ずいぶん前のことになりますが、新人研修にて「ほうれんそう(報告・連絡・相談)」を教わりました。
新しい野菜!があると知人からフェイスブックにて紹介していただきましたのでお伝えしたいと思います。
こまつな=困ったら・使える人に・投げる
きくな=気にせず休む・苦しい時は言う・なるべく無理しない
最もしてはいかないことが
ちんげんさい=沈黙する・限界まで言わない・最後まで我慢 だそうです。
非常時には、さらに大切なことだと思います。
「志」とは、読んで字の如く「十」の心を「一」にする心だと、以前お話で聞いたことがあります。心のなかで起こる、○○をしたい、○○もしたいと願う気持ちをひとつに絞ることだと理解しました。
しかし、ひとつに絞るということは他の願いを捨てる、または諦めるということになりますので、とても勇気が必要です。
一方、成し遂げたい願い・夢を完遂するには、選択と集中が必要です。しかし、「今日くらいは、休みたい」とか、「他にしたいことできた」などと、目移り、また目の前のことに振り回されそうになります。そんな時、志に試されている自分に気付きます。そこまでの思いだったのかと。
私自身、資格を取得する学びのプロセスを通して、志の大切さを学びました。そのエピソードをお伝えしたいと思います。
60歳までにある資格を取得したいと考えた私は、1回は落ちることを覚悟して4年間という期間を定めました。しかし資格取得には、23単位を評価「C」以上で修了させることが必要です。
受講にあたっては大学教授や専門職講師から、与えられる事前課題作成に2週間。講義への参加(単位によっては、6時間~24時間)、修了レポート提出に2週間。そして評価。それを毎月繰り返すというものでした。1単位を取得するのに3ヶ月の学びが必要なコースもあり、1ヶ月に2コースを併走し、正月休みもない年がありました。
具体的には、週末夜に宮崎を発ち、関東や関西方面への移動。研修後、クリスマス夜を過ごした大阪御堂筋。8月の暑い日のこと、1日8時間の勉強。昼過ぎには行水をして気持ちを切り替えたり、朝5時から単語帳や問題集を解き続けました。50歳を過ぎ、記憶力も落ちた私は、新聞や本、目の前の出来事から学べないかと、毎日、情報ノートを書き続けました。振り返ってみると、1年間に1,000時間以上勉強をしていました。
何度も、これくらいでいいかも・・と思いました。しかし、合格することが目的ではない、支援に必要な力を身につかなけ起業はできても、生き残ることはできないと、自分を鼓舞し続けました。
その後、試験に合格。振り返ってみると、資格取得のプロセスで得たことは、学びの習慣が身に付いたことでした。それは、これから生きる推進力と源となっています。これも、志を立てなければ得ることができなかったことです。
新しい世界で、新しい仕事との出会いするなかで、力不足を感じています。果てなく続く学びの世界ですが、学んだ分だけ人や組織を支援できる力がつきます。悩んだ時、壁にぶつかった時は、「志」を思い出して、気持ちを新たにすることが大切だと思います。
少子高齢化という事象のひとつをとっても、多様性・個の自立・社会環境など大きく変化しています。組織が働く人のキャリアをサポートする時代は、過去の出来事。私たちが自分らしいキャリアをつくっていくためには、どう生きるか、何かできるか、何をすべきかを考え、その中心となるものに思いを実現するために、すべてのことをエネルギーにし、その思いを実現させる。まさに標記の言葉の意味することだと思います。
この講演では、たくさんの名言やエピソード、大切なことが編み込まれています。ぜひご覧ください。
植松 努さんの紹介をします。 株式会社植松電機 代表取締役 株式会社カムイスペースワークス 代表取締役 NPO法人北海道宇宙技術科学創成センター(HASTIC)理事
(講演プロフィール) 全国各地で講演やモデルロケット教室を通じて、人の可能性を奪う言葉である「どうせ無理」を無くし、夢を諦めない事の大切さを伝える活動をしています。 また、2010年4月より「より良くを求める社会」の実現に向けて、北海道赤平にて「住宅に関するコスト1/10、ショックに関するコスト1/2、教育に関するコスト0」の実験をおこなう「ARCプロジェクト」を開始しています。
今から38年前、総理府「第18回青年の船」に乗船した。この不思議な体験は、この青年の船に参加した時の出来事である。ちなみに私が参加したこの青年の船は、日本の青年269名、オセアニアの10ケ国の招聘青年38名、合計307名の団員を乗せ 昭和59年1月26日に東京港を出航。
50日間にわたり、オーストラリア・ニュージーランド・トンガ王国・西サモアを訪問し3月15日の帰国まで、自己開発、リーダーシップから国際関係にいたるまで幅広い研修がおこなわれた。船内で生活を共にした外国人青年達と、言語・宗教・民族を越えた人間的共感によって結ばれたことも、この船ならではの成果だった。
前置きが長くなりました。長い船旅。日本への帰途、給油のため立ち寄ったグアム島は、年間100万人が訪れる観光地。面積は日本の淡路島とほぼ同じ大きさ。給油に合わせて1日の休日が与えられたため、どう使うかと思案。自分らしく思い出になることをしたいと考え、ゴミ拾いボランティアを計画した。
他の団員は、サーフィンやショッピングと楽しい思い出づくりをしているなど、内心羨ましく思いながらも、ひとりで船から市街地中心部までの片道分のバス料金をもって出かけた。午前11時、準備したごみ袋5枚も90分程で終了した。それから、船へ歩いて帰ることにした。
そこで不思議なことが起こった。道で50セント硬貨を合計7回拾うのである。最初は、偶然かと思ったが、船への帰途に出会った4名の団員たちも探しているのもかかわらず、私だけ拾った。当時の50セントを当時のレートで換算すると、125円。合計で、900円ほどになる。そのお金で皆さんに飲み物をご馳走しようと、通りがかりの食料品店に立ち寄った。何故かそこで店主と話が弾み、最後に戦争の話となった。
当時、店主が17歳。戦時中でこの島で、日本軍との戦いで親を亡くしたこと、友人が目の前で死んだことを話し始めた。話を聞くうちに、個人としての立場ではなく、青年の船でこの国に立ち寄った日本の青年としての立場で聞いている自分に気づいた。
いろんな思いが駆け巡った。結果的には聞くことしかできなかった。硬貨を拾い、何かに引き込まれるようにお店で入って導かれるように人に出会う。これも何か意味があったのだと。
上記写真は、激戦地硫黄島で弾丸を受けたため、生々しく変形した山々で「バンザイクリフ」と呼ばれる崖。戦時中追いつめられた日本人2万5千人の人達が自決した場所といわれている。
その時、その場にいた人達の心理状態を考える時、今の私たちはなんて幸せなんだろうという気持ちになる。これまで「戦争」という言葉は聞いていた。しかし初めて自分なりに理解できた気がした。
日本への帰国が近づいた3月12日。船上で行われた戦没者慰霊祭では、グアム島での出来事を通じて、その意義・意味を少しでも理解しようと努めた。「死」という手段を選ばざろう得なかった人たち、戦争の犠牲者。死というひとつの真理の前に戦慄に震えた事だろう。
私たちと同世代の人たちも多くいたと聞き、酒もタバコも、欲しかっただろう。そんな気持ちが心の中を駆けめぐった。そこで私は、一本のタバコに火を付け海へ投げ手を合わせた。それを見た団員たちも心が通じたのか何も言わす、海へタバコを流してた。
帰国後、しばらくして、この硫黄島での出来事を数人へ伝えた。ある方にこう言われた。「私は戦時中、軍医をしていた。生存者がいるのにも関わらず、ある国の戦車が医療テントを潰していくのを目の当たりにした。君ならどうする?」私は、「家族や仲間を守るために戦うかも知れません」と答えた。すると「それが戦争なんだよ」と。
最初は、小さなことでも、それが憎しみの連鎖を産む。それが戦争へと繋がるのだと。だから小さなことと言えども、おろそかにしてはいけないよと話してくれた。