないのか? また、物体の定義はなんだろうか? 

 さて、エネルギーの種々の形態として、

  位置エネルギー
  運動エネルギー
  熱エネルギー
  電気エネルギー
  磁気エネルギー
  化学エネルギー
  光子のエネルギー(→?光エネルギー)
  質量エネルギー(核エネルギー)

が、挙げられている(高木 1992: 74-87頁)。これで分類カテゴリーとして枚挙されているのだろうか。また、これらのカテゴリーは同水準にあるのだろうか。位置エネルギーと運動エネルギーとで、力学エネルギーと称するとのことである。

  「近代の物理学の歴史は、エネルギー概念の拡張の歴史といってもよい」(高木 1992: 76頁)。

 ウィキペディアによれば、

  「エネルギー(独 Energie)は、物理学を中心に、自然科学全般で取り扱われる物理量であり、ある系が潜在的に持っている、外部に対して行うことができる仕事量のことである。エネルギーという語はドイツ語のEnergieが日本語に持ち込まれたもので、その語源となったギリシア語の?νέργεια energeiaは「仕事」を意味する単語?ργον ergonに前置詞enをつけた?νεργός energosに由来する。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%8D%E3%83%AB%E3%82%AE%E3%83%BC

 「前置詞en」の意味は、な~に?
 また、

  「ある系が他の系に対して仕事をした場合、仕事をした系のエネルギーが仕事をした分だけ減少する。一方、仕事をされた系はその分だけエネルギーを得て、仕事をされる前よりも行うことができる仕事量が増加する。また、熱や光といった形態で仕事を介さずに系から系へ直接エネルギーが移動することもある。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%8D%E3%83%AB%E3%82%AE%E3%83%BC

と、物体ではなく、「系」という言葉を使っている。
 そして、エネルギーの分類は、

 「
 ・力学的エネルギー(機械的エネルギー)
  ・運動エネルギー
  ・位置エネルギー(ポテンシャル、ポテンシャルエネルギー)
   ・(重力による位置エネルギー)
   ・弾性エネルギー
 ・化学エネルギー
  ・イオン化エネルギー
 ・原子核エネルギー
 ・熱エネルギー
 ・光エネルギー
 ・電気エネルギー
 ・静止エネルギー
 ・音エネルギー
 ・ダークエネルギー
 ・情報エネルギー

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%A8%E3%83%8D%E3%83%AB%E3%82%AE%E3%83%BC

となっている。ここでは、運動エネルギーと位置エネルギーの上位に力学的エネルギーがあり、他と並立されている。高木(1992)の分類目録に無いのは、静止エネルギー、音エネルギー、ダークエネルギー、情報エネルギーの四つであり、質量エネルギーは原子核エネルギーとなっている。ダークエネルギーは、質量エネルギーになるのだろうか? 質量とはなんだろう?

 ウィキペディアによれば、

  「ダークエネルギーは一般相対論の宇宙定数 (Λ) で表される真空のエネルギーではないか、と考える人々も多く、実際、これはダークエネルギーに対する最も単純な説明である。宇宙定数は、時間や宇宙膨張によらず宇宙全体に存在する一様密度のダークエネルギーと解釈できるからである。これはアインシュタインによって導入された形式のダークエネルギーであり、我々の現在までの観測と矛盾しない。ダークエネルギーがこのような形をとるとすると、これはダークエネルギーが宇宙の持つ基本的な特徴であることを示すことになる。これとは別に、ダークエネルギーはある種の動力学的な場が粒子的に励起したものとして生まれるとする考え方もあり、クインテセンスと呼ばれている。クインテセンスは空間と時間に応じて変化する点で宇宙定数とは異なっている。クインテセンスは物質のように互いに集まって構造を作るといったことがないように、非常に軽くなければならない(大きなコンプトン波長を持つ)。今のところクインテセンスが存在する証拠は得られていないが、存在の否定もされていない。」
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%80%E3%83%BC%E3%82%AF%E3%82%A8%E3%83%8D%E3%83%AB%E3%82%AE%E3%83%BC#.E3.83.80.E3.83.BC.E3.82.AF.E3.82.A8.E3.83.8D.E3.83.AB.E3.82.AE.E3.83.BC.E3.81.AE.E6.AD.A3.E4.BD.93

とある。
 かつてエーテルという名称で媒体として仮定され、(オッカムの剃刀的に?)否定された(あるいは必要としないで理論的にやっていける?)ものと、このクインテセンスの関係はどうなのだろう? 
 
 科学基礎論学会2009年度講演会(於 大阪市立大学)
http://phsc.jp/conference.html
で、佐藤正典氏による「エーテル再考」という講演があったが、質疑応答で某先生は全否定的に批判していた。
 
 神智学やトランスヒマラヤ密教といった秘教での「エーテル物質」とは、どういう関係になるのか? 

 ウィキペディアの「エーテル体」によれば、

  「最外層の身体である物質体(肉体)を形作るものであることから、「形成体」、生命を維持するものであることから「生命体」とも呼ばれる。〔略〕
 ルドルフ・シュタイナーによればエーテル体は鉱物にはないが、植物と動物と人間にはあると言う。エーテル体がなければ体の形は崩壊するとされ、死によって、体からエーテル体が分離することによって、肉体の崩壊が始まるという。」

とある。
 シュタイナー説では、鉱物にはエーテル体は無いということらしいが、少なくとも鉱物結晶は形態を備えていると言えるから、そして、肉体的(あるいは物理的)形態を形成するのがエーテル物質であるならば、結晶にエーテル体は有るということになるのではないか? あるいは、鉱物を構成する物質は、エーテル体がなくても、鉱物の形態はいったん形成されれば、崩れないということなのか? つまり、形態維持にはエーテル体は不要なのか? では、結晶のエーテル体以外の物質体 physical body(固体・液体・気体状態の肉体)が成長するとき、エーテル物質の作用は必要としないのか?

  「いかなる形態についても、その「下に立つ substanding」エーテル質料 etheric substanceの型は、二つの要因に依存する。〔略〕
   基本的に、四つの〔自然〕王国は、プラーナ的生命をそれぞれ、エーテル質料の四つの水準のうちの或る一つまたは他の水準から引き寄せる〔取り出すdraw〕〔略〕。
   鉱物王国は、界1〔=第4エーテル。気体状態の一つ上の界(むしろ、亜界 subplane)〕から維持される。」(Bailey, A.A.『Telepathy and the Etheric Vehicle 遠隔感応とエーテル的媒体〔乗り物〕』: 153)。[20110806試訳]

 上記からすれば、鉱物はエーテル物質の最下位の(気体の方に近い)亜界からエネルギーをdrawすることによって維持されている is sutained。それは、鉱物がエーテル体を持つ、あるいは備えているということとは異なるのか? やはり、エーテル体を持つまたは備えているということではないか? 

  「奇妙にも、人間王国においては(そして人間王国にのみ)、現在、エーテル体は四つのすべての型のエーテル質料〔エーテル的物質 etheric substance〕から構成されている。」(Bailey, A.A.『Telepathy and the Etheric Vehicle 』: 153)。[20110806試訳]

 「人間王国は、界4〔第1エーテル亜界〕から維持されている」が、それは当初の状態で、

  「進化が進むにつれて、すべての王国の間に確立〔創立〕された、相互に作用する一つの発散〔放射〕 an inter-acting emanation があり、これ〔当初の状態〕は自動的に変化した。この「秘教的な発散する変化 esoteric emanation change」が、大昔に、動物-人間 animal-manを産み出したのである。」(Bailey, A.A. 1950『Telepathy and the Etheric Vehicle』: 153)。[20110806試訳]

 う~む、あちこちの用語がよくわからん。

 ところで、今では内容を覚えていない、池田清彦(1998)『科学とオカルト―際限なき「コントロール願望」のゆくえ』(PHP新書)を参照したいところだが、手元に無い。
 「BOOK」データベースによれば、この本について、

  「19世紀、錬金術などの秘術でしかなかった「オカルト」は「再現可能性」と「客観性」という二つの公共性を獲得して「科学」になった。」
http://www.amazon.co.jp/%E7%A7%91%E5%AD%A6%E3%81%A8%E3%82%AA%E3%82%AB%E3%83%AB%E3%83%88%E2%80%95%E9%9A%9B%E9%99%90%E3%81%AA%E3%81%8D%E3%80%8C%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%AB%E9%A1%98%E6%9C%9B%E3%80%8D%E3%81%AE%E3%82%86%E3%81%8F%E3%81%88-PHP%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E6%B1%A0%E7%94%B0-%E6%B8%85%E5%BD%A6/dp/4569604439

とある。

 ところで、わたし<現在の>世界の状態を経験することができるのだろうか? 少なくとも、経験内容を言語化するとき、すでにそれは過去に関する(なにかが変形された transformed)記憶である。『経験(内容)』は、どこにいってしまったのか? <今>は、無いのか? 現実を経験する、あるいは観測するとはなんだろうか? 
 公理として、

  現実(または現実性) realityは、相対的である。

を設けることにしよう。ここから、たとえば、(<現実に>存在するとして)或る幽霊個体にとっては、他の幽霊個体がもっとも現実的な存在者であろう、ということになる。


[A]
Bailey, Alice A. 1950. Telepathy and the Etheric Vehicle. xi+219pp. Lucis Publishing Company.

ベイリー,アリス.(AABライブラリー(東以和美・土方三羊)訳 2010.6))テレパシーとエーテル体.254pp.AABライブラリー.[y1,800+税]

[T]
高木隆司.1992.1.物理学:新世紀を生きる人達のために.iv+200pp.海遊舎.