あしたのタネをまく、アシタネブログ!

今日よりちょっといい、明日にしませんか

ご縁をいただく

2014年05月28日 04時40分51秒 | 出会いと経験

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(レストルームから見える風景)

職場で私は、昼食を近くの生協のレストスペースを利用する。以前は、近くのファミレスやハンバーガーショップを利用していたが、同じメニューに飽きていたところ、県外に送る荷物を持ち込んだ時にこの場所を知った。

お弁当もレトルト製品もパンも、その日の気分で購入でき、このレストスペースで食事をすることができる。電子レンジや無料の飲み物(お茶・冷水)なども完備している。その上、コピーや郵便物や宅配の手配もできる。ボランティア団体の事務局を預かっている身としては、本当にありがたい存在。

先日、中学時代の友人と20代の頃ボランティア活動を一緒にした仲間がこの見せで働いていることを知った。
ふたりとも、いきいきと働いている姿を見ると、言葉に尽くせない気持ちになる。また、高校時代の同級生に偶然会えた。このようなご縁をいただき、本当にありがたい。

勤務先では、人生の師といえる先輩の下で仕事をさせていただいている。
人の幸せは出会いから始まる。その出会いに気付き、良い出会いを重ねていくことが、豊かな人生に必要だと言われている。人との縁を大切にし、育みながら、日々感謝して努力を積み重ねたい。


K姉さんとの出会い

2014年05月02日 04時03分49秒 | 出会いと経験
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K姉さんと3ケ月に1度、会食している。写真は、平和公園にあるお店オーガニックレストラン_SIZEN(シゼン)ランチ風景。出会いは、昨年の1月、所属している会を通じて知り合った。

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現在、K姉さんは華道教室を開きながら、講師業もしている、その合間を縫って孫育ても家事もしっかりこなしている。

先日は、講演会のネタのことや、講演会場の盛り上げ方など、アドバイスをいただいていた。講師としての実力はもちろんだが、K姉には、人としての「華」があるようにも思う。人気講師は違うな~と感じたところだ。

身の回りに起こることは、すべて意味があることだよと、私の失敗談を聞いていただいて、意識を変えて取り組むようにとの励ましをいただいた。

「大丈夫、きっと上手くいく」「そろそろ次のステージへ」など、言葉のプレゼントとして、人に伝えていくということも学んだ。

出会いが未来を変えると、いろんな本などにも書いているが、出会いが人生を左右することが多いと、この年になって深く思う。→遅いかも・・・(汗)。日々の出会いを大切にして、楽しい夢を見ていきたい。




出会いが人生を変える

2013年04月21日 09時34分52秒 | 出会いと経験

1980年8月21日、それは、運命を変えた出会いの日。

学生時代からギターの弾き語りをしていた私は月に一度、ギターの絃を買いに楽器店に立ち寄っている。

楽器店の店長から、「ボランティアコンサートで歌う人を募集しているので参加してみない」と声をかけられた。21歳になったばかり私は、新しい何かをしたいとの思いから、まずはボランティアコンサートの実行委員会を見に行くことに決めた。その会議の日が8月21日。40年以上も前の事だ。


(1980年 第1回延岡ふくしコンサート)

会場につくと、多くの方が議論を重ねていた。その中でも一人の女性が光っていた。衝撃を受けた。言葉の力凄さや身のこなし方、スピード感、優しさ、そのすべてに一瞬でファンになった。その人の名前は、大神のりえ(以下のりえ)さんだ。

その日から実行委員会に入り、活動をつづけながら。大神さんの自身活動のお手伝いをする中で、いろんなことを学んだ。のりえさんの一番の魅力は、学生時代リックサックひとつでユネスコ本部を訪ねる行動力や優れた国際感覚、人間観だ。

これまで、いろんな人がのりえさんと出会うことで、元気になった人をたくさん見てきた。言葉がけやのりえさんの考え方や姿勢を通して、人が変わっていく、教育って素晴らしい。その思った。

それから、のりえさんがおこなうことには、すべて協力した。頼まれたら、断らない。さまざまな活動に足を運んだ。

それから数年後、大神さんから、「青年の船に乗船したらどう。あなたにはその資格がある」と勧められ受験。合格し、1年後、オセアニア地域へ50日間、総理府から派遣された。

青年の船に参加して、自分自身の世界観や平和への想いを新たにした。その後、ローターアクトクラブやユネスコなど、さまざまな活動を通して、知識に磨きをかけたり、多くの友人・知人をつくることができた。



(音楽でも活躍する大神さん)

また、自身の子ども達への教育にも役立ったように思う。船の話や地域づくり活動に積極的に参加させた。そのせいか、中学から自主的に海外でのホームスティを経験する中で、子ども達の国際感覚が磨かれたように思う。現在、長女は外資系企業で働き、次女は今月からフランスへ遊学しその後縁あって、同国の青年と結婚した。

振り返ってみると、音楽好きだった私が社会活動に目覚めたのは、のりえさんの力によるところが大きい。実際、のりえさんは優れた教育者であり、活動家でもある。これまで多くの若者を育ててきた。また30程年前、インドバンガロールに「インド国際こども村ハッピーバリー」を建設・運営しており、世界青年会議所から、TOYP大賞(傑出した若者に送られる)を受賞している。


(のりえさんとのツーショット25年前)

出会いは人生のターニングポイント。出会いが運命を変えていきます。
これから、のりえさんへの恩返しの意味でも、学んだことを次の世代へ伝えていきたいと思う。


社会人になって、35年。続けてきたから未来がある。

2013年04月01日 21時29分53秒 | 出会いと経験

高卒後、現在の会社に入社して、35年が過ぎた。また、高校時代からライブ活動、そしてボランティア活動もそのまま続けた。仕事との両立は厳しく、朝5時に出社しての仕事や日曜出勤などをこなすなど、苦しい時が何度もあったが何とか止めずに続けている。

この間、仕事や音楽を通じて多くの出会いがあり、いろんな活動へも参加するなど無駄な経験は無かったように思う。すべて自分のキャリアとして残っている。
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(1979年6月バンド活動)
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(のべおか福祉コンサート立ち上げから5年間手伝う)
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(街角ライブの様子が新聞で報道される)
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(延岡ローターアクトクラブで10年活動、世界に仲間ができた)

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(7年間の音楽祭に幕、たくさんの方に支援していただいた)

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(TOYP(傑出した若者)大賞を受賞)

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(初めてネットで画像配信された九州沖縄音楽祭)

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(ロータリークラブから優良従業員賞をいただく)

変わったこと、変わらなかったこと・・。35年という日々。現役として活躍できる時間はあと何年?そう考えると、今を大切にしていくことが重要だと感じる。

意識して動く、意識して考える。流されない。


地下駐車場で女神と出合う!?・・

2013年01月13日 11時56分26秒 | 出会いと経験

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宮崎市民活動センターの地下駐車場で「女神」を見つけた・・。
数年来、駐車場も使っているけれど、初めて・・。

いろんなシミはあるけれど、よくできたシミなので、写真を一枚・・・。
今年はいいことあるかも
どうぞ女神が微笑んでくれますように・・・


デフ・パペットシアター・ひとみ30周年記念作品「森と夜と世界の果てへの旅」

2012年11月02日 06時55分02秒 | 出会いと経験

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ろう者と聴者が共につくるデフ・パペットシアター・ひとみ30周年記念作品「森と夜と世界の果てへの旅」~それは、遠くて、近い、誰かの、私の物語~を10月23日(火)を宮崎市民プラザオルブライトホールへ観に行った。


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原作は、エイモス。チュツオーラ(ナイジェリア出身)の「やし酒飲み」
ストーリーは、主人公ジュジュマンは、やし酒が大好き。やし酒名人のヤシオーが死んだのち、ヤシオーに会うために、世界の果てまでの旅に出る。途中、いろんな苦難に不思議な出来事に遭遇しながら、生きるという物語。途中、家族ができたり、恐ろしい赤ん坊が生まれたり・・アフリカの民話や民間伝承を基にした独特の世界観・・が表現されている。日本の古事記にも、黄泉の国へいくという話があり、民間伝承とはいえ、相通じるものを感じた。


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人間の持つ深いこころの闇や愛情、善と悪など、目に見えない存在が人形たちによって舞台で表現される。主人公ジュジュマンは、ピンチも何度も訪れるが、乗り切って生きていく。


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「・・・そもそも人間をやっていること自体、なにかなんやら。妙ちくりんな連中が飛び跳ねて悪さをする世界で、そんな世界の住人がたまたまいろんな仮面を被っているだけ、と思えば、ふうむ!と納得できなくもない」とパンフレットに書かれたあったが、奇妙な物語も人間世界の縮図なのかもしれない。


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また、人形の動きも人のぬくもりを感じる箇所が随所にあった。印象的な場面は、奥さんの両親と死者のまちで出合った時、一緒についていこうとする妻、ひきとめる主人公。顔がライトのあたる角度でいろんな表情を見せたり、手の動きだけで想いが伝わってきたりと、人形劇の面白さを改めて感じた。
舞台は白に貴重にしたもので、深い闇や印象を表現していたし、ジャンベの音(木をくりぬいたものにヤギの皮をはられたもの)や鐘のような音も心地よく響いた。


ローターアクトクラブで活動10年間の足跡

2012年10月27日 06時33分03秒 | 出会いと経験

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(毎年実施した養護学校でのもちつき大会)

1978年、社会人になった私は、会社の先輩からの勧めでローターアクトクラブに入会した。今年で卒業して25年を迎えたので、振り返ってみることとした。ローターアクトクラブは、18歳から30歳(在籍当時は28歳迄)までの青年男女のための、ロータリークラブが提唱する奉仕クラブで、159の国と地域で7,833クラブ18万人の会員(2005年5月現在)がいる。

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(緊張した会員大会にて体験発表)

18歳で入会したこともあり、年上の方が多く、最初は馴染めなかったが、知らないうちに活動の魅力に引き込まれていった。特に先輩達が役職を引き受け、その役割を果たしていくなかで成長していく姿は、とても眩しく思えた。いつかは自分も・・・と思うようになった。

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(毎月開催した会員のための誕生会) 

転機は22歳の時、クラブ奉仕委員会の委員長を引き受けた時のこと。これまでは誘われて行事に参加していたものが、企画する立場になり、意識が変わった。さまざまな行事の企画や準備をする中で、満足につながる企画づくり,事前準備の重要性、リスク管理、共同して進めることの大切さを学んだ。

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(ツアーバスを仕立てて、故郷の魅力を再発見ツアーを企画運営)

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(忘れられない大分臨海ローターアクトクラブとの交流)

ロータリークラブが提唱したローターアクトクラブは、「職業を通しての奉仕とは・・社会への奉仕とは、国際奉仕とは、クラブ内(会員への)奉仕とは」など、ロータリーの理念に基づく会の運営をしている。そして、その理念を自分達なりに理解しながら活動を進めていた。 一方、活動をしていく中で自らが企画したことで、みんなが喜んでくれることに充実感、やりがいを感じるようになった。振り返ってみれば、勉強が苦手だった私、人と交わることが苦手だった私・・そんな私も成長できたように思う。 そしてさまざまな大会や行事にも参加し、多くの友を得た。

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(1986年 地区大会を延岡で開催)

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(創立15周年記念式典の実行委員長を務めた)

年間の在籍中、主催行事が一番思い出に残っている。それは、延岡ロータアクト創立15周年記念式典だ。行事では、その意味と意義を考え、資料の収集整理やこれからの展望、関係者をつなぐなど、さまざまな取り組みをした。人生最初の大掛かりなイベントの成功が以後の活動へとつながった

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(鹿児島での研修後の一枚)

こころの中には、たくさんの先輩達の想いが宿っている。それは、職業について、人生についてや遊び、友情や夢を持つことの大切さ、地域づくりや故郷を大切にすることなど、生きていく上でのバックボーンを得たように思う。

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(いつも全力疾走だったあの頃)

それらの経験は仕事上でも役立った。会社の支店の開設や事業部の立ち上げ、社内の行事立ち上げやISO取得など、成果を出さねばならなかった時に、これまでの経験が活きた。仕事以外での活動で学ぶことの大切さを今、感じている。

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(世界大会に参加)

卒業年には、イギリスで行われた世界大会に参加した。考えてみると結婚式の当日の朝まで、寝る間を惜しんで仕事をした。大会は10日間の滞在が必要だったため、長い休暇のとれるハネムーンを兼ねての旅行だった。

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(ロンドンのシェフィールド大学で世界大会開催)



考えてみると青年の船以来、自分の中の地球のサイズは小さいと思えるようになった。
子ども達にも、海外へ目を向けるよう小さい頃から話していたが、そんな子ども達も自然と海外へ意識が高まったように思う。

いろんな出会いと学びがあったローターアクトクラブ。
その出会いと学びをまとめることで、遅らばせながら一区切りとしたい。

 

ローターアクトクラブ活動を通じての思い出

組織と運営、連携

活動の方針を立てる・役員を決めるなど、組織づくりの要諦などを実践を通して学んだ。例えば、クラブの運営・行事の企画では、モチベーションを高めるための施策など、多くのスキルを磨いた。

行事の案内状、お礼状、企画書、決算書など、先輩方からアドバイスを受けながら、説得材料・検討材料としての資料のつくり方のコツを学んだ。

役職につくことで、役職の立場がわかり、人間的に成長する機会を与えられた。小さな団体ではあるが、1年での役員交代の役員改選は、平等に成長の機会を与えられ、また期間が限定されているため、集中して取り組めた。

ロータリークラブの会員の皆さんから、例会や例会後の懇親場などでも、いろんなアドバイスや叱咤をいただいた。

各県のクラブでは組織運営は同じでも、そのクラブの歴史や伝統、人員構成などから違いがあることを知った。

卓話を呼ばれる会員の3分間スピーチ。会員卓話では、職業観、家庭観など、いろんな視点でのお話に心が豊かになった。

活動を通じてのエピソード

・入会したてで経験のない会員は、まず行事の開催会場で駐車場整理、その後受付。そして案内係、準備設営、企画運営と、少しづつ役割が与えられ、その度にこれまで経験してきたことを活用して、実りある運営ができるようになった。

・熊本県と宮崎県のロータアクトクラブでえびのループ橋付近を清掃する行事に参加。公園のトイレでのこと。便器の中に手を突っ込んで清掃する年下のメンバーを見たとき、ショックを受けた。汚いところの清掃に腰が引けていた自分が恥ずかしくなった。

・駅前の定期清掃でのこと。清掃途中でタクシードライバーより「カッコつけて」と言われたことがあった。その時は、カッコつけているという意識はなかったので、いろんな考えの方がいるのだと受け止めていた。清掃終了後終了のあいさつ方々、駅前派出所の警察官の方と雑談した際、先程の事を話すとそれを聞いた警察官が「あなた方が清掃していることはとても大切なことです。でももっと大切なことは、若い方が公共の場所を掃除していることを市民の皆さんが見る事の方が、駅前がキレイになることより重要なのですよ」と話してくれた。そこで学んだことは、人に伝えることの大切。伝えなければならないことを考え、情報に触れた方への、意識や気づきになることがあることだ。希望、モデルケースなることも重要だということを学んだ。

・養護学校に、毎年もちつき大会を企画。楽しいふれあいの中で、障害のある方の気持ち、支える方の想いを知ることができた。

・他のロータアクトクラブとの交流。熊本・大分・鹿児島・宮崎と四県で地区を構成した頃は、40近くのクラブがあり、いろんな先輩達や仲間との出会いが大きな刺激となった。仲間や先輩のひとことに感動したり、生き方に共感したり、地域を越えて交流の輪を拡げた。

・イギリスやオーストラリアへの渡航。世界の仲間達と民族や歴史の差を越えて、交流をした。これまで広いと感じていた世界が、身近に感じられるようになった。

友情

・先輩や後輩と県内外を旅行した。また、飲み会も毎月のように行う。先輩たちの生き方、考え方に触れた。それらはすべて楽しい思い出になっている。

・延岡市内の他グループとの連携。延岡をどのようにして活性化させるか等の議論や企画を共同でおこなった。その友人関係は今も続いている。

・韓国岳の清掃登山。お酒を飲むことが一番の友情を深めることと感じていた私。清掃登山で打ち解け合った仲間とともに、友達づくりへの新たなアプローチを改めて知り感動した。今でもお酒は一番だけど・・・。

○その他

・奉仕について改めて考えさせられた。職業を通しての奉仕、社会への奉仕、国際的な奉仕、グループ内のメンバーへの奉仕などがあることを知り、それぞれの立場で何をなすべきかなど、考える機会となった。

・入会理由はほとんど会社からの命令というメンバーが多かったにもかかわらず、最終的には自分自身のためにと、こころをひとつにして頑張った仲間達。財産である。


不思議な体験、そして出会いが生き方を変えてゆく

2012年03月31日 17時03分15秒 | 出会いと経験

もう年も前のこと。総務庁(現内閣府)青年の船の事業に参加した。この船の事業は日間、船内で様々な研修をしながら、寄港地ヵ国(オーストラリア・ニュージーランド・西サモア・トンガ王国を訪問・研修をおこなった。旅も終盤になった頃、思いもよらぬ体験をしたので思い出を記したい。

10日余りで下船することもあり、乗船記念に、何か自分らしいことをしてみたいと考えていた。

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(旅の航路)

色々と考えた末、給油地のグァム島で日間の自由時間で何かとしようと考えた。そして、グァムの街をキレイにすることで、この町のことがわかるかも知れないと考え、清掃を行うことにした。枚のゴミ袋を準備し、片道だけのタクシー代と昼食代だけを手に船を後にした。

いよいよ、街の中心部から作業開始。
あるある。ゴミが多いのにびっくりした。分程で用意した10枚の袋は満杯になり、作業を終えた。その後昼食を済ませ、船までの道、約キロを歩き始めた。

不思議な事に、船までの帰り道でセント硬貨を何度も拾った。途中知り合ったメンバーとこの不思議な話をした後でも、他のメンバーは見つけることができないのに私だけが50セント硬貨を見つけた。本当に不思議だった。
お昼の食事代を使ってお金を持たなかった私が、いつのまにか裕福になり、皆で、飲食店に立ち寄った。

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(硫黄島)

店主である老人と話がはずみ、最後に戦争の話となった。当時グァムも(老人が17歳の頃)太平洋戦争中で、目の前で、親そして数多くの友人達を失くした事などを聞いているうち、いち個人としてではなく「日本の青年」としての立場で聞いている自分に気づいた。 謝罪の言葉が、自分の立場で言えるだろうかと。

また日本へ帰路の途中、激戦地硫黄島を間近に見た。弾丸を受けた為、生々しく変形した山々。中でもバンザイクリフと呼ばれる崖は、戦時中追いつめられた多くの日本人が、自決した場所と聞いた。その時の心理状態を察する事など、とても出来ないが、幸せな今を感じることができた。

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(洋上戦没者慰霊祭の様子)

これまで戦争を頭では理解していたものの、自分なりの感じ方が出来た。そんな事もあり、日本も間近にせまった3月12日に行なわれた「洋上戦没者慰霊祭」では、その意義を少しでも理解しようと努めた。戦死した人達は、その頃ちょうど私達位、若しくはもっと若い世代だったと聞き、たとえ日本の為だとはいえ、一つの死という真理の前に戦慄に震えた事だろう

同じ世代として、「酒もタバコも、もっと欲しかっただろう・・・」とそんな気持ちが心の中をかけめぐった。そして感じたまま、一本のタバコに火をつけ、海へと流した。それを見た友人も心が通じのか何も言わずに海へとタバコを流していた。

拾ったお金がその店に引き寄せた気がしてならない。そして、その経験がその後の活動に大きな意義を与えてくれた。
不思議な体験と出会い。この旅では自分から具体的に動くことが大切だと気づいた。

この「青年の船」事業参加後、この事業で得たものを活かして、さまざまな活動に参加している。その中でも「インド国際子ども村ハッピーバリー」活動では、音楽を通して、テーマソングの作詞を担当した。たくさんの方々に歌っていただいている


地球が夢見てる Piaceful World

作詞:鶴羽 浩 作曲:瀬尾ただみ

小さな瞳の大きな地球が 夢見てる
楽しい世界と輝く明日 ラ・ラ・ララ・・

手と手を合わせれば 命の音が聴こえてくるよ・・・

※Piaceful World 誰もが
Piaceful World 平和の世界を望んでる
Piaceful World みんなで
Piaceful World 新しい世界を見つけよう

 

ちいさな体のでっかいこころが 夢見てる
きれいな花と美しいまち ラ・ラ・ララ・・

見つめあえばわかるさ 生きていること 歩いていること・・


強い想いが「縁」を手繰り寄せていく・・不思議な体験。

2012年02月10日 07時39分36秒 | 出会いと経験

歳代の年間は、故郷延岡で毎年4月29日のみどりの日に音楽祭を開催していた。
それは自分自身が音楽が好きなことや、歳の時に野外音楽会を聞いてからというもの、屋外の音楽演奏のファンになったからだ。以前、ブログで紹介

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毎年、音楽祭はクラッシック音楽やジャズなど、さまざまなテーマで取り組んだ。
回目の事。童謡にテーマに、材料探しにいろんな方々の場所に足を運んだ時のことだ。

ある日、地元の夕刊デイリー新聞社に勤める友人へ相談に行ったところ、南阿蘇グリンピア”アスペクタ”で「童謡合唱ピクニック」という童謡を中心としたイベントがあるという情報を聞き、熊本まで出掛けた

行ってみると、明るくてパワフルな音楽祭で、ともに楽しむという趣旨は、音楽祭を作り上げていく上でとても参考になった。また、緑なす山々に囲まれての会場で、気分も爽快だった。

昭和初期から現代の童謡・唱歌が、音楽の玉手箱のようにステ-ジで次々と歌われた。
一緒に歌う、感じる。そして楽しむ
大切に親から子へ、そして孫へと世代を越えて歌い継がれる歌の存在。 そして、歌う人の持ち味で、いろんな歌詞の見え方や歌の表情、こころの風景を見せてくれる童謡・唱歌は、私たち日本人の財産だと思えるようになった。

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(司会と歌を担当。宮崎出身の故春口雅子さん)

シンポジュ-ムでは、全市・全町をあげて童謡祭を催している市町村や熱心な有志団体の存在を知った。 詩人の故寺山修司は「童謡は、子どもの心の糧・大人の慰め・老年の懐旧と人生で度の出番がある」といったという言葉が印象的だった。

また唱歌は、明治初期日本で始めてできた和製「洋楽」。 当時の著名な作家が取り組んだこともあり、詩、メロディ-ともに世界に誇れるものだというお話にも、多いに納得できるものがあった。
シンポジュ-ム後、懇親パ-ティが開催され、うれしい出会いもたくさんあった。それは童謡祭で素晴らしいたくさんの歌を聞かせてくれた「童謡組」のメンバ-と話をする機会に恵まれたことだ。

この童謡組は、NHKの子供番組の歌のお姉さんOBで構成され、全国のいろんな音楽会やイベント参加している。

メンバ-から「宮崎出身の童謡組メンバ-がいる」 との情報を聞き、このような縁から、NHK「ワン・ツ-・どん」の歌のお姉さんOB春口雅子さんに音楽祭の歌と司会進行をお願いすることになった。

また、国語学者の金田一春彦先生とお話をする機会も得た。 音楽祭の趣旨を説明させていただくと先生は「延岡なら権藤円立や若山牧水の童謡「ダリア」があるじゃないか。まずそこから始めなさい」と、アドバイスいただいた。

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(金田一春彦さんとともに)

準備に当たっては、アドバイス通り若山牧水の事やいろんな事を調査した。今思うと、発意してから吸い寄せられるように、いろんな人や情報が集まってきた。

例えば宮崎県内に、野口雨情作詞による校歌が沢山あること等々。その他多くのの収穫があった。そして調べる課程で、失われかけていた地元の歌を発掘もできた。

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(米すき唄)

その曲のひとつ、「米すき唄」では、歳の元気ですてきなおばさま達に出会うことができた。音楽祭の趣旨を理解していただき、出演していただく事になった

その上、ステ-ジでは歌だけでは気分が乗らないからと、数10年前の米すきの全過程を再現してくださることになった。(エピソード:92歳のおばさまが、最近の若いモノは旅行で、動きが悪い・・と言っていたが、その若いモノとは、70歳の方と聞いた時は、思わず笑ってしまった)

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(よいこの節)

もう1曲の「よいこの節」は、当初歌える人はいないだろうとのことだったが、名いることがわかり、交渉から3ヶ月後、出演を了解していただいた。 その後、この唄を後世に残したいと20名の有志がつどい、方財「よいこの愛唱保存会」がスタ-トしたとのことだった。

方財町の「よいこの節」復活の為、ご尽力いただいたNさんに、野口雨情の話をしたところ、「権藤円立」という延岡出身の歌手の話を聞いた。そして生家を紹介くださり訪問した。

生家である光勝寺の権藤住職より、たくさんの資料や逸話、当時のレコ-ドを録音したテ-プをお借りした。その資料から権藤円立は、延岡市中央通りの生まれで全国的活躍はもとより、県北の小中学校校歌の作曲や地元歌の作曲、そして仏教歌でも素晴らしい作品を残している事、そして作詩:野口雨情、作曲:藤井清水、歌:権藤円立と、このトリオは当時のヒットメ-カ-で あったこともわかった。

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(延岡少年少女合唱団による童謡)

野口雨情作詩の校歌や文化的足跡が延岡に多いこともうなづけた。 また、この権藤円立を偲んで、円立の代表曲「河原柳」にちなんで「河原やなぎの会」というコ-ラスグル-プ存在を聞き、さっそく代表の小嶋かず恵さん宅へと訪問した。

この小島さんの亡き父、小嶋政一郎氏もこの三人トリオと深いつながりがあることを知り、縁を不思議さを改めて感じた。 そして、この素晴らしい先人の存在を、多くの人に知っていただきたいと思い、会の方々に権藤円立の歌や、円立の妻の権藤花代が作詩した有名な「たなばたさま」を歌っていただきたいとお願いした。 もちろん、数日とととないうちに出演を快諾いただいた。

このように、一つの縁の糸がつながっておおきなうねりとなっていく不思議な体験をした。そして、みどりの音楽祭は、雨天のため、城山公園から野口記念館へと会場を移したが、盛会のうちに開催することができた。

今、考えると「音楽を通じて感動を提供したい」という強い想いがあったように思う。その想いが共感と支援を得たのだと思う。
若い頃のパワーはもうないが、いくつになっても、熱いの想いは大切にしたい。


ゴーイング、シップ!?

2011年05月05日 17時22分22秒 | 出会いと経験

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青年の船では、いろんな体験をした。中でもニュージーランドで行なわれた初めてのホームスティは、思い出深い

日本人メンバー約260人の内、半分の団員はオーストラリアでホームスティを済ませていた為、私達は、後半のホームスティということでニュージランド第2の都市オークランドで、1泊2日を過ごした

私と一緒に過ごした金丸君は、S電力に勤務するスポーツマン。体が動物的だったので私がつけたニックネームは、金丸ならぬアニマル。爽やかな好青年である。

お世話になったホストファミリーのグレイムさん宅は、奥さんのロニーとヘイマシュ(9歳の男の子)、カトリーナ(7歳の女の子)の四人家族。なだらかな小高い丘を登りきったところに、グレイムさんのお宅はあった。

堀ゴタツのようなリビングが印象的だった。グレイムさんは、日本でいうところの大工さん。ライトバンタイプの車に沢山の仕事道具を積んでいた。 

初めは早い英語にとまどったが、目の表情や雰囲気でお互いの気持ちがわかるようになった。片語の英語ながら、夜遅くまで話は尽きず、まるで家族同様に過ごせたた事が今でも思い出される。

家族が一つの生活単位であり、自然と一緒に生きているという印象を受けた。どこへいくのも、家族単位のようだった。特に私達が過ごしたオークランドという街は、ヨットが車と同じように普及していた。きっと、家族揃って過ごしているんだろうと思う

滞在2日目。グレイムさんとオークランド市内の動物園で遊んだ。施設を去るとき、グレイムさんから、「ゴーイング・シップ」とおっしゃったので、船に帰る準備をしている私達に、「いいえシップ(船)ではなくて、シープ(羊)ですよ」と笑いながら、言葉を聞きまちがえた私達を羊牧場へと案内してくれたグレイムさん一家が、今でも想い出される

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(日本丸をバックに記念撮影)

船がオークランドの港を離れる日、グレイムさん一家が見送りに来てくださった。ありがたかった。そして、船へ電報が届く。

SAYONARA OUR NEW FRIEND FROM HAMISH KATORINA RONNIE AND GRAEME

今でも大切にしまってある。


「フレンドリーアイランド」トンガ王国の思い出

2011年04月17日 21時13分28秒 | 出会いと経験

1984年1月、青年の船(総務庁主催)に乗船して2ヶ月間オセアニアの4カ国(オーストラリア・ニュージーランド・トンガ王国・サモア)を親善訪問、そして洋上研修を行なった。なかでもトンガ王国は印象深い国のひとつだ。

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トンガ王国は約170の島々から構成され、面積は鳥取県よりやや小さく、10.2万人が住んでいる。

1773年にキャプテンクックが上陸し、「フレンドリーアイランド(友情の島)」を名づけられた由来の通り、トンガ人は誰に対しても友好的であり、特に日本に対しては前国王が大に親日家であることからとても親切な感じを受けた。

トンガの首都、ヌクアロファ港クィンーサロテ埠頭に接岸したのは2月24日午前8時。船外からなにやら賑やかなリズム。早速デッキへと急いだ。その後、埠頭では、民族衣装に身を包んだ現地の方が歓迎の踊りで出迎えてくれている。

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(ヌクアロファ港にて)

記録係であった私は、慌ててカメラのシャッターを切ろうとすると即、レンズが曇った。重くなるような湿度だったことを覚えている。

歓迎セレモニーでは、民族舞踊カハナビーチを見たり、現地の代表的な料理で「ウム」と呼ばれる豚の丸焼きをご馳走していただいた。しかし生々しい「そのまま形」は今も忘れられない。

次にスモールインダストリーセンター他、施設見学が終り、お昼からはトンガで一番大きな市場へと出かけた。

市場の店には、日本のお菓子も置いてあった。
「ヤチュイョ」(安いよといっているようだ)と片言の日本語で話しかけてくる。「これとこれで5ドル」。

友人が、同じ商品を「ではあとこれつけて3ドル」とかなり無理な交渉をしても「オーケー、オーケー」と訳がわかっているのか、いないのか。

値段があってないようなものだった。結局、先に買った人が一番高い買い物をしてしまったようだった。

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(ヌクヌク村ユースクラブにて歓迎会の様子)

ヌクヌク村での現地の方との交歓会。ひとときのふれあいで、村の人々とすぐ仲良くなれた。キャプテンクックが「フレンドリーアイランド」と名付けたのも理解できる。

交換会後、国立競技場でトンガの青年達と親善サッカー試合を行われ出場した。試合は2-0で勝った(勝たせてもらった?)
この他にもニュージーランドで交流試合を行ったが、異国の地で、スポーツを通じて交流したことは、言葉の壁を越えた何かを感じた。

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(トンガ王国の子ども達と一緒に)

若い時の異国での体験は、若ければ若い程、吸収も大きいと思う。若い人には、教えるよりも刺激を与えることだと先輩から聞いたことがある。
多くのこども達・若者に異質な体験へのチャンスを与え、さまざまな可能性を伸ばしてあげたい。

青年国際交流についての事業紹介>>こちら

月イチのサポーター

2011年03月24日 06時28分55秒 | 出会いと経験

以前、ブログで紹介した「COZY花菜(はな)」さんに、毎月一回のペースで利用ようにしている。
理由は、60歳で起業した店長を応援すると勝手に決めているからだ。
頑張っているな~と、いつも思う。

Kasai2

いちおしが「ビーフカレー」。いろんなカレーがあるが、始めて食べて以来、やみつきとなり毎回このメニュー。
いろんなエキスが溶け込んでおり、いわゆる薬膳?カレー。

今月も残りわづか、まだ行けてない・・・

「COZY花菜」
宮崎市佐土原町下那珂(コープ佐土原そば)


夢と浪漫の人、想いでの中で生きる

2011年03月17日 06時33分17秒 | 出会いと経験

大神龍馬(おおがたつま)さんは、大きな人だった。
今から10年程前、(平成9年8月10日)永眠された。本業の仕事面はもちろんのこと、福祉面や文化面でも活躍された。

20年余り、いろんな形でおつきあいさせていただいた。飾らずに、良いことに対しては惜しみなく声援と支援をした。また、インド国際子ども村の提唱者である大神のりえさんは、大神さんの娘さんである。おつきあいの中で、たくさんの事を学んだ。そのエピソードを紹介したい。

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(在りし日の大神さん)

生前、大神さんの印象といえば、「金婚者を寿ぐ会」である。その会は、延岡市内で金婚者を祝うための自主的な会だ。いつか「金婚式」自分が祝いの席招かれたい。

そんな想いをもとに、40年以上も前から「延岡の金婚者を寿ぐ会」の発起人となり、仲間達で開催し物心両面にわたり援助してこられ、多くの延岡在住の金婚者を祝ってこられた。招かれた金婚者は2000組以上にのぼるのと聞いている。

亡くなる数年前、大神さんご夫婦は金婚の年を迎えられ、式に招待された。生前「継続が大切だ」といつもおっしゃていたのが今も心に残っている。

地元、延岡市の夕刊誌「夕刊デイリー新聞」の紙面で大神さんを紹介されていたので転載したい。

「今や日本中のつり橋建設だけでなく普通の橋の建設にも利用されでいるPCTという工法の特許権者で、延岡市の文化、福祉面にも功労があった大神龍馬さんが亡くなった。
もの静かで、思膚深い学者タイプの人だった。それまで、深い谷など橋脚を立てられないところに橋を架けるには、両岸に鉄塔を建て、ワイヤーと張り渡し、それに橋材をつり下げて繰り出しでいき、組み立てていた。
しかし鉄塔間が長いほど、また風が強いほどつり下けでいる橋材の揺れが大きく、危険も増して作業は困難だった。このため工事期間が長く、事故死も多かった。

大神さんは鉄塔間の上部ワイヤーに加えて下部にもワイヤ―を張り、上下のワイヤー間を何本かのつり索で固定することでワイヤーが安定し、つり下げた橋材も安定することに気づいた。効果はそれだけでなく、橋材の重量は下のワイヤーにも働いて重量を負担し合うため、鉄塔などに無理がいかないし、工期も早くなりしかも安全に工事ができる。これがPCT工法として、昭和43年特許庁に認められた。

この方法で架けられた橋は、県北では北方町の城橘、つり橋では高千穂町の音の谷橋などがある。つり橋で、もし橋の下の両側にも弓なりのワイヤーあったら、それは大神さんの発明によるものだ。これでつり橋もあまり揺れず、安心して渡れるのである。

大神さんと延岡市の島野浦島に橋を架ける夢を語ったことがある。下を船が通るところで、長大橋になるからPCT工法の出番である。大神さんはPCTの模型を前にニコニコ笑いながら、静かに「思いっきり、きれいで美しい橋にしましょう。展望所も付けて・・」と話に乗ってくれた。大神さんもこの夢を持って逝かれたはずである。」
(平成9年8月12日 夕刊デイリー新聞 記者手帳より)

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(大神さんからいただいた色紙)


青年の船に乗船した24歳。思い出の写真集。

2011年01月08日 07時06分10秒 | 出会いと経験


「世界青年の船」は、内閣府の行っている事業の一つで、18歳から30歳の日本国籍を持った人が参加でき、世界12カ国の青年が集まり43日間船で共同生活する事業。毎年、東回りと西回りと交互に回っている。これまで1万人を越える日本人と海外招聘青年が参加している。

私が参加した今年の青年の船は、307名の団員を乗せ 昭和59年1月26日に東京港を出航し50日間にわたり、オーストラリア・ニュージーランド・トンガ王国・西サモアを訪問し、3月15日の帰国まで、多くの研修を行った。

私が乗船した第17回青年の船が掲げた統一テーマは、「南太平洋に拡げよう青年の輪」であり、このテーマのもと団員ひとりひとりが自ら各種の研究テーマを設定し、船内における研修や寄港地での視察、交歓会などを通じグループごとにそのテーマを追求した。

船内で生活を共にした訪問国青年達と、言語・宗教・民族を越えた人間的共感によって結ばれたことも、この船ならではの成果でした。
この船を通じて次の3点を学んだように思います。

ひとつは、文化・言語・習慣・考え方の違いを体験することによって理解し、自分が日本人であり、日本の青年であるという事を再認識したこと。2つめに、多くの人達との出会いにより、情熱とそれを実行する手段をみつければ、何でも出来るんだという確信、人間の無限の可能性を信じられる様になりました。そして最後は、国際理解、人間理解はまず身近なところが出発点だという事です。

乗船前から帰国するまでの写真を掲載し、記憶に留めたい。



高校卒業後、さまざまな地域活動をしていた私に、先輩が青年の船への参加を進めてくれた。1月から3月中旬までの50日間、会社を休むこととなったが、社長が有給での参加を許可してくださった。その後、試験をパス、先輩達に壮行会を開催していただいた。



知事への表敬訪問。宮崎県からは4名が参加しました。



出発を前日に、総理府、および皇居への表敬訪問をおこなった。




宮崎県からも見送りに来ていただいた。



船の中では、午前と午後、政治や経済、福祉、国際関係などの授業がおこなわれました。上記の写真は、外国人招聘青年を交えたフリーディスカッション風景。




豊富なレクリエーションプログラムも準備されていました。

寄港地では、文化行事のほか、親善サッカーもおこなわれました。上記写真はニュージーランドで試合後の記念写真(ゴールキーパーで参加)

お昼の時間を利用して、メンバーとたのしいひとときを過ごしました。




初めてのホームスティ。2日間でしたがホームスティファミリからは、あたたかく接していただきました。

この写真は船の中でお茶室の様子。所属したローターアクトクラブの仲間であるオーストラリア、ブリスベーンのメンバーに手紙を書いたところ、同地区の代表他が船に遊びに来てくれました。一枚の手紙が世界を越え、友情の架け橋をつくったことに感動を覚えました。

乗船者でバンドをつくり、ライブ活動もおこないました。宮崎から30キロもあるキーバードケースを担いでいきました。

フィージー出身のマイク君とのツーショット。初めてできた外国人の友人でした。


帰国する船の中、硫黄島の沖で洋上戦没者慰霊祭を執り行いました。グァム島での戦争体験を話された島民の方との交流があったからか、戦争ということに向き合うことができました。


自分の可能性を信じて、いろんなことに挑戦しようと、船で知人に書いていただいた「挑戦」の文字。

数多くの出会いや出来事がありました。それらは次の二つの手段によって得られたように思います。
ひとつは、何をどれだけ多く学ぶかという事に関しては、経験の多い少ないではなく、「ひとつのことからどれだけ多くの事を吸収できるか」であり、もうひとつは、物事を大切にするかしないかは心がけであり、「大切にする気持ちが尊い」ということです。

この二つの事を頭に置いて、取り組んでいけばきっと多くの事を学べると確信しています。その意味で、私は私なりにこの「青年の船」について、その意義を大切に育んでいきたいと思っています。

最後に、この旅を通してあなたは何に一番感動しましたかと尋ねられたら、私は躊躇いなくこう答えます。「どんな美しい景色より、人の心は美しく、どんな広大な土地より、人の心は大きい。そして人の心は大自然を、人を包み込むことができることを知ったことです」



 


コンビニトイレ

2010年11月15日 06時29分58秒 | 出会いと経験

いつ行っても気持く使えるトイレを提供してくれるコンビニがある。

客商売をするのに、トイレがキレイなのは当たり前だけれど、それ以上にお客への気配りの中に、やさしさや想いを感じるトイレだ。

2010_11_12

(セブンイレブン宮崎祇園3丁目店)

あたり前のことに更に磨きをかける・・・。トイレにも・・・。皆さんのまわりにもそんなお店や出来事などありませんか?