銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

また、顔にけがをしてしまって、疲労困憊で、睡眠がぐちゃぐちゃになっていて(苦笑)

2016-03-28 02:31:30 | 政治

 この文章は、本当なら総タイトルを、『葉山の美術館は、勉強用と言う意味では、練馬にも追い越されそうだ・・・・・酒井忠康、』のままにしておきたいところですが、三日間、同じものをさらしていて、4日目には、相当字数を加えてありますが、しかし、どうして、こういう風にちんたら書いているかを、表す・・・・・そういう方向の総タイトルへと、いったん変更をさせてくださいませ。

 ところで、怪我とは、土曜日の午後一時に、武蔵境駅の、三菱銀行前で、道路の段差に躓いたのです。ものすごい勢いで、顔面から道路に向かって突っ込んでしまいました。野球でいうところの滑り込みセーフを、顔で、タッチしたというわけです。荷物を持っているので、両手がふさがっているので、いつもこう成ってしまいます。

 これで、首から上の怪我は、三度目ですが、骨折はどこにもなくて、病院へ担ぎ込まれると言う事もなかったのです。外への出血が無かったから。周辺の人が、重症だとは、思わなかったのでしょう。しかし、内出血はあって、小さくですが、また、お岩さん状態になっています。だがファウンデーションを塗れば隠れるぐらいの薄い色の青あざであって、銀座の画廊巡りをするのも歌舞伎座へ行くのも何ら支障はないのです。

 が、そんな軽いけがでも、月曜日の、画廊巡りを休んだり、土曜日から、月曜日にかけて、ブログの手当てを一切しなかったわけですが、それは、ともかく眠かったからでした。ものすごい勢いで転んだので、全身の筋肉が収縮して、その際に、大量の乳酸でも体内で、できてしまったのか、この3日間、一日中、細切れで、眠いのでした。三時間おき、五時間おき、と言う形で、眠くなるのでした。こういう時に、ブログの手当てをするのは良くないと判断をしていたので、一切手を加えませんでした。恐れ入ります。29日には、やや回復をして来たので、相当に手を入れております。で、どうか、もう一度、目を通していただけますと、幸いです。

 それを、29日の早朝に冒頭に入れて、後は、本文へ入ります。

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 5日前に、キアヌリーブスに関する文章を書き始めているときに、副題4から始まる挿話として、以下の文章を、書き始めたのですが、その部分があまりに膨らんできたし、キアヌリーブスとは、直接の関係もないので、こちらに移動をさせ、その部分だけを独立させたものです。この文章の中には、二つの想い(または、主題)が込められていましたが、28日の午前2時に二つに分離させました。こちらには、総タイトルにも表れていますが、神奈川県立・近代美術館・旧本館(鎌近)が、葉山へ移転をしてしまった事への疑問と残念さを、語りつつ、その裏側を、検討して、どうしてそうなってしまっているかを語ります。

副題1、『さて、今から、神奈川県立近代美術館・鎌倉館が、葉山に移転をした原因を語ろう』

 1999年の、初夏の事でした。銀座の地球堂と言う画廊で、国画会版画部の、受賞記念展が開かれていたのです。国画会も絵画部に比べると、版画部はずっと、進歩的で、民主的なのですよ。ただし、星野美智子さんと、増田陽一さんと、サイトウリョウさんとの間には、嫌な思い出があって、島田章三さんのケースが片付いたら、語ります。

 ただ、1999年とは、この3人との嫌な思い出は、まだ、出来していない頃であり、私は安心をして画廊で、懇談をしていたのです。すると、アメリカかカナダか、どこかの国の、女性が、お客としていたので、「この秋に、ニューヨークへ行くつもりです。どこか、版画工房をご存知ですか?」と、質問をしたのです。すると、彼女が「ブルックリンにある、Pratt Istitute にそれが、在るでしょう」と、教えてくれたのです。

 でね、私は、1999年当時は、結構仲良くしていた、水沢勉(=現在、葉山の神奈川県立美術館・館長)氏に「この秋、プラットインスティテュートへ版画を作りに行きます」と、言ったのです。

 ここで、水沢勉氏と、私の本当の関係を言いましょう。氏と私は子供時代、たった、60戸が所属する町内会の、同じメンバーだったのです。そこは、戦後になって、開発された東急の分譲地で、30代や、40代の、大企業勤務のサラリーマンがどっと引っ越してきた場所です。

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副題2、『私の父の新卒時の就職先は後に、昭和シェル石油に、合併してなって行くのだが』

 ともかく、その分譲地には、サラリーマンがどっと、引っ越してきたわけです。大々企業のニューヨーク支店長とか、それこそ、のちに某自動車会社の社長になって行く、水沢勉氏の父君とか。父の写真がすべて盗まれています。で、以下のモノしかないのですよ。しかも、今はサイズが、動かせません。これ以上にいい写真は、いっぱいあったのです。こんな遊び人風のスーツではなくて、ダークスーツで、メガネをかけていて、戦前の中国人が引く、柄の長いマーチョ(人力車)に乗って、ラマ教寺院の前に居る写真などがあったのです。熱河と、当時呼ばれていた場所だろうか? ともかく、ラマ教寺院の前の、広大な領域に、父と、車夫と、こちら側に居て、カメラを抱えている、母しか存在して居ないという様な写真なのです。その方がずっといいのですが、すでに、盗まれていてないので、仕方がないので、これを、置きます。

 

*ハ

 

 これは、1933年に、横浜伊勢佐木町のスタジオで撮ったと裏に書いてある、もので、早山石油(1942年に合併で、名前が消える。後に、昭和シェル石油となって行ったらしい)時代のもので、1938年ぐらいまで、横浜に居て、そののち満鉄に代わって行き、今でいうオイルシェールの研究をするのです。でも、渡満の前に、横浜で、6~8年住んでいたので、戦後横浜に家を買うと言う事になります。故・藤本真澄東宝重役と、旧制中学時代親友だったので、こういう遊び人風のおしゃれが好きだったのでしょう。

  だから、『自分は、技術屋としては、時代の最先端を行くエリートだ』という潜在意識上の、自覚はあって、水沢勉氏の、父君が引っ越してきた様な、若いエリートサラリーマン向けの、分譲地に、父も、土地を買ったわけです。で、直線距離にして、60mぐらい離れた場所で、私より、12歳若い水沢氏は、生まれたし、育ったのでした。たまたま、水沢氏の姉君と、私の妹とが、小学校の同期です。この「技術屋としては最先端だ」という概念ですが、今では、それは、原発関連の技術屋さんに当てはまるでしょう。しかし、時代は変わりますね。人気分野が、次々と、移動をして行きます。技術屋と言う分野は、そうなのです。

 ::::::::で、ここで、挿入に入れば、真田宏之さんは、我が実家の北隣に、新築の家をお建てになったのです(後注2)が、周りの、その種の、サラリーマン気質に、奥様が、合わせすぎる、事に嫌気がさしたのだと、思います。奥さんの、手塚理美さんが、二人の坊ちゃんの、子育て上、それが、大切だと考えて、周辺に、合わせようとしたのですが、それが、真田さんには、困った事になったのだと、私は見ています。お餅つきとかを含めた、各種の、行事にすべてに、手塚さんは、きちんと、参加しようとなさっていたのでした。休日でも、朝早く起きないといけないとかが、あって、真田さんは、『もっと自由で、近所づきあいなどない場所の方が、自分には、向いていると考えたのでしょう。ここでの生活が、二人の、離婚の引き金になったと、私は、思っています。ただ、真田さんは、東横線育ちだそうです。だから、帰ってきたと言う感じなのだけれど、陽光さんさんとして、昼間は昼間、夜は夜と言うサラリーマン風な生活と俳優業は、両立しなかったのだと、思いますね。個人的に、誰を名指しして、その人が悪いというのでもなくて、生活の気風とか、基準が合わなかったと言う事です。:::::::::ここで、挿入から元へ戻ります。

 水沢勉氏と、仲良しだったという話に入って行こうとするのですが、その前に、1980年代の私の鎌倉移転に、関して、すでに、CIAとしての瀬島龍三が動いていたと、言う事を語らないといけません。

 私は、今は、このブログ内で、横須賀市、北久里浜駅を、最寄とする、ルネ(そらヒルズ)北久里浜に関する、異常な裏側をつぶさに書こうと決意しているのですが、それがあるから、島田章三さんに大金が流れた(後注1)と思っているわけですが、

 と、同時に、この鎌倉雪ノ下の不思議な住宅地に、私が引っ越しをする様に、わざと誘因をされたとも思っていますし、最初からひどい行動を重ねてきた安野夫妻 →

・・・・・・この夫妻と、尖閣諸島問題と、海上保安学校の卒業式に、安倍総理大臣が総理大臣としては、初めて参列をしたとかおお相撲、の、相撲協会の理事に八角親方が就任した・・・・・とか言うニュースは全部関係があるのですよ。

 ここで、別の意味でお断りをさせていただきますが、私の文章に登場する人間たちは、もし、皆様の、知らない人物であっても、政治的には、非常に大きい意味を持っているし、それなりの、斯界の有力者と言うか、上層部の、人間なのです。それは、ご理解の上で、読んで行ってください。知らない名前が出たなあ。面倒くさいなあとは、おっしゃらないで、くださいね。と言ってから、ここで、挿入から元の黒字の部分へ戻ります。
→ など、1980年代から、徹底的に私に対して威張ったり、いじめたりする様に、裏から、言い含められていたのだと、今では思い当たります。特に1980年当時に会長だった中谷共二氏(故人)は、瀬島龍三あたりと、会合をもって、懇談の上で、アジサイ畑欺罔事件を起こしていると、思います。ここらあたりは、一般の読者様たちにとっては、リンク先が無いと、読みにくいところでしょうが、それを探すのは、ちょっと、お待ちくださいませ。

 この中谷家のご長男が、東大宇宙工学研究所の元所長だそうです。次男は三井物産勤務。で、中谷氏の問題は、父の代では終わっておりません。超が付くほどに、厄介な展開を見せております。海賊の問題などに、発展をしているでしょう。ところで、海賊問題も、あれも、誇大なニュースであって、鎌倉エージェントを助けるためのものなのですよ。前田祝一・清子夫妻、および、安野忠彦・智紗夫妻を助ける為の物なのです。

 今回の章だけではそれが、説明をできません。だから、一般の読者様におかれましては、あれ、変なことを言うなあと、お思いでしょうが、こういう悪さを、企案している方と、そのニュースから、被害を受けている私の両方には、それが、きちんとわかっている問題です。

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副題3、『練馬美術館あたりに、旧・鎌近の役割を奪われているでしょう。酒井忠康氏よ。どう思っておられるのですか?』

 でね。通称・鎌近(=神奈川県立美術館・旧本館)は、水沢勉氏が、次期館長候補として、一九八〇年代、そこに勤務しているからこそ、移転が、計画をされたと、私は見ています。

 つまり、これも、<<<<<私が、水沢氏と交流を深めて、大物アーチストになって行く可能性を阻止するために計画をされた>>>>>と、見ています。移転の、実際の交渉事は、酒井忠康氏が、行ったと、思われますが、現在の葉山館の建っている場所(旧、高松宮邸、いわゆる別荘)に白羽の矢を立てたのは、益山重夫(元海軍参謀)と、瀬島龍三(元陸軍参謀)の、二人でしょう。二人、特に益山氏にとっては、三浦半島は、隅の隅まで、熟知している一帯であったと、推察しています。で、広壮にして、不便な場所で、私が行きにくい場所を見つけるのなど、お茶の子さいさいだったと、推察します。また、瀬島龍三氏は、戦後最大のエージェントですから、どんな場所も自分の思い通りにできる人です。で、彼のアイデアで、この鎌近の移転は進行したと、見ています。

 この移転は、近美の職員サイドから、「あそこがどうでしょう?」と、提案されたというわけでは無くて、神奈川県の方から提案が出たと思いますが、神奈川県の吏員の裏には、瀬島龍三が居たと、推察しています。

 ずいぶんと、自分中心に考えているみたいですが、これから、語る、JPモルガン教授との関係とか、レディ・クリシュナ教授(1999年当時、ニューヨーク大学の美術学部長だった)との関係、主に、その私との仲良しぶりと、その後の離反ぶりを、語れば、葉山への、近代美術館の移転の裏側に関する、私の推察も、あながち、嘘ではないと、読者の皆様もご理解なさると、思いますよ。

 ところで、葉山と言う立地ですが、美術館の使命と、役割そのものも、変換させてしまいました。それまでは、この美術館は、勉強の場所を提供してくれていたのです。鎌倉駅から徒歩で、10分の距離です。(それは、不動産会社に言わせれば、徒歩6分圏内でしょう。我が家が8分だから、当然にそうなる筈です)

 しかも、鶴岡八幡宮境内だから、行き帰りに、自分が調べた、好みのレストランで、昼または、夜の食事をとるとか、それなりの楽しみを味わえます。リーズナブルなお値段で。

 反対に、葉山だと、日蔭茶屋が、経営するフレンチレストランしかありません。ともかく、逗子駅から、バスで、30分かかります。往復が非常に大変で、お金持ちしか、行かれなくなりました。そこは、建築物は、きれいですよ。そして、建築の材質も、よいものが使われていて、豪華です。風景も、夕方など、富士山が真正面に見えて素晴らしい。でも、美術館としての、性格が全く変わってしまったのです。

 私ね、新聞または、NHKの日曜美術館等に、時々企画が出て来る、練馬美術館へ、行ったことが有ります。【中村橋】の駅から、徒歩、実質五分です。不動産会社に言わせると、3分だと、思う。便利です。池袋駅からも近いし。大きさは、鎌近と、似ています。そちらに、旧鎌近が、担っていた・・・・美術を好きな人を啓もうして行く、特に若い人に、・・・・と言う役割が、奪われそうですね。または、庭園美術館とか、パナソニックの汐留ミュージアムとかに。そして、以前は、ごく好事家しか、行かなかったであろう、原美術館が、話題に上ることも増えましたし。

 つまり、私は、現館長の、水沢氏に遠慮があって、それを、今まであまり強くは語らなかったのですが、性質が全く変わってしまったと、考えていて、残念だと、思っている次第です。

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副題4、『私には、代替案があった。そして、これが、ベストだったのに、酒井忠康氏は、それを採用せず、その功績で、ご自分だけは、世田谷美術館の館長となり、そこで、鎌近クラスの、美術展を、主宰しておられる。自分一人だけ、得をしたという形だけど、仕方がないので、<フーン!>とだけ、言っておこう』

 私ね、このブログだか、それとも、昔、持っていた、メルマガか? そのどちらかで、代替案を出しています。我が家の真下に、八幡宮様がお持ちになっている自家用車用の、駐車場が二つあります。

 南側は、昔は無料の駐車場だったのです。今は、有料です。しかも、昔は、山の上の住人(20戸足らず)にお客が車で来る場合は、「どうぞ、ご自由に、無料で使ってください」と、言われていたのです。こういう親切心が、今は、全く消えてしまったのも、・・・・・午前10時に長い間、大太鼓をお打ちになると言う事・・・・・と同じで、・・・・・ともかく、「彼女(=このブログの著者)をいじめることへ役立つなら、何でもやりましょう。やってください。または、やらせましょう」の一つでしょう。

 この美術館移転の話は、当時は、まだ、美術館の方での、ナンバーツーであった、酒井忠康氏と、八幡宮様の方でもナンバーツーだった吉田茂穂・現宮司との間で、交渉が、為されたと思いますが、酒井忠康氏が、本当に現代美術を愛する人だったら、この葉山案は蹴って、八幡宮様がお持ちになっている、この二つの駐車場をお買いになるか、新たな借款契約を、当時の、持ち主と交わしたらよかったと思います。そうなると、既に、建設されていて、公開展示が行われている、小袋谷トンネル傍の別館と、こちらの新・本館(=北館と、南館に分けて建設することになるが、その間を、デパートの多くが採用しているを空中回廊でつなげば、同じチケットで、全部見ることができます。収蔵品などの為にスペースが足りない見込みが有ったら、現在、横須賀市立美術館がそれを行っている様に、地下室を掘ればいいし。また、風致地区問題が起きたとしても、崖地を利用して、西側だけが、地中に潜り込んでいる形式にすれば、それも、クリアーできたはずです)との二つで、大切な部分は保持したまま、借地を八幡宮様に、変換することができたでしょう。後の祭りだけど、それが、ベストだったのだとは、言っておきます。

 これは、八幡宮様にとっても、その方がよかったのですよ。鎌倉市内には、駐車場は、いくらでもあるのだから、駐車場を、二つも持ち、そのレンタル料金を、八幡宮様が、ご自分のものになさるシステムは、昔を知って居る者にとっては、『恥ずかしいなあ』と、思ってしまいます。

 それにね。現代アートを楽しみたいと、願う様な階層は、現代日本でも、時間とお金に、もっとも、余裕のある高い階層の人達だったのです。これからは、そう言う階層は、寄り付かなくなるでしょう。それは、鶴岡八幡宮様にとっては、一つの損失だと、言う事となると、思います。二つある、建物のうち、通称、白い箱と、呼ばれている方は、残すと聞いています。 

 そして、お社か、鎌倉市内からの発掘物か、どちらかは、知りませんが、宝物を飾る博物館にすると言う話を聞いたことが有りますが、それは、今までとは、まったく傾向の違ったものとなり、魅力を持たないものとなるでしょう。遠くから来た観光客はひきつけるかもしれませんけれど。

 もう一つ代替案があります。今別館と呼ばれている、小袋谷トンネル南側にある、版画(または、クロッキー用の、美術館ですが、あそこでもいいのですよ。崖地を利用したり、地下室を利用したりしたら、結構なスペースの美術館ができます。

 歩くと、南側の鎌倉駅から20分かかりますが、北へ向かうと建長寺が、徒歩、15分で行かれますので、来客数と言う意味では、やや、希望がある立地です。

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副題5、『プリンスホテル(鎌倉)での、酒井忠康氏の、不愛想ぶりは、尋常ではなくて、今思うと、その頃から、この移転の話は、すでに、締結をされていたと、推察をされる』

 鶴岡八幡宮様が、プリンスホテル(鎌倉)で、大パーティを催されたことが有ったのです。招待をされた側は、当時、ぼんぼり祭りに献灯をしている、人間たちと言う事でした。その時、円卓で、私は酒井氏のお隣だったのです。しかし、何を話しかけても、応答がないのでした。その時は、『自分が無名だから、こういう風に失礼極まりない態度で、無視をし続けるという応対なのだろう。酒井氏って、セレブ仲間としか付き合わないと決めている計算高い人なのだなあ』と、思いましたが、その考えは、今思うと、違っていますね。

 それは、1995年ごろでしたが、もう、酒井氏は、私の事を知っていたのです。ただし、悪い方向ばかり聞かされるという形だけで、知っていたのでしょう。または、現在もそれが、有効だと、連中が思っている、目の前に居る人物が、不愛想で、挨拶をしてこないと言う事が、この時に、実行をされたのかもしれません。この最後の、想像が一番当たっていると、思いますが、前の方の、推察も当たらずとも言えず、遠からずでしょう。

@@@@@@@ここが、29日の午前中に、行っている推敲部分の最先端です。ここで、二時間ほど、別の仕事をさせてくださいませ。

 特に、この移転が、私を苦しめる為の物だと、酒井氏には、判っていたのでしょう。そして、パーティで私を無視し続けることも、例のノイローゼにさせることに役に立つと、考えられていたのでしょう。

 酒井氏に関しての、エピソードは、まだ、初出のものを含めて、たくさんあります。氏が、瀬島隆三たちの言うなりだったと言う事を傍証づける話は、他に、10ぐらいありますが、本日は酒井氏が、メインではないので、ここで、終わっておきます。

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副題6、『私は、鎌近の庭で、水沢氏に、<秋に、Pratt Institute に、行くつもりです>と、話しかけたのだったが・・・・・』

 ところで、鎌倉近代美術館の、旧本館が移転をしてしまったのも、瀬島隆三たちの間からと言っていますが、その建物の、職員用玄関の前に在った、アメリカキササゲの大木を切られてしまったのも、彼等の私に対するいじめです。私は、その木について、何度も書いていますから。

 これは、どこか(東京農大か?)の教授が、切った方がいいと進言をしたそうですが、まったく病気ではありませんでした。切った直後の残った幹は、真っ黄色であって、どこにも病気の影はなかったのです。ただ、私はj-pegが総べて、インターネットで、把握をされているのを知っているので、直後の写真はわざと撮っておらず、一年後に灰色になった後で、撮影をしていますが、どこにも茶色の部分などないのですよ。豆科なので、臥竜のごとく、横たわってはいました。でも、吉田茂穂宮司は、 悪人たちの言うなりになって、切断をなさったのです。悪人たちにしてみれば、八幡宮様がお前に敵対しているのだ』と見せつけるのは、私がノイローゼになるのに、効果絶大だろうと、考えていたのでしょう。その結果が、大銀杏の倒壊です。だから、彼等とつるむと、災難が起きるというのは、ココにも証明がなされているのです。これ程に、因果関係が明瞭なものもないという程でした。

 私は、今までは、「ご近所の前田祝一、清子夫妻が、ひどい事ばかりやってきていて、その清子夫人が、共産党員らしいのに、國學院大學の講師になれたのは、どうも、鶴岡八幡宮様の推薦らしいが(この時の宮司は、白井さんだったが)、その影響が33%ぐらいある」と、繰り返し述べておりますが、このアメリカキササゲを切ってしまわれたのも、大きな原因となっているでしょう。15%ぐらいかなあ? いや、もっと大きいかもしれない。

 で、その切断が起きる前までは、よく、美術館の塀のそば、および太鼓橋の傍を通って、郵便局などには、行ったものでした。今は、キササゲに切断の跡が嫌なので、ほとんどそこは通りません。が、頻繁にそこを通ったからこそ、当時は先生と呼んでいた水沢氏にも出会ったものです。ごく自然な形で。

 で、「先生、この秋、Pratt Institute に行くつもりです」と、告げたのです。パリで、作って来た版画は美術館内レストランで、お見せしてあって、好評を受けたし。

 これは、その頃のアトリエの様子で、主人が、ローラーを置く道具を木工で、作って持ってきてくれた日に、主人に撮影してもらっています。まだ、フェルトが、新しくてきれいです。

 ともかく、やっとですが、水沢勉氏との庭先での、会話のところへ戻ります。

 「おや、それって、大学の筈ですよ」と、氏はおっしゃる。私はちょっと面喰いました。地球堂で、出会った女性の言っている感じでは、版画工房だと言う事でした。だが、水沢氏は大学だという。これは、水沢氏の方が正しかったのです。しかし、大学には、学部用、および大学院用の、大きな版画工房が、付設されてあったので、アメリカ人の、女性が、嘘を言ったわけでもないのです。

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 さて皆さま、29日の、午前2時まで、自分としては、すでに、切り取りをしたつもりだった、赤津侃さんの20万円の話が、ここに残っておりました。 赤津侃さんの話は、昨日28日のうちに、ひっこめたつもりになっておりました。気の毒だから、奏したというよりも、次の段階にくっつけた方がいいと判断をしたからです。ここでは、酒井忠康氏と、大原光孝さんとの関係に入って行きたいと、思います。 

 先週ANAにシステム異常が発見をされ、北海道他で、大勢の人が迷惑をこうむりました。その件を私が知らないでいるうちに、それが、成功したと思った悪人たちに拠る大反動攻撃が、起きて、まあ、いろいろと、嫌な思いをしたわけですが、

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副題7、『上に置いた写真の、別バージョンをもう一つ置かないといけなくなった』

 直前の節、副題6の中に、アトリエの様子と、プレスと言う版画を制作する機械が置いてあります。しかし、ここで、この写真の別バージョンを置かないといけなくなりました。それをここに置かせてくださいませ。

 この写真には、左に黄色い矢印が加えられておりその先に、木製の、棚が見えます。これは、主人が作ってくれたもので、ゴム製のローラーを置く道具です。その木製のローラーとは、下に写真を置いているもので、パリで買ってきた四本で、46万円もの、額がかかって居る者です。

 今では、木製の箱がありますが、上のプレスが届いたころには、まだ、この箱ができて居なくて、棚があった方が便利だったのです。で、主人が鎌倉の家で、木工で、作ってくれました。で、アトリエで、過ごしていることは、主人の公認の話でした。

 しかし、このブログに、たびたび登場する大原光孝さんと言う近所住まいの画家が、「川崎さんがね、逗子のアトリエに居ることは、この山の連中はみんな知っていますよ」と、言うのです。それは、2000年から、2004年の間だったと覚えているのですが、その発言を、本音として、換言すれば、『川崎さんって、とうとう離婚をするのでしょう。それって負けだよね。僕たちみたいに、夫婦仲良く暮らしている人間から見れば』と言う事を言って居るわけです。で、私は、リアルな世界では、決して喧嘩をしない主義だから、何にも説明をしないで、さっと別れました。だがね。皆様、現在、実質的には、大原光孝さんの、方が別居状態なのですよ。

 私の方は、この50代という時期のうちに、世界を見ておきたい。旅行ではなくて、現地に滞在するという形で、というはっきりした目的があって、逗子のアトリエを作っていたわけです。しかし、大原光孝夫妻が別居している理由には、別のものがあるでしょう。鎌倉の家で、主婦として、母として、日常生活を送る限り、海外へは行かれないと、思っていましたから。

後注1、

島田章三が、CIAの【鉄砲玉+可愛子】ちゃんであるからこそ、ANAのsystem障害(16-3-22)が起きた   2016-03-22 21:09:31 | 文化、芸術、書物

後注2、

私は不動産についても、資産が目減りする様に、苛め抜かれているのだった2016-02-20 22:11:07 | 政治

 この文章の

   なお、このブログの、2010年より数え始めた延べ訪問回数は、343144 3です。

推敲をして、リンク先を見つけたら、署名と書いた日付を入れます。

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