銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

実家から父の写真を貰ってきた。・・・・でもねえ。新コロナウィルスの裏側の真実を考えると、雪ノ下から始まっているのが、わかるので、愕然としますよ

2020-02-22 23:40:33 | 政治

 今は、月曜日24日の午前8時ですが、やっと初稿は、まとめ上げました。二日がかりでしたね。あとで、誤変換直しなどの、推敲をします。 

本日ね、小さいけれど、これは、ラッキーという事がありました。父や母の写真が全部我が、鎌倉の家から盗まれていると、いう事はお話をしてあると、思います。それと父が絵が大変上手で、五族協和の、星として、その絵が、満州国皇帝、ラストエンペラーとか、満映理事長、甘粕大尉の、執務室の壁を飾っていた事などが、出ていた新聞記事などが、盗まれているのです。父の絵は、すべて、中国の遺跡群で、余りディフォルメはしていないまっとうな描き方の絵です。梅原龍三郎ではない。しかし戦争賛美絵画でもない。  
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副題1、『国会図書館の怪奇現象・・・・・というか、悪い政治まみれの図書館長』
 私は父に関する新聞記事は、国会図書館に行けばあると思っていたのです。それで、見に行くと、驚いたことに、満州時代の新聞はすべて、奇数頁しか、マイクロフィルム化されておらず、文化面は、消されていたのでした。マイクロフィルム化するという事が、おおきな記事として、200X年、当時の日経新聞に踊っていましたが、まさか私狙いで、それが、行われているとは、夢にも思って居ませんでした。まず、我が家から盗んでおいて、その後で、国会図書館に保存をされているであろう・・・・・新聞の文化面をすべて、削除してあるのです。しかも、私が国会図書館に行くたびに警察車両が、私が入ろうとするドア前で、待っているのでした。半蔵門線を使って、永田町駅で降りれば、お堀側の入り口で、パトカーが二台待っているし、丸ノ内線を使って、昔の名称である、国会議事堂前駅で降りれば、国会議事堂に面した入り口の前に、二台の機動隊用バスが止まっているという具合にです。

 それらを書くと、今度は、マイクフィルムが劣化したという事で、満州時代の新聞は、一切見ることができなくなったのです。それを書くと、今度は、爆笑問題が、【探検バクモン】というタイトルの彼らの人気番組で、お正月特集として、国会図書館を訪問することとなりました。そして、いつもより、長時間取って、荒俣宏さんと一緒に国会図書館内を探索したのです。立派な設備と立派な蔵書はあるものの、警察の指導の下に、満州時代の、文化面を歴史から、抹殺することに手を貸しておられるのでした。三浦朱門さんあたりが、館長だった時代ではないかしら。
 三浦半島に住んでおられたから、鎌倉エージェントとは親しいのでしょうし。

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副題2、『なぜ、警察が、こういう風なひどいことをやるかというと、一つには、伊藤玄二郎の元愛人であることを自ら名乗る、陶芸家、石川和子さんの大失敗にあるだろう。今期の朝ドラスカーレットは、女性陶芸家の話なのだが、其れは、石川和子さんについて、いろいろ私が、書いていることを、打ち消してやろうとして、立派で、魅力的なご夫婦として、朝ドラに登場する。しかし、石川和子・柳沢昇夫婦なんて、全く異なるのだ。けれど、テレビを支配している、伊藤玄二郎一派は、戸田恵梨香を使えば、自分達の方が勝つと、信じ込んでいるみたいだ。そうですかと、言って苦笑をして置くほかはない』

 石川和子さんは、私の猫が「彼女よりも私の方を好きだ」と、いっただけで、パニックと怒りに襲われて、警官を呼び、その二人に、「あそこのご主人に、彼女(=私の事)を、叱る様に頼んでください」と言ったのだ。おっそるべき傲慢とふてぶてしさの人であって、警官なんて、私的な家来だと、思って居る人間だ。数々のストーカー事件で、被害者を救えなかった警察は、たった、猫一匹の事で、絶対に車の入ってこられないこの山で、私を脅かしたり、すかしたりしたうえで、交通事故の調書を取って、さらに、脅かした。

 しかし、どう考えてみても、これは、警察官の方の失敗だから、私は、それを書く。すると、今度は、三原橋交差点で、私が実際に交通事故に出会った時に、「聖路加病院に治療をするな」と、警官二人が言いに来た。それが、どうしてわかったかというと、私が、植え込みの陰で、待っていた時に、警官二人がやって来て、「ちっきショー、間に合わなかった」といいながらサイレンを鳴らさない、パトカーに乗って帰って行ったのだ。夜9時前後で、外科にほかの患者はいなかったのだから、警察が、治療をするなと、言いに来たのだった。私の猫が、石川和子・柳沢昇夫妻よりも、私の方を好きな事は、全く当たり前の事なのに、これから、築地警察署に行かなければならないので、加害者の車が、送ってくれるそうで、彼が駐車場から、車を取って来る間、植え込みの陰で、待っていたら、

%%%%%%%%%%%% ここから先は、23日に書く部分です。

そういう現象を見聞きしてしまった。本当に何という事だろう。

 石川和子という中央では、何の名前もない、単なる、日銭稼ぎおばさん(陶芸家だが、教える事だけで、生計を立てている人物である)の驚くべき傲慢さが、単に鎌倉警察署管轄内だけでは終わらずに、築地警察署まで、影響力を持つ・・・・・

 ここから先に大口病院の、点滴袋への、毒物類、混入で、紳士が二人亡くなるとか、色々、発展していくのです。

 しかも、私の脳内では、この点から出発して、今回のコロナウィルスが、武漢の生物兵器研究所から、意図的に、ばらまかれ、

 しかも、それは、アイデアと、実行願いは、日本の鎌倉エージェント(それは、上記の石川和子さんの元愛人である、)伊藤玄二郎かまくら春秋社社長と、かれと、二人羽織というほどの、共闘している、しかも、いまだ生きている、大ウソつきの、井上ひさしが、案出し、お願いし、命令し、それに、警察の特殊部隊が、協力して、日本の、あっち、こっちの日本でも、ばらまいていると、言うところにまで、発展をするのですよ。
 ですから、石川和子さんの、あれこれについて語ることは、ご近所トラブルを語る問題ではないのです。大いなる政治問題です。
  つまり、彼女の存在で、私は、日本の警察は、伊藤玄二郎の家来であると、言うことがわかったのです。個人的な復讐に税金をかけて、総力を挙げて加担をしている・・・・・それが、日本の警察の真実です。
 しかもその警察は、ご近所の一般人、二軒にも我が家の合い鍵を渡していますね。しかも、その期間が10年以上にわたります。だから、そちらの渡された方の気分が緩んでしまって、めんたいこを盗んだり、お化粧品を盗む様にまでなっているのですよ。それが、警察庁長官の命令で、行われていると仮定すると(いや、仮定とは、言わないでおきましょう。本当の話です)、この日本という国の劣化と、崩壊ぶりもすさまじいです。本当に恐ろしい国になっていますよ。国会は揚げ足取りばかりです。そして、文化面は、CIAエージェントたる、井上ひさしなどのお気に入りの人間ばかり、テレビ露出をして、お金を儲け、名誉も得ると、言う仕組みになっています。瀬戸内寂聴さんなどその典型ですが、文章を書く人ではない人で、今、光が過剰に当たっているのが、隈研吾さんです。
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副題3、『隈研吾氏は、NHKカメラの中で、余りにも傲慢ぶりを示した。一方世界中で、似たような位置にあり、もしかしたら、もっと、知名度が高い、杉本博司は、相変わらず、普通であるし、安藤忠雄も、知的人間を相手に、諧謔と真実を込めた、面白い公演を続けファンが多い模様であった。隈研吾氏の傲慢ぶりは、開発チエさんと、私との、軋轢(後注2)から、来ているもので、テレビ画面の中で、如何に、自分が金持ちで、世界中を飛び回っているかを、示してくださいと、わざと、脚色上頼まれているのかもしれないが、・・・・・まあ、見ていて反吐が出そうなほどの、傲岸不遜ぶりであった。
週刊新潮2月27日号では、二か所で、隈研吾が登場する。合計たった四頁だけど、印象は強烈だ。この近辺で、似やような事が、紙のメディアで、横溢していると、感じている。ところで、この2月の15日か16日に、NHKBS1で、日本酒が、世界で、どういう位置にあり、どういう受け入れられ方をしているかが、特集をされていた。合計、2時間だったか、4時間だったか? そこでも最後の方に、隈研吾氏が、
現れて、車の中で、ドンペリの元最高責任者、ジェフロワ氏と語るのですが、その場面での、隈氏の傲岸さ。
あのね、ジェフロワ氏と、一緒に食事をして、いい発想を得ているそうです。しかし、いうに事欠いて、言うに、こと欠いて、高級なとか、豪華な、レストランで・・・・と続けたのです。しかも、公共の電話、NHK BS1を使って。
隈氏が、新国立競技場を設計しなかったら、まだいいのです。根津美術館、開花亭新館、国際基督教大学体育館の、三つを直ちに記憶している建物として挙げることができるのですが、それらは、私立の施設で、私企業が、お金を出しています。

  週刊新潮2020-2-27日号に、よれば、ゆすはら雲の上の図書館という、税金の施設も作っている模様です。まあ、そちらは、国立競技場に比べれば、ゼロが、三つぐらい小さい金額の設計料でしょう。しかも私が住んで居ない地方の、町の税金です。だから、それについては文句を言うべきではないでしょうが、これって、どういう風に掃除をするのですか? と、疑問を持ちますね。町です。足場を組んで、掃除をするのですか? 圧縮空気で、掃除をしますか?

 こういう掃除のしにくい建築物は、設計家は、思いついても、お客の後々の、経費を考えて、提案しないものでしょう。それが、誠実というものではないですか? 四国の小さな町が、その清掃の費用を分担できるだろうか。できないでしょう。そういう部分への想像力ってないのでしょうかねえ。

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副題4、『明治神宮の森は、生育を抑制する必要はない。しかし、新国立競技場に植え込むという植栽は、毎年剪定をしないといけないだろう。それに鉢に入れた植木類は、毎日水をやらないといけない。それに多大な費用が掛かる。もしかすると、それを中止しましたか? お披露目の時に、空中に、外と内側を、空気が、流通する、空間があった。あそこに本当なら植栽を植えるという事でコンペに勝ったはずですが、工事が遅れているので、急遽、植木類を植えこむことは、中止になりましたか?

 というのも、お披露目の日に、報道をされたニュースでは、記者連中が一人も、植栽について言わなかったのです。

 私は、前から、この件を批判し続けていますので、急に中止になりましたか? なんだかご都合主義です。が、私は、別の観点からも批判をし続けます。新国立競技場は、その大きさ自体で、ありとあらゆる意味で金食い虫なのです。基本的な哲学を欠いた、金食い虫なのです。そして、隈研吾を、持ち上げて、それで、開発チエさんを、いいものとして行き、私より上の人間として行き、私のブログをつぶして行ってやろうとする、鎌倉エージェントが勝つという結果へ結びつきます。

 然しねエ。鎌倉エージェントこそ、このコロナウィルスを、ばらまいている張本人なのですよ。となると、自分達で、隈研吾を持ち上げ持ち上げて、置きながら、

 彼の一大傑作【❔????】である、新国立競技場の、もっとも、おおきな晴舞台である、東京五輪が、この新コロナウィルスのせいで、つぶれそうだという大矛盾をも、同時に生起させているのです。

 そういう現象を冷静に、そばから、見ていると、これは、悲劇なのか、喜劇なのかと、思い至ります。

 そして、今この五行部分を書いている私に対して、井上ひさしと思われる人物が、単純化された、アイコンをいじって、盛んにシステム異常を起こしています。其れは、遠隔操作で、私が今、開いているノートパソコンのワードと、同じ画面を見ているので、自分達の考えていることを、見事にグサッといい当てられた、時に固有に起きる現象です。彼が、これは、公開されたくないと、考えて邪魔をしてきているのです。だからこそ、ここに書いていることは、真実なのですよ。最近ブログが書きにくくて、書きにくくて、仕方がないので、ワードで、原稿を作って、コピペしていくという、二重手間、三重手間をかけていますが、それも、これも、新コロナウィルスに関する、私の記述が正しいからでしょう。

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副題5、『年金収入が、年に400万円以下の、人は、税金を支払わなくてもいいと、明記されている。私は、年間所得、180万円程度だけれど、年金以外の所得なので、日本国にも、鎌倉市にも税金を支払わないといけない。経費次第で変わって来るが、年間、3万円から7万円程度を国家へ納入する。確定申告の現場では、特に、解説を聞くために並んでいる現場では、怨嗟の声が満ち満ちている。そして、三万八千円ぐらいを限度の境目として、それよりも国税が、たかくなると、

市県民税も高くなるし、後期高齢者医療保険も高くなる。

 この山には、ご夫婦で、元都庁に勤務していた人がいる。その人は、今、現在は、年金が、380万円程度、入っている可能性が高い。もっと上かもしれない。この人も敵さん陣営の一人だけど、常にバランスを取る人なので、ここでは実名を言わないでおく。しかし、バランスを取るか取らないか、微妙なところに位置している・・・・・いや、二年前までは、徹底的に敵方だった人なのだけれど・・・・前田清子さんは、私立大学だが、ご主人が、大学教授だったし、ご自分は、大学の講師だったので、年金が、380万円ぐらいある可能性がある。今、一回ひっこめているが、2月16日に恐ろしい罠が張られていたことを文章化している。其れを一回ひっこめているのは、お父さんが、一緒に住んで居ない小学生のお嬢ちゃんのママが、どうしてヨーロッパで、暮らせないのかを、説明したいと、思って居て、それが、大ごとなので・・・・・というのも、父親の事業の継承という事があるはずなので、そういう事となっているのだと、私は、推察しているのだけれど・・・・・いったん、ひっこめてしまっているが、その時に、重要な役目を果たしていたのが、前田清子さんだった。私は、彼女が最上級のおしゃれをしていることと、変な場所で、とどまって、携帯を見ているので、すぐ罠に気が付いて、心構えを整えたのだけれど、その時に彼女が着ていた上半身が、濃い目の上品な赤で、下半身が、チャコールグレーに段階をつけて変化していくコートは、経済的に余裕がある人ではないと買えないコートだと、思い至って、彼女の年金は、400万円に近いのだろうなあと、思った。2020年、という現在の日本で、一人暮らしの女性が持ち家に住み、家賃を払わないでいて、しかも、月収、30万円があったら、おんのじだと、思う。セーフであり、OKであり、万々歳だ。

 その上、貯金もあるはずで、優雅なものだと、思う。サラリーマンの妻で、現在未亡人の人としては、最高級に幸せな人達の方だ。こういう人物は、我が家の冷蔵庫から明太子を盗んで行ったりはしない。だけど、色々なものを平気で、盗む、合鍵・所有者が、二軒あることも真実だ。そして、そういう事を私がわかっているので、開発チエさんが、動員される。いじめて、ノイローゼにさせて行黄、ブログをかけない様にさせるために彼女が動員をされる。そして、彼女はほかの、その種の人間と同じく、裏側を、私に、知られていることに動転して、パニックに陥り大失敗をしてしまう。

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副題6、『鎌倉雪ノ下と、いう土地のブランド性と、日吉、徒歩圏内という土地のブランド性の、上下関係を、今は、考えてしまう私である』

::::::::ここで、蛇足的余談に入ってしまうのだけれど、この雪ノ下の山は、カーポートを設置できない場所なので、住人としては「精神性を重んじていて、資産状況においては、そんなに金持ちでもありませんよ」と、いう種族が多かったのだけれど、いつの間にか、富裕層が住む一帯となっている。其れは、両親から合わせて相当額の遺産をもらって居る私に、対して・・・・・資産状況的に、勝つ人間を転入させよ・・・・・と、鎌倉エージェント達(=CIA日本・本部)が考えているからであろう。その上、石段で、上らないといけないという不便さがあるので、鎌倉駅から徒歩8分という、立地条件なのに、相続の際に、土地が分割されることがない。で、たった20軒しか家がなくて、それぞれの家が古びている様に見えるのだけれど、結構な高級住宅街へと、脱皮変身するかもしれないと、思い至っている。最近での、このご近所での売り物件は我が家の北隣が、更地で、1000万円とか(それは、実質40坪程度しか使えない土地だが)、別の眺望のよい土地が、古家付きで、1980万円で、売られている。それは、実質60坪使える。ただし、建築基準法に違反する建築となる可能性がある。進入路が、幅一メートルしかないので。で、古家をリフォームという形で、住むのかもしれない。

一方で、日吉の方だが、実家の近辺半径30メートル以内に、最近立て続けに、三軒の売り物件が出て、それらは、すべて、一億円以上だったと思われるのだが、すべての、敷地が買い手によって、分割をされるらしい。二軒とか、三軒、の、デザイナーズ建売り物件となる可能性がある。白くて、きれいなデザイナーズ、建売住宅は、光り輝いては居るが、その手のおうちには、植木がほとんどないので、こちらの雪ノ下の方が、実質的に上なのかもしれない。ちょっと、わからなくなってきた。でも、日吉の家には、父や母の思い出があるので、「宝くじが当たったら買いたいわ」と、弟に言って居る。まあ、あぶく銭というか、不労所得は、遺産がすでに入っているので、二重に幸運に見舞われることはないだろう。其れでも、既に、77歳になっていて、ほかに収入源はないのだから、夢を託して、宝くじを買う。笑う手合いは、笑えばいいと、覚悟を決めている。日吉のご近所様に、90を超えて家を新築された人がいるので、私も「三千万円当たったら、こういう家を建てて、3億円当たったら、こういう家を建てて」と、常に、方眼紙を持ち歩いていて、電車の中で間取りを考案している。これは、一種のレジャーだ。頭を使うので、ボケないで、済むと、思うし。電車の中で、紙のパズル【数独】をやって居る高齢者をよく見かけるが、50代まではあれが、好きだった私だが、今では、間取り図を書く方が楽しい。::::::という挿入を入れて元へ戻ろう。

私は私の生活の中で、自足をしている。そして、常に、にこにこしているので、電車の中では、必ず席を譲られる。が、今では、それを断ったりしている。弾圧の諸現象に関しては、罠を、事前に想定することが可能で、以前ほど参っていないので、「ああ、結構ですよ。大丈夫です」と断ったりしているほどだ。

だけど、冷静に判断はする。別に嫉妬するわけではないが、女性の場合、着ているものを見ていると、その女性の資産状況はわかるので、前田清子さんと、元都庁ご勤務マダムは、ご近所住民の中では、年金が高い方だろうなあとわかるのだった。

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副題7、『あなた方は、東京タワーの設計者の名前をソラで言えますか? では、スカイツリーの設計者は? 多摩川の水が逆流した武蔵小杉のタワーマンションの設計者の名前は? また、傾きマンションで、有名なララ横浜の設計者の名前は?』
 都庁とか、代々木の体育館の、設計者は、一般人でも知っている。しかし、それを銀座で街頭インタビューをしたとしても、空で、ぴたりと、言い当てる人は少ないと、思う。しかし、隈研吾氏の名前が、東京五輪の新国立競技場と、結びつけて、これ程、バシャバシャと、報道露出があると、国民の頭に、その名前は、植え付けられる。そして、それは、東京五輪の成功不成功、と、ぴったりと、結びつけて、記憶するだろう。
 ここで、横浜市の市政施行150周年の、記念行事の、ケースを前例として出そう。【開国博Y150】と名付けられたその、催しの失敗で、中田宏当時の横浜市長が、失墜した。市制施行150周年は、喜ばしい事だけれど、それと、金儲けの企画を結び付けてしまい、町のレストラン等に、寄付を仰いだのに、見返りがなかったからだ。そして、寄付のお金を巨大な、タカアシガニ風の現代アートに使ったなどが、寄付者たちからの、猛反発を招いた。
 大きいとか、巨大であるという事は、メリットではない。失敗した時の反発は、激しい。隈研吾氏は、ジェフロワというフランス人と懇意で、一緒に会食してよい発想を得るそうだが、どうして中田宏氏の、このケースから学ばなかったのだろう。
 自分が不利になったり、貧乏になったりすることをきわめて恐れていて、失敗例には、できるだけ、近寄らない様にしているのですか? ありえますね。だけど、それって、きわめて了見が狭いという事ではないですか? 気が小さいという事ではないですか?
 今、横浜市民に質問をしても、あの、タカアシガニみたいだった、現代アートの作家名を言える人はいないと、思う。建築もそうであって、神奈川県(立)近代美術館の場合も、旧本館の、坂倉準三は、その名前が、表に出ているけれど、別館と葉山館は、おもてにでていない。
 しかし、これ程に、隈研吾の名前が、メディア露出をすると、国民の大多数は、新国立競技場を設計したのは、隈研吾だと、覚え込んでしまう。
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 未だ、まだ、いっぱい語りたいことは、あるのです。安藤忠雄氏のファンのしとやかで、知的な気質と、「隈研吾のファンです」と声高く語るヒステリックな開発チエさんとの、気質の違いとか、
 杉本博司氏が、テレビカメラに向かって話をするときの姿勢とか、声音の、隈研吾氏との。違いとか、それを、比較をしたかったのですよ。
 そして、金曜日に、外の貸しパソコンで作った画像が、取り出せるか取り出せないかの問題とか、多数の話題があるのですが、ここは、書き始めてから、次の日の午前二時になったので、急に、まとめの姿勢に入って、
 私が、2月22日の土曜日に、弟から、父の写真をもらったと、いう話に入ります。急な方向転換ですが、お許しくださいませ。
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副題8、『父は萩の実家のアルバムから、自分が写っている記念写真の類を、四枚ほどはがして、日吉の家に持って来たらしい。其れを、整理上手の弟から,もらった。僥倖だったと、思って居る。嬉しい。冒頭で、言って居る様に、戦前に写した両親の写真がすべて、この鎌倉の家から、盗まれているからだ』
  

1922年 (=大正11年)の、父、旧制山口中学入学時の記念写真かな?  という事は彼が13歳の時の写真です。いや、正確に言うと、12歳と10か月ですね。

今の新制中学一年生より、大人びているかな?

これをこの章の、写真Aと、名付けます。 


次の写真をこの章では、Bと名付けます。萩の父の実家の、南側の庭で、写した写真で、1927年(大正7年)の筈です。父は、この時、17歳と、10か月で、これから、旧制専門学校へ入学する時でしょう。大正8年とは、大正デモクラシーの真っ最中で、17歳なのに、髪をポマードで、固めているみたいですね。その20年後には、髪を、そることを、国民全体が、命じられるのですが・・・・・そう言う結婚後の時代の写真が、盗まれているのです。
 
 白いエプロンの女の子は、私の従姉妹で、13歳ぐらい年上でした。右端は、父の兄で、11歳も年上でした。旧制中学の数学の教師をして居ました。音楽も担任ができたそうです。
 既に、父の父は他界して居て、しかも長州藩の上司としての、給料は明治維新以来、出ていなかったので、一高、二高、三高と呼ばれていた旧制高校に進学することはできなかったのです。で、結果として旧制帝大にも進学することはできませんでした。しかし、一応は、現代の大学の卒業生ですよ。旧制専門学校とは、ほとんどが戦後大学になりましたので。
 なお、父の実家は、長らく堀之内と、いう旧市街にあったのですが、明治維新後、東萩というところに山を買って引っ越しました。父の兄と、兄嫁と、父の姉は、すべて、師範学校を出ていて、学校の先生をする傍ら、橙の栽培を行っていたのです。そういうお金で、父は学校へ行かせてもらっていました。
 ただ、右から三人目の、兵児帯の女の子だけ、私には誰かがわかりません。おば(父にとっては、兄嫁)の親戚の女の子で、津和野よりも萩の学校の方がレベルが高いという事で、寄留をしていたのではないかなあ。すべての登場人物がすでに、亡くなっているので、質問する相手がいないのですが・・・・・

 なお、私は、満州から引き揚げてきたとき、この家にお世話になっていますが、その時、この家に、低学年用の、国語の教科書が置いてあって、私は三歳か、四歳だったのに、あかず、眺めていました。サイタ。サイタ。サクラガサイタ・・・・・とすべてカタカナでしたが、紙がつるつるの上等なもので、私は、それまで、触ったこともない紙質だったからです。また、判型も大きかったです。B5サイズだったと思います。それが、きっと大正デモクラシーの一典型だったのでしょう。 

この写真をCと名付けます。これは、専門学校(秋田鉱山専門学校、石油科)の時代ではなくて、旧制山口中学時代の様な気がします。体形が、少年ぽいっですから。しかも、スタジオで、水着姿を撮っているので、おかしいですね。
 でもね、旧制山口中学時代の大親友が、藤本真澄(のちに東宝の重役となる)だったので、その人と二人で、スタジオで、撮影をしたのかもしれないし、藤本真澄さんが、当時から、プロデュースの才能があったと仮定すると、スタジオの経営者に、「この子、美少年だし、体形がきれいだから、ショーウィンドー用の写真として、撮って」などと頼んだのかもしれません。まあ、当時の基準からすると美少年の範疇に入るのでしょう。でも、今の時代の水泳選手と比較すると、筋肉が細い。細い。
 しかし、どうしてここに、この写真を置いたかというと、旧制秋田鉱山専門学校時代に、神宮の国立競技場に、陸上選手として出場をしているのです。走高跳の選手として、165㎝を飛んだそうです。
ところで父は、「会場で織田幹雄と一緒だった」と言って居ました。年齢が違うはずなのに、不思議な事だと、思って今、丁寧に調べたら、織田幹雄さんは、まず、広島高等師範学校へ入り、その後、早稲田の旧制高校に入り、その後で、旧制帝大と同じシステムで、運営をされていた早稲田大学へ、入学したのです。したがって、浪人ではないが、五年遅れで、学生陸上選手権の会場に現れたのでした。でも、既に、有名なスター選手です。一緒に跳ぶのはうれしかったのでしょう。思い出として語っています。織田選手は、其の六年前の、17歳の時に、既に、日本新記録を出しているのでした。すごい。
1922年(大正11年)、広島一中5年の11月、17歳の時に広島高師で行われた第6回極東選手権競技大会一次予選会において走高跳1m73、走幅跳6m29の日本新記録を樹立[13]、ですから、1928~1932年のどこかで、165㎝を飛んだ父は、とてもとても入賞できるレベルではないです。6位以内にも入っていないと、思います。でもね。楽しい青春時代だったのは確かでしょう。ところで、私の方ですが、織田選手には、少なからずの縁を感じています。日吉で、毎週木曜日の夜、コーラスに誘っていただいていた、横浜国立大学付属中学時代の同級生・新堀真知子さん(最終的な職業はドイツフライブルグの音大の教授)の日吉の家が、代々木に引っ越した後で、そのお宅を買って、引っ越してこられたからです。ただ、没地は、鎌倉と書いてあるので、後日、鎌倉へ転居をされたのでしょう。ただ、日吉でも、鎌倉でも、町内会が違うので、詳細は知りません。
 この水泳選手姿に、特別な思いを、感じているのは、これは、水泳ですが、陸上の方を、父は、よく語っていたので、其れは、隈研吾さん設計の、競技場の二代前だったと、思うのです。そして、小さかったはずですが、その方が、いいという面もあるのですよ。昔、横浜に三ッ沢競技場というのがあって、第10(?)回国体を開いていました。よく見えました。
 実は私の父と母もお見合いで、結婚をしています。父の兄(写真Bで、右端に居る人)は、旧制萩中学の校長でした。母の実父(養家先を飛び出して、別の家に、再び養子に入った)は、旧制柳井商業の校長でした。幼くして、捨てたうえに、母の実母(同じく養子で、こういうのをとり子とり嫁というが、)が若くして亡くなっているので、とりわけ不憫に思ってくれていた模様です。母は、叔父と叔母に育てられました。でも、資産家では、あったので、それに、応じて、「お父さんは、結婚を承諾したのよ」と、母は、悲しそうに言って居た時期もあります。ところが、二人は晩年に向かうほど、仲良くなって密接になっていきます。特に父が、パーキンソン氏病と、脳挫傷を同時に患って、寝たきりになった後では、献身的に介護をして居ました。まあ、終わり良ければ総て良しは、あの二人には当てはまります。

 これは、1928年に専門学校を卒業して、石油系エンジニアとして、早山石油に入社しました。精製の工程などを、研究して、会社に提案する役目などでしょう。石油元売り会社の離合集散は、激しいですが、早山石油は、一時期丸善石油と名乗っていたそうです。

上記の四枚の写真をもらう前は、すべて盗まれていて、下の写真も盗まれているのですが、たまたま、これだけは、スキャンしてあったのです。
 
 裏に、昭和八年、伊勢佐木町にて、早山石油と、父の万年筆の字が残っていました。上の写真の次の年です。しかし、これでは、父の実像を表していないので、悲しい気分だったのですが、上の四枚の写真をもらって、ずいぶんと心慰みました。

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