若松孝二監督の死を悼む東京新聞の記事(http://www.tokyo-np.co.jp/article/entertainment/news/CK2012101902000155.html)。
先日、「水のないプール」「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程(みち)」「キャタピラー」などを撮られた若松孝二監督が亡くなられました。交通事故でのあっけない死、若松監督らしいのかも知れません。
『●『創(2010年7月号)』読了』
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【http://www.tokyo-np.co.jp/article/entertainment/news/CK2012101902000155.html】
作品の根底、国家への怒り 若松孝二さん死去
2012年10月19日 朝刊
十七日に死去した映画監督の若松孝二さんは、「甘い罠(わな)」(1963年)など六〇年代から七〇年代のピンク映画をはじめ、エロスや暴力を扱った作品を発表してきたが、根底にあるのは国家への怒り。「実録・連合赤軍 あさま山荘への道程(みち)」(2008年)など、既存の体制や価値観に抵抗する人間を描き、近年は欧州などで若松作品を再評価する動きも出ていた。 (小田克也)
若松監督は一九六五年、団地の主婦の性を描いた「壁の中の秘事(ひめごと)」をベルリン国際映画祭に出品。日本の新聞から「国辱映画」と酷評され、この騒動をきっかけに若松プロダクションを設立。七六年には大島渚監督の「愛のコリーダ」も製作している。
六〇年代から七〇年代、全共闘世代を中心に、その先鋭的な作風が支持された。八〇年代以降は、内田裕也主演の「水のないプール」(82年)など一般映画へとかじを切っていく。
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左翼でも右翼でもなく、その作品群からは巨大な国家と対峙(たいじ)する個としての人間が浮かび上がる。例えば「実録・連合赤軍~」と「11・25自決の日 三島由紀夫と若者たち」(2012年)。主張は正反対だが、いずれも国を変えようと情熱を傾ける若者が主役だ。
高校を中退し、職を転々とした。工場の従業員が転落死しても補償されない現実などに触れ、憤りを覚えた。それが人生の原点。監督を志したのは、警察に逮捕されたときの扱われ方に怒り、映画の中でなら警察と対決できると考えたからという。
一九六三年、ピンク映画「甘い罠」で監督デビューするが、当時は松竹など大手の撮影所がしっかりしている上、日活ロマンポルノが世間に定着する以前のことで、「ピンクの巨匠」は孤立を余儀なくされた。映画評論家の村山匡一郎さんは「商業映画のメーンストリームから離れたところにいたため異端視され、反体制の意識が助長された面もあるのでは」とみる。
製作、配給、宣伝と外部委託と分業化が進む映画界にあって若松プロは、配給宣伝を自社で行う。監督自ら舞台あいさつに立ち、「次も撮りたいので」と、役者のサイン入りパンフレットを売り込んだりする。「映画界の興行システムに対抗し、自力で切り開こうとする意識がうかがえた」と村山さん。ミニシアター「シネマスコーレ」(名古屋市)の運営に携わってきたのも、自主映画の発表の場を大事にしたいとの思いからだろう。
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近年は「実録・連合赤軍~」が評判に。また、戦争で人生を狂わされた夫婦を描く「キャタピラー」(2010年)に主演した寺島しのぶは、ベルリン国際映画祭で最優秀女優賞(銀熊賞)を受賞した。
今年は「海燕ホテル・ブルー」と「11・25自決の日~」を公開。七十代後半で年間二本は日本の監督として異例の多さで、勢いを取り戻した感があった。
一方、海外でも、フランスのアントワーヌ・バロー監督が若松監督に迫る短編ドキュメンタリー「火の家」(10年の作品、11月4日から横浜市のシネマ・ジャック&ベティで上映)を撮るなど再評価の動きが広まりつつあった。
「映画を武器に思いを伝えていく」。「千年の愉楽」を出品した九月のベネチア国際映画祭で、こう意気込みを見せていた若松監督。その直後の惜しまれる死となった。
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