先日公園を歩いていると
黄色く色づいたイチョウの木の下に
梅の実ぐらいの大きさの、イチョウの実が落ちていた。
ふと、足を止めて、イチョウの大木を見上げた。
青い秋空と、イチョウの黄色のコントラストはきれいだけど、
見上げていたら、
「来年のぎんなんの季節には、私はどうしているのだろう?。」と
期待と不安、希望と絶望の入り混じる、
もの悲しい気持ちになった。
足元のイチョウの実は、
臭いがきついけれど、
少し拾って、持って帰ってきた。
家に帰って、
ホースで水をかけて、熟した実をはぐと、
中から白い種が出てきた。
やっと、売っている「ぎんなん」の姿になった。
今日になって、
その「ぎんなん」を食べてみようと思った。
毎日が「連休」の私には、
11月の3連休のありがたみもなく、
だれも来ない、どこにも行けない、ひとりぼっちの時間は、
ただ、体の苦しさと向き合うだけ。
そんな時間をまぎらわすため、
自分で拾って、自分で実をむいて、洗ってあった白いぎんなんを、
自分でフライパンで炒って、殻を割った。
出てきたのは、
透き通った、エメラルドグリーンの中身。
キラキラとして、本当の宝石のように美しかった。
食べてみると、深い緑の味。
今まで何十年も生きてきて
秋に自分で拾った「ぎんなん」を食べたのは、
今年がはじめて。
「脳脊髄液減少症」にならなければ
公園にリハビリに散歩に行って、自分で拾ったぎんなんを、
こうして味わうこともなかっただろう。
でも、
ひとりぼっちの連休の午後に
ひとりぼっちで、味わう「ぎんなん」は
なんだか、せつない味がした。
黄色く色づいたイチョウの木の下に
梅の実ぐらいの大きさの、イチョウの実が落ちていた。
ふと、足を止めて、イチョウの大木を見上げた。
青い秋空と、イチョウの黄色のコントラストはきれいだけど、
見上げていたら、
「来年のぎんなんの季節には、私はどうしているのだろう?。」と
期待と不安、希望と絶望の入り混じる、
もの悲しい気持ちになった。
足元のイチョウの実は、
臭いがきついけれど、
少し拾って、持って帰ってきた。
家に帰って、
ホースで水をかけて、熟した実をはぐと、
中から白い種が出てきた。
やっと、売っている「ぎんなん」の姿になった。
今日になって、
その「ぎんなん」を食べてみようと思った。
毎日が「連休」の私には、
11月の3連休のありがたみもなく、
だれも来ない、どこにも行けない、ひとりぼっちの時間は、
ただ、体の苦しさと向き合うだけ。
そんな時間をまぎらわすため、
自分で拾って、自分で実をむいて、洗ってあった白いぎんなんを、
自分でフライパンで炒って、殻を割った。
出てきたのは、
透き通った、エメラルドグリーンの中身。
キラキラとして、本当の宝石のように美しかった。
食べてみると、深い緑の味。
今まで何十年も生きてきて
秋に自分で拾った「ぎんなん」を食べたのは、
今年がはじめて。
「脳脊髄液減少症」にならなければ
公園にリハビリに散歩に行って、自分で拾ったぎんなんを、
こうして味わうこともなかっただろう。
でも、
ひとりぼっちの連休の午後に
ひとりぼっちで、味わう「ぎんなん」は
なんだか、せつない味がした。
