小言コウベイN

日々感じた風刺等について書いています。

菊 no.134

2013-08-04 10:11:54 | 日記
                菊                   NO.134
今年の夏の暑さと集中豪雨のすさまじさといえば、もうほとんど熱帯地方並みでしたが、自然は正直でしょうからもうすぐ菊薫るすがすがしい秋がやってくるでしょう。 そこで菊について考えてみましょう。
大輪の堂々とした菊・純白・時には目の覚めるようなあでやかな黄。
また、どういうのでしょうか、ピカピカの5円玉やルビー色のボタンをちりばめたクジャクのシッポのようにしつらえられた小粒の花々。
素晴らしい水墨画の趣をした懸崖の可憐な花。
「どの花見てもきれいだな」というのはなにもチューリップの花だけではないようです。
除草・除虫・薬剤散布・剪定・施肥・植替え・・・人の目につかないところで汗を流し、地味ではあってもちゃんとした作業を黙々と、しかも根気よく続けないかぎり、菊はあの気高く美しい花にはなってくれません。
それでも、「菊づくり 菊見るときは よその人(他人の目で)」であるべきで、自分が手塩にかけて育てたものであっても、(1)自分の作品を自慢しない。 (2)他人のものにケチをつけない。 (3)自分のものであっても他人の目線で客観的に見るべき。  それが菊つくり・菊鑑賞のマナーと言います。  凡庸の私などとてもまねのできるようなことではありません。
その菊ですが「掬」と書いても同じく「きく」と読みますがこの場合はちょっと意味が変わりまして、両手の掌を丸めて水を汲む形にすることで、「きくす」と読み、あやふやな考えで物事を進めると「水中の月を掬すがごとし」(せっかく水面に映っている月の影を壊してしまうような危うく野暮なこと)と批判されますが、一方、ボロは着てても心は錦というような表現に用いるときには、「掬すれば月は手中になり」あの夜空に輝くお月さんだって、ほら、掬すればわが手のものになる。
人間幸福も・不幸も要は心の持ちようだ・・・などと言う際に使われます。
もう一つの「きく」は人の話を「聞く」ことでしょう。
なかなかできないことですが、しゃべる方より「聞く」方を多くしたいものです。
コメント
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