生命哲学/生物哲学/生活哲学ブログ

《生命/生物、生活》を、システム的かつ体系的に、分析し総合し統合する。射程域:哲学、美術音楽詩、政治経済社会、秘教

バクテリアで除染 <放射性セシウム→バリウム>?

2011年08月21日 00時25分45秒 | 生命生物生活哲学
2011年8月21日-1
バクテリアで除染 <放射性セシウム→バリウム>?

 福島民報によれば、

 「バクテリアの除染に効果 飯舘の水田、線量が大幅低下
 南相馬市、飯舘村で微生物を活用した除染実験に取り組んでいる田崎和江金沢大名誉教授(67)は2日、放射性物質を取り込む糸状菌のバクテリアを発見した同村長泥の水田の放射線量が大幅に下がったと発表した。南相馬市役所を訪問し、桜井勝延市長に報告した。
 水田の表面は毎時30マイクロシーベルトの高い放射線量だったが、7月28日には1桁台に下がっていた。水田では無害のバリウムが確認されており、田崎名誉教授はバクテリアの代謝によって放射性セシウムがバリウムに変わったとみている。」
http://www.47news.jp/localnews/hukushima/2011/08/post_20110803104741.html

とある。
 これは、バクテリア生物体による、
  放射性セシウム→バリウム
という、いわゆる生体内核変換なのであろうか?
 
 検索すると、良く似た実験結果は、すでに論文発表されているという。

  「微生物によって放射性のセシウムが安定性のバリウムの変化するという報告は、これが初めてではありません。凝集系核科学の国際学会(ICCF)でも度々発表しているロシアのVladimir I. Vysotskii博士(以降、ヴィソツキー博士と呼びます)が、これと良く似た実験結果を論文として発表されているのです。」
http://amateur-lenr.blogspot.com/

 「環境保健クライテリア 107」のバリウムという項の記述によれば、

  「トマトや大豆も、土壌中のバリウムを濃縮することで知られており、その生物濃縮係数*は2~20の範囲である。」
http://www.nihs.go.jp/hse/ehc/sum1/ehc107.html#2

とのこと。

 なお、
  「E-Cat〔エネルギー触媒器〕の発電費用は、1キロワット時当たり1セント(約1円)と主張されて〔略〕
 原材料はニッケルパウダーの加工品、秘密の触媒と水素です。加工と触媒にかかる費用も原材料費の10%以下と言われて」
http://amateur-lenr.blogspot.com/
いるらしい。
 また、
  「E-Catに用いられた技術は非常に安全です。簡単に遮蔽できる程度のガンマ線しか観測されておらず、放射性廃棄物も出ません。」
http://amateur-lenr.blogspot.com/
という。
 ロッシ氏のエネルギー触媒器(Energy Catalyzer)は、鉛で覆われているようだが、ガンマ線が出るからということなのか。



大本営発表、良質の情報を探し出す

2011年08月20日 23時33分29秒 | 生命生物生活哲学
2011年8月20日-3
大本営発表、良質の情報を探し出す

 今回の福島第一原発事故をきっかけとして、日本社会の様々な欠陥または不具合が明らかになった。
 マスコミによる報道はその一つである。

  「「大本営発表」体質とは、情報の意図的な隠蔽や歪曲や操作のことです。うそ、ごまかしのことです。〔略〕情報の隠蔽や歪曲をされたら、情報の有効活用どころの話ではないのです。〔略〕
 わが国では、今なお政治家や官僚、大企業を中心に「大本営発表」体質が色濃く残っています。彼らは都合の悪い情報は平気で隠したり、うそをついて知らん顔です。
 そうでなければ、薬害エイズ事件など起こりません。金融機関が倒産してはじめて、不良債権の額は公表された数字の十倍あっただの、巨額の簿外債務があっただの、粉飾決算だっただのといったうそが次から次へと明らかになる様は、敗戦後に「大本営発表」がいかに大うそであったかが明らかとなった構図と同じです。
 人は誰でも都合の悪いことはなんとかそれを隠蔽したいと思うものです。これは洋の東西を問わず変わりません。ですから、隠蔽がしにくいように、それが割に合わないように、厳しい監視と罰則のシステムが社会には必要なのです。またこれが確立してはじめて民主主義社会と言えるのです。〔略〕
 本来ならマスコミも重要な監視役なのですが、これが意外に当てにならないのです。記者クラブで公的機関から流された情報をうのみにして流すだけで、情報の歪曲や操作に一役買っているだけ、ということも少なくありません。
 また、いろいろな思惑から報道が差し控えられることもあります。」(中山治 1999『「ひとり勝ち社会」を生きぬく勉強法』: 35-36頁)。

 では、そのような日本社会で、どうすれば質の良い情報を得ることができるのか。

  「日本社会の「大本営発表」体質を打ち破って、活用度の高い良質の情報を探し出すにはどうしたらよいでしょうか。それには、非公式なメディアと外国メディアを上手に活用することです。これは公式メディアを活用するなということではなく、わが国の公式メディアの発表する情報を外国メディアや非公式メディアからの情報で厳しくチェックしろ、ということです。
 私が公式メディアと呼んでいるものは、記者クラブに所属するメディアのことであり、新聞とテレビのことです。非公式メディアとは、記者クラブからは締め出されているメディアであり、週刊誌や月刊誌がその主なものです。それ以外に、書物や口コミ、インターネットもそれに入ります。」(中山治 1999『「ひとり勝ち社会」を生きぬく勉強法』: 37頁)。


 
[N]
中山治.1999.「ひとり勝ち社会」を生きぬく勉強法:勝ちぬくためにどう知力をつけるか.227pp.洋泉社.[B000124, y1,500]


リスク論、科学社会学・科学技術社会学[本]

2011年08月20日 11時31分49秒 | 放射能
2011年8月20日-2
リスク論、科学社会学・科学技術社会学[本]

 立石裕二『環境問題の科学社会学』は、リスク論に触れているようだ。

 
[H]
*平川秀幸.2010.8.科学は誰のものか:社会の側から問い直す.256pp.日本放送出版協会.[生活人新書328][y777]


[M]
*松本三和夫.1998.7.科学技術社会学の理論.365pp.木鐸社.[y4,200]

*松本三和夫.2009.9.テクノサイエンス・リスクと社会学:科学社会学の新たな展開.378pp.東京大学出版会.[y5,250]

[T]
*立石裕二.2011.4.環境問題の科学社会学.312pp.世界思想社.[y3,360]

[Y]
*若松征男.2010.7.科学技術政策に市民の声をどう届けるか[科学コミュニケーション叢書].256pp.東京電機大学出版局.[y2,940]


養老孟司『バカの壁』

2011年08月20日 10時39分43秒 | 生命生物生活哲学
2011年8月20日-1
養老孟司『バカの壁』

 昨日読んだ、養老孟司『バカの壁』の個体は、奥付けに「2004年4月10日 54刷」とあり、丁度一年前の「2003年4月10日 発行」とあった。かなりの発行部数になるだろう。
 当方の解釈装置あるいは感性が、著者とはだいぶ異なるからだろうか、感銘を受けた箇所は無かった。
 下記の『武士に二言はない』の箇所については、皆目理解できなかった。

  「もし、現代人に、「人は変わる」ということだけをたたき込んだら何が起るかというと、「きのう金を借りたのは俺じゃない」と、都合のいい解釈をするだけです。〔略〕
 人間は変わるが、言葉は変わらない。情報は不変だから、約束は絶対の存在のはずです。」

 約束とか情報は、AさんとBさんが取り交わしたものである。
 情報を不変だとみなすのは、それに関わる人どうしでの了解事項である。
 ところが、万物流転(少なくともそのような定式化は、人の作りもの)ゆえに、人という物は変わるのならば、

  約束(t1)=約束(A(t1)、B(t1))
 [時点t1での約束は、時点時点t1でのAと、時点時点t1でのBとの間に取り交わされた約束である]

  約束(t2)=約束(A(t2)、B(t2))
 [時点t2での約束は、時点t2でのAと、時点t2でのBとの間に取り交わされた約束である]

 ところが、「人は変わる」を、たとえばわれわれの物質的構成は変化しているから、たとえば身体を構成している細胞たちは、異なっていっているから、人としても異なっているとすると、

  A(t1) = A(t2) ではなく、かつ、
  B(t1) = B(t2) ではない

となるとすると、昨日のBが、昨日のAに1兆円貸したとしても、現在のBは昨日のBではなく、かつ、現在のAは昨日のAではないのだから、たとえ貸したまたは借りたとかの記憶が現在のAとBに残っているとしても、別人に借りたまたは貸したということになるから、債務関係は無いことになる。
 情報を担っているのは、人であるから、人の(なんらかの)同一性が無ければ、情報の同一性も保証されない。「違う人に貸したんじゃないの?」と言われて、証文を見せても、「それは<昔のわたし>で今のわたしじゃない、<昔のわたし>と<今のわたし>は人として違います。<昔のわたし>に金を返してもらってください。」と言われるかもしれない。また、貸した方自身も変化しているから、今は貸している者ではなくなるが、請求者の資格が無いとするのが妥当だろう。
 これが会社間での貸し借りでも同等である。社長などの構成員が変わっても、会社の同一性を保っているのは、そのように見なすことを定めている法律などを保証している人どうしでの契約や契約の有効性を担保している制度である。
 情報とは、物体の模様 patternが、それは情報だ(という種類に属する)とみなされてその内容が解読されて(解読が可能なのは、人の二者どうしで共通する取り決めが存在するからである。たとえば古代文字についての解読では、間接的だが、そのような仮定があるから、可能である。)、具体的な情報内容となる。
 結局、力は人の同一性とその意思に帰着する。
 
 ところで、

  「温暖化でいえば、事実として言えるのは、近年、地球の平均気温が年々上昇している、ということです。」(養老 2003.4.『バカの壁』24頁)。

とあるが、はたして、「年々上昇」したであろうか? 「年々上昇」を、「地球各地の平均気温の値が毎年増加した」と解釈すると、そうとは限らないだろう。
 しかしそもそも、「平均気温」とは統計的な作りものであるから、事実 factというよりは、

  「全球平均気温は、上昇傾向にある」

という命題は本当 trueである、とするべきことである(「上昇傾向」としておけば、或る年に下がってもよい。たとえば5年移動平均で単調増加していればよい。こうすれば、反確証されにくくて良い)。すると、気温とはなにか、特に「地球平均気温」とは、実際の計算では何をもとにしているのか、が問題となる。
 ところで、IPCC第4報告で採用された模擬計算の元となった各地の気温測定値(と測定条件)や使われた(いくつの?)モデルは、公表されたのであろうか?


 
[Y]
養老孟司.2003.4.バカの壁.204pp.新潮新書.
 

イデオロギーと歴史記述

2011年08月19日 13時57分12秒 | 生命生物生活哲学
2011年8月19日-2
イデオロギーと歴史記述

 イデオロギーの定義または、或る主張がイデオロギー的かどうかの基準はどうなのだろうか。
 下記は、「「イデオロギー」とはなにか」と題した文からの引用である。実証主義への批判であるようだ。

  「われわれは思考する存在なのだ。たとえば、正義とはなにか、国家の目的、歴史の意味はなにか、といった問題についてわれわれはいろいろと考えをめぐらさずにはいられない。われわれの思考は他の実在と同様、実在するものである。しかし、それを追求して行く者だけが理解できるのだ。ここには原理的な意味での「認識の汚染」はない。あるのはその思考が深遠か浅薄か、高貴か低劣か、独自のものか他に依拠したものか、中庸かファナティックか、善か悪か、という区別である。そして、それ自体不確かなこうした区別の方が、あらゆるレヴェルの差を平均化せざるをえないイデオロギーの概念よりは、思想家の価値を明らかにするには役立つ。もちろん、悪しき思考、虚偽、無内容な思想、もったいぶった弁舌を、内容の充実したものに対比して「イデオロギー的」と呼ぶことにはやぶさかでない。しかし、そのような区別をするなら、もっと正確な言いまわしを用いられるようおすすめする。」
(マン 『歴史論II:尺度と価値』132頁)。

 アーサー・ダント〔Danto ダントォ?〕の『物語としての歴史』の見解はどうなのか。

 
[D]
ダント,A.C. 1965, 1966.(河本英夫訳,1989)物語としての歴史.390pp.国文社.[B000919, y4200]
 
[M]
マン,ゴーロ. 1961.(加藤二郎・宮野悦義訳,1973)歴史論II:尺度と価値.189+vi pp.法政大学出版局.[B740304, y950]


リスク論の乱用

2011年08月19日 13時00分29秒 | 放射能
2011年8月19日-1
リスク論の乱用

 こんにちの社会は、外を歩けば数多くの危険に出会うことになる。家の中にいても、たとえばシック病にかかるかもしれないし、クレーンが倒れてくるかもしれないし、車が飛び込んでくるかもしれない。

 さて、リスク論の考え方そのものの(要文献)、あるいは、リスク論の適用での(要文献)、問題点はいくつかの段階(要文献)で考えられる。もともと政治的意図を入れやすいところがあると思われる(要文献)。

 平川秀幸(2011.5)「三・一一以降の科学技術ガバナンスに向けて:過去を通じての未来へ」では、<リスクの「合理的理解」を盾にした「リスク受容の要求(ときには強要)」について触れられている。浜岡原発の耐震性を主題とした、1998年頃の科学技術庁(当時)での討論会のやりとりに触れてのことであるが、論点はリスク論に関わっており、一般化できるものである。たとえば放射能汚染あるいは放射線被曝に対してである。

  「なるほど、かつては絶対安全と言い張るだけだった原子力の行政や専門家がリスクの存在を公然と認めたことは大きな進歩だろう。しかしそこには、リスクの「合理的理解」を盾にした「リスク受容の要求(ときには強要)」の意図が見え隠れしている。 ここでリスクの合理的理解とは次のようなものだ。第一に、リスクは科学的に理解しなければならない。すなわちリスクとは、ある損害の大きさにその発生確率を掛けたものであり、大きなものもあれば小さなものもある。そして原発が全電源喪失などによって過酷事故を起こす確率は、極々低確率であるため、事実上無視できる。第二に、あるリスクを削減するかどうか、するとすれば、どれだけ削減するかは、そうするためのコストや、逆にリスクを引き受けることで得られるはずの便益(たとえば薬の副作用のリスクを引き受けることで得られる治療効果)とのつりあい、身の回りの他のリスク(たとえば自動車事故や喫煙のリスク)との比較によって、判断されねばならない。あるリスクの削減にコストを掛けすぎれば、他のリスクの対策を圧迫することになるし、便益を得たければリスクも引き受けねばならない。自動車や喫煙のリスクは受け入れているのに、それよりはるかに小さな原子力のリスクを受け入れないのは辻棲が合わない。第三に、あるリスクを小さくすることは、別のリスク(対抗リスク)を大きくすることもある。たとえば薬の副作用リスクを下げると効能も減り、病気がなかなか治らないというリスクが高まる。そして、これらの考え方に反し、小さなリスクでも不安になったり、さらなる削減を要求したりするのは、リスクに関する科学的理解が足りないか、不合理な「ゼロリスク指向」だと批判される。上の科技庁でのやりとりで専門家が主張しているのは、そういうことだ。そして、これらのことを理解して安心するか、安心できない場合でも「正しく怖がる」こと。三・一一以降の放射能汚染についても、そうすることを説く言説をあちこちで見聞きした。 こうした考え方は、個人としても社会全体としても、数多あるリスクに対処していくためには不可欠の考え方ではある。しかし常に適切なわけではない。今回の事故に照らしていえば、何が正しい怖がり方かの基準自体が揺らいでいる。」(平川秀幸 2011.5 176頁)。

 「こうした考え方」とは、どこからどこまでを指しているかわからないが、少なくともすべて不可欠とは考えないような社会にすべきだろう。
 自動車については、衝突防止装置を装備した車を販売すべきであろう。少なくとも、受動喫煙にはならないように、全国禁煙にする。など、など。

 さて、論理的筋道を明示的にすると、下記の通りとなるだろう〔要記載〕。

  *************
  *************
  *************

 
[H]
平川秀幸.2011.5.三・一一以降の科学技術ガバナンスに向けて:過去を通じての未来へ.現代思想 39(7): 172-177.


佐々木力(2000)『科学技術と現代政治』

2011年08月18日 17時58分06秒 | 生命生物生活哲学
2011年8月18日-1
佐々木力(2000)『科学技術と現代政治』

 佐々木力(2000)『科学技術と現代政治』は、まったくの積ん読状態のままだったが、昨日の夕方、一部を読んだ。

 この本についてのAmazonでのカスタマーレビューは1件あり、その評価段階は星一つで、「とてつもなくイデオロギー的に偏向した思想喧伝本で」、「2章以外は読むに堪える内容がありません」と評している。
http://www.amazon.co.jp/%E7%A7%91%E5%AD%A6%E6%8A%80%E8%A1%93%E3%81%A8%E7%8F%BE%E4%BB%A3%E6%94%BF%E6%B2%BB-%E3%81%A1%E3%81%8F%E3%81%BE%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E4%BD%90%E3%80%85%E6%9C%A8-%E5%8A%9B/dp/4480058524

 さて、

  「現代日本の原子力政策はより適切には「国策民営」体制(原子力委員会の藤家洋一委員長代理の言葉)として規定されえます。国家が政策の基本的枠組みを決め、実際に政策を遂行するのは、民間の巨大な電力産業各社および今回事故を起こしたJCOなどの原子力関連資本なのです。このことをとらえることなくして、現行政策策定の「無責任さ」の根源を理解することはできません。現代日本「原子力帝国」は、「国策民営」路線として実行されているのです。」(佐々木力 2000: 127-128頁)。

と、国策民営体制と捉えている。

 JCO事故を受けて、

  「核燃料サイクル開発機構の都甲泰正理事長は、十一月十五日に開かれた原子力長期計画策定会議の席上、「新エネルギーも含めてエネルギー政策全般を見直して、原子力なしで何とかなるのかという議論を深めてもらいたい」と発言し、出席者を驚かせたといいます(朝日新聞、十二月二日朝刊)。〔略〕そして、通産省の諮問機関である総合エネルギー調査会の茅陽一会長も「これからは原子力がない場合の絵も描いて、選択肢を示す必要はあると思う」と述べています(同前)。」(佐々木力 2000: 127-128頁)。

と、一時は(一部で?)見直し論が出たようである。

 第三章の第3節は、原発推進の問題点が明瞭に書かれており、また示唆的である。その前では、1999年9月30日に起きた東海村JCO事故に関連して、佐々木氏は「私はかねてより原子力推進論者の言い分が「原子力神話」と呼ぶべき虚構にすぎないことを明言しておりました」と述べている。
 
 佐々木力(2000)『科学技術と現代政治』の第三章は、「脱原子力への道と現代日本政治の技術政策」(113~170頁)である。その第3節(128~147頁)は、
  1 支配権力の政策の論理構成と方向
  2 脱原子力運動の岐路
となっている。
 
 佐々木力氏は『科学技術と現代政治』の130頁以降で、「現代日本の行政権力が原子力推進路線を走り続ける理由」を、「簡明に整理して点検して」いる。
  1. 近い将来の経済成長にとってエネルギーの右肩上がりの増大が必要であり、そのためには、原子力発電の継続のみならず、原発の増設も必須だと考えられていること。(130頁)
  2. 原子力は地球温暖化を抑止する「クリーン」なエネルギーだということ。(131頁)
  3. 放射線の人への悪影響はごく軽微であり、リスクは無視できるほどだということ。(132頁)

  「 第三に、原子力推進論者は、原子力の必要性を訴える際に、放射線の人への悪影響がごく軽微であり、リスクは無視できるほどだ、と主張いたします。たとえば、自動車事故や飛行機事故のことは無視し、原子力に伴う事故のことで大騒ぎをするのはおかしいではないか、というような議論を大まじめにいたします。統計上の数値を持ち出して〝科学性〟を装ったりもします。これは科学史上「統計の嘘」と言われる虚偽論法の一種ですが、素人はついだまされてしまいかねません。換言すれば、統計はさまざまなコンテクストを前提にして初めて十全な意味をもつからです〔なお、チェルノブイリ事故から十四年経過し、ロシア当局は、事故処理にあたった作業員のうち、五万五千人以上が死亡し、その多数が将来を悲観しての自殺であったという驚くべき事実を発表した。朝日新聞、二〇〇〇年四月二十一・二十七日朝刊〕。また、炭酸ガスを放置し、自然放射線を浴びて、原子力に伴う放射線についてだけうるさく言うのは問題だ、といった異論を立てたりもいたします。」(佐々木力 2000: 132頁)。

 また、

  「ゴフマンは、プルトニウムの発見者シーボーグらとマンハッタン計画にかかわった経験をもつ物理化学者でした。戦後は医学研究に転身しますが、放射線の影響に関しては、明確に〝ある〟という見解を打ち出していたポーリングらよりは楽天的にとらえておりました。それで、原子力推進論の当局者たちは彼におおいに期待していたのですが、ゴフマンが懸命の研究の末、出した結論は、低線量の放射線の影響は過小評価されすぎており、実際には従来の定説より二十倍ほど大きい、というものでした。この結論に対して、原子力推進機関は、ゴフマンヘの批判を執拗にやったり、研究予算を削減したりの報復行為に出ます。ゴフマンは、こうして自分の研究所の辞職を余儀なくされます。ゴフマン日く、「政府は真理を求めない。〔……〕誠実さは彼らの欲するところではない」。(佐々木力 2000: 134頁)。

 
[S]
佐々木力.2000.6.科学技術と現代政治.233+v pp.筑摩書房.[B001130, y660]


実験と虚験、モデルと計算

2011年08月17日 11時00分52秒 | 生命生物生活哲学
2011年8月17日-2
実験と虚験、モデルと計算

 コンピュータ・シミュレーションを、「模擬実験」と呼ぶ人がいるが、「思考実験 thought experiment」と同様に、実験ではなく、(あえて名付ければ)虚験である。つまり、数値計算自体は当然ながら、現実と照合しているわけではない。(数値計算する際の問題はさておき、)その計算の元となる模倣モデル simulation model のたとえば予測上の信頼性は、そのモデルがどのような種類と程度で確証されているか、つまり現実と照合されているか、に関わる。

 下記は、池田清彦(1996.5)の「実証実験が不可能な科学的安全性とは何か」という節(あるいは章?)からの引用である。

  「巨大科学技術における安全性もまた、実は厳密には実験により実証されているわけではない。それはあくまでもシミュレーションにすぎない。たとえば、原子力発電所の安全性を実験により確かめるためには、実際に事故を起こさせて放射能がもれるかどうか確かめてみればよい。しかし、もし現実に放射能がもれてしまえは大事故になるから、そんなことは恐ろしくてできない。そこで水素を燃やすなどのシミュレーション実験を行〔な〕ったり、コンピュータで事故確率の計算を行〔な〕ったりして、科学的に安全だと言っているわけである。
 耐震性もまた、実際の地震を起こして確かめているわけではない。震動実験を行〔な〕ったとしても、それは安全性を実証しているわけでなく、安全に関する理論により安全性を予測しているにすぎない。最大の問題は、安全性に関する理論は未来に起こる地震の規模や手抜き工事の確率を予測できないところにある。だから事故が起きたとき、理論は多くの場合、事故は理論的予測の将外の問題であるとして、反証を免れようとする。しかし、よく考えてみれば、実際に事故が起きたときに反証を免れる安全性理論とは何か。それは「大地震が起きなければ安全です」と言っているに等しい。
 科学的安全性とは、実は安全を保障するものではなく、巨大土建事業にゴーサインを出すための装置のひとつにすぎないことを阪神大震災は見事に暴いてみせた。それでもニッポンは、科学的に安全な高速道路や新幹線や原発をこの先もずっと作り続けるつもりなのか。」(池田清彦 1996『科学教の迷信』: 96-97頁)。[この文章の初出は、『図書新聞』1995年4月8日号だと、217頁の「初出一覧」にある。]

 
[I]
池田清彦.1996.5.科学教の迷信.220pp.洋泉社.[B960609, Rh960611, y1900]


田中角栄(1972)『日本列島改造論』で原発推進に言及?

2011年08月17日 10時35分07秒 | 生命生物生活哲学
2011年8月17日-1
田中角栄(1972)『日本列島改造論』で原発推進に言及?

 一週間程前、田中角栄(1972)『日本列島改造論』に原発推進のことが書いてあるかな、と思ってちょっと探したが、書いてないと思った。

 朝日新聞2011年8月17日3面の「原発国家 田中角栄編 下 自立奪った電源三法」という記事では、この『日本列島改造論』(確か、ゴーストライター〔代作者〕は誰だかがいたという話があった)で、「原発推進にも言及している」として、下記を引用している。

  「地元は潤すものが少なくて、公害だけが残るというのが言い分だ。地域社会の福祉に貢献するような発電所づくりを考えないといけない」

 しかし、ここでの「発電所づくり」は原発だけを指していると解釈できるのだろうか? この文章は何頁目にあるのだろうか? 

 なお、『時局シリーズ 第六集 あすの暮らしを守る?? 原子力発電:その魅力と安全性』という42頁の冊子が、ある。奥付けは昭和56年〔1981年〕7月31日発行(100円)となっている。
 その最後の「むすび」では、

  「すでに原子力発電は技術的に確立し、少量のウランで大量のエネルギーを出し、発電コストも石油火力の半分という利点があります。自動車事故では年間一万人の人が死んでいますが、原子力の事故で死んだ人は過去に一人もいないのです。しかし、より安全性の向上に努めることで、原子力発電の発展を期したいと思います。」(自由民主党広報委員会出版局.1981.7『原子力発電 その魅力と安全性』:41-42頁)。

 「チェルノブイリでは多数の死者が出たが、福島原発事故では死者はゼロです」とか、言った人が一人以上いたと記憶する。
 
[J]
自由民主党広報委員会出版局(編).1981.7.時局シリーズ 第6集 あすの暮らしを守る?:原子力発電 その魅力と安全性.42pp.自由民主党広報委員会出版局発行.[y100][表紙、中表紙、そして奥付で記載されている表題が少しずつ異なる。[(どこで?)1981.11.12入手。]


[T]
田中角栄.1972.日本列島改造論.vi+219pp.日刊工業新聞社.[y500]


リスク評価による行動選択の落とし穴

2011年08月16日 22時53分43秒 | 放射能
2011年8月16日-1
リスク評価による行動選択の落とし穴


  「ときおり緊急の目覚まし電話が鳴り響き、われわれを立ち止まらせ、用心するように促す。その一例は、東海村の核燃料加工工場で一九九九年九月に起きた臨界事故である。悲劇的な事故の真相が明らかになり、放射線がまき散らされ、気分が悪くなる者が出てくるにつれ、現地の地方自治体の当局者は、危険を避けるために何をするのが最善なのかという問いに直面させられた。住民を疎開させるべきか否か、住民をドアを締め切った屋内にとどまるよう要請すべきか否か、といった問いである。技術システムを生み出したり、それを管理したりする人々が、もっと知恵を働かせていれば、こうした種類の苦渋の選択が起こることを予期し、それを避けることができたはずである。大きな災難がわれわれに降りかかるのを座して待つことはない。」(ラングトン・ウィナー (吉岡斉・若松征男訳,2000)「日本語版への序文」、『鯨と原子炉』:7頁)。

 上記は、ウィナー『鯨と原子炉』の「日本語版への序文」に書かれたものである。
 結局、東海村JCO臨界事故の後では、柏崎刈羽原発事故もあったが、多くの日本人は福島第一原発事故を、当局の隠蔽と国民の騙されやすさと無関心の上に、座して待ったことになるだろう。
 
 さて、危害、危険、危機といった語の意味を調べてみる。

  「危害。身体・生命・物品を損なうような危険なこと」(大辞泉)。
  「危険。生命や身体の損害、事故?災害などが生じる可能性のあること」(大辞泉)。
  「危機 〔crisis〕。悪い結果が予測される危険な時?状況。あやうい状態」(大辞泉)。
  「リスク risk。1 危険。危険度。2 保険で、損害を受ける可能性」(大辞泉)。
  「使い分け。〔略〕【2】「危険」は、広く危ないことを意味するが、「危機」は、危ない場面、境遇に焦点が当てられている。英danger【3】「危険」と「危機」では、「危機」の方がやや硬い表現であると同時に、一般に危なさの度合いも大きく感じられる。」

  「危険。(a) danger; (a) hazard; 〔差し迫った,大きな危険〕peril; 〔冒険,賭けに伴う〕(a) risk」(プログレッシブ英和中辞典)。
  「危害。(an) injury; harm」(プログレッシブ英和中辞典)。
  「害。harm (▼物質的精神的肉体的な害について広く用いる); 〔損害〕damage」(プログレッシブ英和中辞典)。

 
 さて、訳者あとがき(この執筆者は吉岡斉氏)の287頁に、「「リスク」概念については第八章で、精密な批判的分析が展開されている」と書かれている。そのウィナー『鯨と原子炉』の第八章「タール人形につかまらないために」から、下記を引用する。

 
  「相対的なコストとベネフィットのバランスを進んで取ろうとする姿勢は、自分の状況を記述するために「リスク」という概念を採用すること自体に内在したものである。ふつうに使うとき、この言葉は損害の大きさを可能な利得に対して測った人の立場からの「損害のチャンス」を意味する。人はリスクにどう対処するか? 時には人はそれを引き受けることを決心する。いっぼう危険【ルビ:ハザード】にはどう対処するか? ふつう人はそれを避けるか、除去することを求める。ビジネスでの取引、スポーツ、そしてギャンブルでは「リスク」という概念が使われている。そのことはこの概念がきわめて密接に、自発的な企てという感覚と結びついているさまを表わしている。〔略〕
 〔略〕「危険」【ルビ:デンジャー】、「危険」【ルビ:ハザード】、「危険」【ルビ:ペリル】の概念とは対照的に、「リスク」という概念は、問題となる損害のチャンスを利得の期待のもとに進んで受け入れるということを意味する傾向にある。」(ウィナー 『鯨と原子炉』: 233-234頁)。

 
  「日常生活はリスクに関するさまざまな種類の状況に満ちている。これに注目して現代のリスク評価は、一連の心理学的な紛糾の種に焦点を当ててきた。それは科学的不確実にかかわる困難や、リスク/コスト/ベネフィット分析の計算にかかわる困難の上に、さらに困難を積み上げるものである。人々は実際直面するリスクを正確に評価するだろうか? 彼らはどのくらい上手に、そのようなリスクを比較し、評価することができるだろうか? なぜ彼らは他のリスクではなく、あるリスクに焦点を当てようとするのだろうか? 数多くの興味深く、また有効な心理学的研究が、そのような疑問に答えるべく行なわれてきた。概してこれらの研究は、日常的活動に含まれる損害の相対的チャンスについて、人々がかなり曖昧に理解していることを示している。そのような知見に、現代生活におけるさまざまな状況の中でこうむる傷害者数と死亡者数の統計的比較を重ね合わせて考えると、なぜ人々がある種のリスクについて心配し、他のリスクについては心配しないのかという問題は、まことに謎に包まれたものとなる。
 この謎をレトリックとして使おうとする者もいる。彼らはしばしば、人々のリスク感覚における混乱を引き合いに出して、ある特定の原因による損害のチャンスに焦点を当てる者の主張の評判を落とそうとする。あのいまいましい傷害と死の原因である自動車を運転する人は、いったいなぜ原子力や大気汚染の程度について心配するのか? この種の不快を催させる比較は、人々の技術的危険【ルビ:ハザード】についての恐怖が、まったく不合理であるということを示すためにときどき用いられる。たとえばこの見解のある指導的な提唱者は次のように論じる。「心理的、社会的問題をもった人々が、技術進歩に不安をいだくのは驚くにあたらない。その恐怖は、高層建築物のエレベータに対する不安から、煙探知器からの『放射線』についての懸念に至るまで、幅広い事柄にわたっている。決まって、これらの恐怖は、精神科医が恐怖症と分類する内的不安を、置き換えたものである」。こう書いた著者は、ふつうの人は現代技術がわれわれすべてにもたらした数えきれない益を思い出すことによって、そのような恐怖症を克服することができると説明している。「健全な心をもった人々は、驚くべき物質的な利益にしばしば伴う無視できるほどのリスクと小さな不便とを受け入れるのである」。」(ウィナー 『鯨と原子炉』: 234-235頁)。

 この後でウィナーは批判しているが、それはさておき、最後の文での「健全な心」というのは、そう書いた或る著者が勝手に決めただけで、心の健全性を個々人について測定したわけではないだろう、おそらく。

 「タール人形」とはなんだろうと思って、ネット検索すると、「タバコってなんですか? 日本のタバコ規制が進まないのは財務省、JT、悪法・たばこ事業法の三悪が元凶です。」という網所に、

  「たばこの健康被害を訴えるため、シドニー中心部に設置された人形」
http://blog.goo.ne.jp/tankobu_x/e/8247ea82666d95b50fd104c3a342bcb7

とあった。




 
[W]
ウィナー.1986.(吉岡斉・若松征男訳,2000)鯨と原子炉:技術の限界を求めて.306+xiii pp.紀伊国屋書店. [Winner, Langton. 1986. The Whale and the Reactor: A Search for Limits in an Age of High Technology. The University of Chicago Press.] [B000327, y2,600]



俳句の三つ組

2011年08月15日 18時45分58秒 | 詩 poetry
2011年8月15日-4
俳句の三つ組

 京大俳句第26号(昭1973年5月26日発行)の11頁に、「文修二 上野ちづ子」氏の、「beaujolie亭通信?その一」と題して11句が掲載されている。
 そのうちの下記の三句を三つ組に見立てるとどうだろうか?

  深海魚の眼になって見る雨の森

  薔薇また咲かずに終わるわたしの部屋

      あかり   あか
  指這わす灯火に指が赫かりき

 
 あるいはまた、順番を変えてみるとどうか?


炭素排出権取引

2011年08月15日 13時49分37秒 | 生命生物生活哲学
2011年8月15日-3
炭素排出権取引

  「市場原理主義者は、市場は環境保護問題を処理〔take care of〕できるという神話を流布してきた。あなた、『炭素排出権 carbon credits』を買えば、汚染するのは自由ですよ、というわけだ。なぜ、環境的犯罪についてのこの考えを、日常的犯罪へと一般化しないのか? 『血液排出権 blood credits』を発行することによって、血液排出権を買うことができる限りと同量に多くの殺人を犯すことが、購買者はできるようになるではないか? しかしながら、すでにこの考えは市場化されてしまった。すなわち、どのマフィアも、このような契約にならどれでも、手頃な料金で署名するだろう。」(Bunge, Mario. 2008, "Political Philosophy", p.284)[20110815試訳]。

 (ただし、この文章の前後に見られる、Bunge氏の京都議定書と国連の気候変化〔変動〕に関する政府間パネル(IPCC)についての評価は、うぶ(naive)すぎると思う。)

 
 炭素排出権取引は、実質的に二酸化炭素などの温室効果ガスの排出量を減少させるとは思えない。商売人には金儲けの機会であるが、詐欺になるだけだろう。
 (ところで、もし二酸化炭素濃度の上昇が問題であるのなら、たとえば縄文杉を燃やせば、それだけの分、濃度が増えることになる。二酸化炭素濃度の分布はすぐにほとんど一様になるらしいが、少しの濃度の地理的差異がそれなりの効果を気象に対して及ぼすのでなければ、たいして問題は無いだろう。少なくとも、毎年1兆円規模と言われる予算を他の緊急の問題、たとえば放射能消滅方法の研究とその科学技術の開発に回すべきだろう。)

 さて、武田邦彦氏の「温暖化で日本がふたたび孤児にならないように」
http://takedanet.com/2011/01/post_5a9d.html
の一部を引用しておきたい。

===
  「地球温暖化で言えば、京都議定書で「実質CO2削減」をしているのは日本だけで、それが日本ではまったく報道されなかったことや、なぜ、地球温暖化や生物多様性の環境問題の提案をしたアメリカが、今では両方にほとんど参加しなくなったか、などの報道は一切、行〔な〕われていない。

でも、新聞を批判していても仕方がないので、ここ1年の温暖化に関する世界の動きを紹介しておきたい

・・・・・・・・・

1) 2009年11月 温暖化防止の急先鋒だったオーストラリア議会が温暖化防止法案を「否決」

2) 2009年12月 フランス議会が温暖化防止法案を「否決」

3) 2009年6月 アメリカ下院が温暖化防止法案を可決したが、その後上院で審議もできず(アメリカでは上院が国家的な方針を決める)。下院も地球温暖化特設委員会を解散

4) 2010年11月 カナダ、地球温暖化法案を上院が「否決」。

5) 2010年  アメリカ唯一の炭素取引所として2004年から営業を開始していたシカゴ気候取引所が閉鎖を決定(炭素トンあたり5セントに下がり、1年近く取引ゼロに陥った)

6) 2010年12月にメキシコでおこなれた地球温暖化の国際会議には、アメリカから閣僚級も出席しなかった(1年前のCOP15ではオバマ大統領、クリントン国務長官が出席)

7) 2009年11月に起こった「温暖化データねつ造暴露事件」でIPCCの報告書などが報告していた元資料の内、5400件がずさんな引用だったことが判明した。

・・・・・・・・・

少し前まで毎日のように報道していた地球温暖化のことだから、報道に誤りがあれば直ちに修正していくのが新聞の読者や視聴者の方を向いている事になる。

しかし2010年5月に行われた日本学術会議のシンポジウムでの大新聞記者の発言のように「いまさら訂正できない」という雰囲気だ。

新聞が事実を報道できないのは確かだから、それを批判しても仕方がない。それは日本人がまだ新聞という報道方法を持つだけの「職業人の誇り」をもてない。

でも、IPCCのデータに大きな誤りがあり(多くは故意)、これまでの味方を修正しなければならないことを事実を知りたい人は知っておく必要があるだろう」
http://takedanet.com/2011/01/post_5a9d.html

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 ところで、核分裂型原子力発電という放射性物質を放出するような事故については、『リスク』論や費用便益分析といった考え方、あるいは少なくともこれらの考え方だけでは、問題があると思う。