副題0、『私は前報で、隈研吾さんが、テレビに、露出し過ぎるのは、これも鎌倉エージェントのさじ加減ひとつであって、よくない事だと、言って居る』
教育を受ける権利とか、就職の際に、基本的人権をるべきだと、言われているけれど、実際は、程遠い状況で、CIAのお気に入りは、莫大なひいきを受ける。反対の方は、弾圧を受ける。
どういう手法をやめさせたいが、やめないので、その結果、どうなって行くかを、予言の人として、書いた。あまりにも持ち上げられすぎの隈研吾氏が、設計を担当した、新国立競技場は、将来は、つかわれないこととなり、日本国民は、それを、失敗に終わって、何ももうからなかった東京五輪の象徴として、怨嗟の瞳で、見つめることとなろうと、書いているのが前報だ。
その次に、どうして、隈氏が、これ程、ちやほやされるかというと、開発チエさんが、私に送った、七本のメールが、原因であると、言って居る。
副題1、『開発チエさんに、依頼した仕事は、隠微である・・・・と、私は言う。なぜかと、言うと、それを開発チエさんが、後日、証明することとなったからだ』
隠微なところというのは、普段、このブログを読んでもいない開発さんに、こうこうこういうコメントを、引っ付けてください。特に栗田玲子、渡辺幸子、僕(酒井忠康)について描いている文章に引っ付けてください。そして、「ご返事は、必ず、フェイスブックで、ください」と、言う文章で終わっておいて、ください・・・・・と、教唆命令したことです。
彼女がこのコメントをくれた時点は、後で、調べますが、2012年の6から9月の間の筈で、私は、第一次フェイスブックを追い出されていました。其れは、【トカゲか、鰐か?】というシリーズで、書いている、本格的な警察の特殊部隊との闘いの、記録です。女性刑事が変装した安藤てる子さんと言う、私のファンにして、似たような被害がある、女性に、付きまとわれ、翻弄された、3年間を書いているものです。が、その途中の、2012年の、2月12日の午前一時ごろ、安藤てる子さんへ向けて、その日、訪問をしてきた彼女の生活・ほう助のために書いた、大量の文章が我が家の一階の部屋から盗まれたのです。私が二階にいる間にです。こういう泥棒は、その後もずっと続いていて、主人が、東北の角の和室で寝ていて、私が歌舞伎座の夜の部を見ていて、歌舞伎座内のエレベーターや、新橋駅横須賀線の、エレベーターを利用したら、私が、帰宅をするまでにの一時間以内に、二階や、一階に、泥棒が入るのです。合鍵をもっている泥棒が、三種類いますので。
私は、安藤てる子さんに、日本政治の真実とか、世界政治の真実を教えました。其れは、その時点から、10年たった、今では、日常的に、このブログの世界でも書いています。つまり、日本は非植民地国家で、日本人が汗水たらして働いて、集積である、国庫金は、為替差損や、株の乱高下、核燃料を買うという形で、アメリカに吸い上げられているという真実です。
その後、その盗まれた書類は、かまくら春秋社か、鎌倉警察署のどちらかに運ばれ、そこで、待機をしていた、伊藤玄二郎ほかの、CIA側日本人エージェントに読まれて、
すると、フェイスブックを追い出されました。そのフェイスブックを使って、返事を下さいと、言ってくる開発チエさんの、コメントは、私の苦しみや恥をいや増しに増すもので、おおきな攻撃になるわけです。
開発さんが、生まれた実家が経営している料亭、開花亭の新館を隈研吾氏に、依頼したという部分までは、隠微ではありません。其れは、実業の世界の事であって、表に出せる事です。それに、隈さんは、慶応大学卒でもない。後で、岡田美術館に行って、そこで出されるスィーツ類が、開花亭(神戸)のものらしいと知って、そうか、岡田美術館にも出しているとなると、根津美術館のお菓子も開花亭のものかもしれず、根津美術館を仲介者として、開花亭は、隈研吾さんと、結びついたのだと、なります。
~~~~~~~~~~~~~~~~
副題2、『私は、CIA側にひいきをされ、その言うなりに動いている人を評価しない。というのも,NHKや,朝日・日経などの大メディアを支配し、熟考して、謀略を行うとしても、それと、拮抗する、天の采配というものもあって、それで、悪事が壊れて行くのも、何度も見ているからだ』
隈さんの、新国立競技場より、ずっと前に計画された、神奈川県(立?)近代美術館についても予言が当たったと、見ています。葉山・三が浜にある、旧高松宮(?)邸跡地に、本館を移したのは大失敗です。で、逗子からバスで、長時間乗って行かないと到着できないそちらへは、忙しい若い人が、もう、行かれないので、我が家のある、同じ町内の、雪ノ下二丁目にあった、別館を拡張した模様です。ただし、それは、オリジナルの設計者、大西正人氏が、2010年に亡くなっているので、別の人の設計でしょう。しかし、そのリフォーム用の設計者の名前は、公開されていません。唯ね。別館は、駅から遠いです。そういう楽しみのための場所に行くのは、せいぜい、徒歩12分が限度でしょうね。徒歩で、20分はかかります。そして、旧本館も、文華館となったけれど、お客を集めていません。若いインテリは、昔の武具や、軸などには、興味がないのです。近代美術館があった方が、八幡宮の格が高かったのです。
どうしてそういう事をしたかというと、我が家から、直線にして、100メートルの位置に、旧本館があったので、それを『まずい!』と、瀬島隆三たちが考えたからでしょう。私が大物アーチスト化するのに、そこにあることが、便利だからです。
其れは、土方館長の時代の、計画でしょうが、実際の交渉を担当したのは、酒井忠康氏だと、思って居ます。
そして、その酒井氏か、現在の館長、水沢氏が、慶応大学卒だと、いう事が大問題なのです。慶応閥を利用して、開発チエさんを、対・私攻撃用弾丸に仕立て上げました。彼女が、このブログに、コメントを寄せてきて、大騒ぎが始まり、そこから、隈氏の、大躍進が、はじまるのです。というのも、開発さんは、自分がどれほど、私より、上に位置するのかという、証明の為に、ご自分の親(現在は、長弟)が経営している福井市にある料亭、開花亭の、新館が、隈さんの設計だという事を、その7通のメールの中で、書いてきたからです。
似た様な事が、武蔵野美術大学の閥を利用して、秋山祐徳太子⇔保坂航子間で起きて、保坂航子が、それこそ、基地外そのものの、メールを、36行、101回か、101行、36回送ってきたのですが、私が、保坂航子の、東京での、初個展が行われた画廊のオーナーに、それを言ったら、裏側を教えてくれました。しかし、それを教えてことで、その方、山口みつ子さんは、殺されてしまったのです。画廊に盗聴がかかっていたので。
そのケースと、この開発さんの、恐るべき罵りメールは、そっくりなのです。
それも、酒井忠康氏か、水沢勉氏が、開発チエさんに、私を、攻撃する様に、命令教唆をしたからでしょうね。私をいじめてやろうというアイデアは、伊藤玄二郎か、井上ひさしが出したとしても、そのふたりが、連絡係だった筈です。慶応閥を使ってです。しかし、開発さんは、滑っちゃったのです。私が事前に予測していた程度の人物ではなかったからです。私の実情を何にも知らないのに、大攻撃をしてくるから、ご自分が半分狂っちゃったのです。7通のメールとは、本当にきちがい沙汰の文章で、
CIA側ハッカーたちが、のぞき見しながらも、『これは、大変だ』と、思ったらしくて、途中で、文字化けしました。古村浩三君か、アメリカの、CIA本部の人間で、日本語がわかる人物が、その文字化け行為を、行ったと、見ています。7通目の最後で、「あなたのことは、私のフェイスブック友達に、・・・・絶対に、付き合うな・・・・と、言っておくわ」と、言う捨て台詞で、終わりました。そこは文字化けしなかったのですよ。
どうしてそういう事が起きるかというと、私を攻撃しようとしているうちに、私が想定外の、大物であることがわかって、パニックに陥るからです。事前に、彼女自身は、私の事を何も知りません。ただただ、悪口だけを聞いて、命令された通りの攻撃事項を実行をするのですが、予想外の対応を私がとるので、驚いてパニックに陥るのです。
~~~~~~~~~~~~~~~~~~
副題3、『私の2005年の顔のけがと、その顛末を書いたメルマガへの水沢勉氏コメント』
この隠微な計画を開発チエさんに、飲み込ませたのが、水沢勉氏だったと仮定すると、私は相当につらい。伊藤玄二郎が、最初に頼んだ相手は、酒井忠康氏だと、仮定しても、酒井氏は、その役目を、元部下である(しかし、現在は、近美の館長である)水沢氏に、振った可能性はある。其れは、酒井氏と、開発チエさんとの、年齢差と、水沢氏と、開発チエさんとの、年齢差を考えると、後者の方が、近いというか、短い。で、友達度、又は、親密度が高いだろう。
それに、水沢氏の実家が、私の実家のご近所だったので、父君、母君のことも知っているので、勉氏の話し方が、柔らかく、上品で、聞き取りやすいのもよく知っている。メールで、連絡をしたとしても、わかり易くて、チエさんは、納得しやすかっただろうと、思う。
どうしてそういう事を知っているかというと、私は、実家つながりの縁を頼んで、水沢先生に、メルマガの読者に、なっていただいていた。無論のこと酒井先生にだって頼みたかったが、八幡宮様が開いたぼんぼりまつりパーティ(=献灯者が、出席するもの)で席が酒井先生の隣と指定をされていて、一時間半の間、ずっと、無視されるという、残酷な扱いを受けたので、接触したくなかった。
水沢先生は、早起きの人で、早朝5時には、こういう公金のやり取りと関係ない連絡を処理なさる。その後、(これは、奥様に聞いた話なのだけれど)、ウォーキング(スポーツ的トレーニング)を兼ねて、三が浜の美術館まで、歩いて行かれるそうだ。
そして、時々だが、メルマガに、感想もくださった。一番うれしかった感想は、2005年の一月に、鍛冶橋交差点で、転んで、大けがをした。その顛末を書いた、文章に「転んでも、ただでは起きないとは、このことですね」と書いてくださったことだ。その怪我とは、こめかみの所に割れた眼鏡が刺さって縦に4cm裂けた傷だった。脳外科の先生が、丁寧に丁寧に、40針もかけてその後、(これは、奥様に聞いた話なのだけれど)、ウォーキング(スポーツ的トレーニング)を兼ねて、三が浜の美術館まで、歩いて行かれるそうだ。縫ってくださった。その縫合の間にも、と切れもなく、整形外科担当の先生が、そばで、話しかけてくる。私は、顔にガーゼがかかっているし、大事な縫合の最中だから、何も言わない。しかし、終わってから、その整形外科の先生に聞いてみた。「先生、これは、先生がご経験なさった怪我の内で、どのくらいのランクなのでしょう?」と。
すると、「僕が過去に経験した顔の怪我の内で、上から三番目ぐらいですね」とおっしゃった。しかし、その時点では、先生方も、看護師も、そして私自身も、まだ元気だった。ところが、新橋から、京浜東北で、品川まで、行き、横須賀線に乗り換えた処、みんながぎょっとして、私のそばを去る。遅延した横須賀線内で、満員なのに、私を中心として、四分の一円が、半径五メートルぐらいで、空白なのだ。家に帰ってから、わかったのだけれど、看護師さんも気が付かなかった顔の下半分に、こめかみの傷から、皮膚の内側へ、散らばった、大量の、出血が、歩くという振動で、どんどんどんどん下がって来るのだった。今、新コロナウィルスで、罹患者や、その家族に、差別が起きると、言うニュースがあったが、私にはよくわかる。四月ごろまで、世間の人が、自分の身を、私から、避けたから。
しかし、そのころは、まだ、62歳だった。若かった。頭もピンシャンしていた。文章をまとめる力も、今よりずっと高かった。したがって、それも私の文章の一つの特徴らしいのだが、そこはかとはないユーモアがあるしい。どんな深刻な事が書いてあっても、どことなく、ユーモアがあって、読ませる筆力があると、言われる。そういう感想をも、色々な人から、いっぱい貰って居る。
水沢先生も、それを、おっしゃりたかったのだと、思うが、それを、ユーモアという言葉を使わないで、ご自分もユーモアのこもった、簡潔なるコメントを返してこられた。こういう瞬間に、私は、文章を書くことの喜びに打たれる。アドレナリンが出るので、睡眠時間が、三時間でも持つという形になる。
最近はアドレナリンが出ていないらしい。以前だと3=4時間睡眠を、三日ぐらい続けると、四日目に、7時間寝ると、言うそういう周期だったが、今は反対になっている。まあ、
「山口みつ子さんは、自殺ではないです。他殺です」と、いう事をはじめとして、相当な事に、取り組んできた。したがって、安心し始めていると、いう事も言えるだろう。60代は、非常に切迫をしていた。77歳の今は、そうでもない。
~~~~~~~~~~~~~~~
副題4、『私は潜在意識の中では、負けたなあと思った。特に水沢先生の、連絡で、開発さんが、こういう事をしてくるのだと、したら、100%、私の負けだ。しかし、こういう仕組まれたいじめを放っておいて、彼等に、勝ったぞと、思わせると。後が大変だ。私は、自分の工夫と努力で、できるだけ、被害を減らそうと考えた』
それで、まず、開花亭のホーム頁を開き、隈研吾設計の新館の写真も眺めた。すると、使いにくいと、推定された。根津美術館は、まだいい。使いにくいという事はないだろう。しかし、開花亭新館は使いにくそうだった。そういう欠点に目をつぶって、隈研吾という名前を大ダンビラとして、開発チエさんは、振りかざした開発チエさんは、虚飾(半分は嘘)の上に立って、ものを言って居るとなる。しかも、威張っているのだ。
これは、人間として、とても軽いと、いう事を示している。
その上、私は第一次フェイスブック時代に、開発さんの文章を丁寧に読んでいる。悪いけれど、それで、開発さんが、実際には、結婚をしたかったと、言う女性なのだと、いう事が判った。ほとんど、不定愁訴気味の気分を書いているものだったから。ほぼ8か月間sorewo 読まされた。閉経期が迫っているのかな? 子供を産まないまま、閉経していくのは、子供を育てるという事以外の、任務を持っていない場合、本能に、響くほどのつらい事なのだろうか。こういう環境で育つと、行きずりの人と、できちゃった結婚をするわけにもいかない。ただ、まだできていない事の原因は、お見合い相手と、ご自分とのバランスがとれていないからだ。慶応大学卒で、お金持ち、そして、美女となると、相当にハイレベルのお婿さんでないと、いけない。しかし、そういう人には、おじょうさまのお見合い話が、わんさと来るので、福井に住んでいる彼女には不利である。その上、実家が料亭だ。そうなると、お見合い相手も、サラリーマン家庭では、「ちょっと! 駄目よ。結婚後、問題が出て来るはずよ」という事になり、同業者に、限られてくる。
その上、お見合いではなくて、慶応三田会内部での、出会いから生まれた、恋愛という形での、お付き合い状態に入っても、彼女の側に、性格的な問題点があり、あいてが惚れてこないのだ。其れは、ずっと、推定済みだったが、実際に、七通の、ヒステリー状態に陥ったメールを読んでみて、ああ、相手の男の人にとって、それは、わかるのだろうなあと、しみじみ思った。裕福な家で、何の、苦しみもなく、挫折もなく育つという事は、人格形成の上で、未熟のままで、年取っていくという、ある意味で残酷な運命をもたらす。
その上、顔がきれいだ。彼女自身、自分への評価が高くて、20代か、30代は、相当に紹介をされた相手の、えり好みをしたであろうと、思われた。結婚なんて、何かを諦めて、膝を屈しないと、できないものだ。将来の生活設計において、お金の不安がある人は、結婚すると、思うが、金銭的に不安も不満もない女性は、結婚という形で、自己防衛を果たしておくと、言う、心構えがない。
私は戦うにあたって、大きく余裕を持った。『ああ、何だろう。経験値に於いて、私の方が、上ですよ。心理面とか、哲学の面において。考える内容、そして、過去に考えてきたこと。この2011年に限っても、貴方が投稿した内容と、私が投稿した内容では、価値が違う。其れを、2011年6月から、2012年2月11日までに、しっかりと、覚え込んでいた。
~~~~~~~~~~~~~~~~~
副題5、『私は、事務処理能力が高い。そして、冷静で、落ち着いている。このいじめ案を考え出した、井上ひさしには、そこを計算に入れる能力に欠けている。彼は、開保津さんが、既に美術評論家としては、有名人であるとか、隈研吾氏と、付き合いがあるとか、美女であるという側面しか考えず、それで、彼女を道具として、私に、ぶつければ、自分達が勝てると、考えている。これは、伊藤玄二郎と、井上ひさしがタッグを組んだ場合、何時も発見される瑕疵であり、余りにも同じパターンが続くので、瞬間的に、罠を見破ることができる様になっている。しかも、幼稚で、ゲーム性がある。それも、特徴の一つである。植松聖が行ったとされる、やまゆり園事件にも、青葉真司がやったとされる、京都アニメーション放火事件にも、同じくみられる特徴なのである』
井上ひさしは、私の父が、霞が関の本庁の、官吏だったことを忘れています。また、その前は、満鉄調査部中央試験というところに、勤務していました。そこは、明治生まれの人間で、エンジニアである人種にとっては、環境としては、最高の場所だったのです。そして、私自身東大に勤務して居ます。そして、当時の上司から、優秀だと、認められていました。また1955年の事ですが、当時の神奈川県は、アチーヴメントテストという統一テストを中学生に施していました。それに全教科満点だったので、「という事は、神奈川県一頭がいいと言事だね。まあ、満点が、ほかに何人いるかは、聞いていないけれど」と、先生が、おっしゃいました。にやにや笑いながら。伊藤玄二郎は、神奈川県育ちで、私より、一学年下でした。あなたは、全教科、満点でしたか?
で、開花亭のホーム頁で、電話番号を調べて、電話で、AOLのメルアドを伝え「フェイスブックには、入れないから、これからは、こちらを使って、ご連絡をください。そうお伝えください」と言ったのです。
其れは、時間として正確に、午前11時5分でした。チエさんは、電話口に、出てきませんでした。で、私は『やはり想像通りだったわ。不定愁訴気味だし、まだ寝ているわけですね。わがままなお嬢様である、この人は、料亭の後継ぎとしては、適任ではありませんね』と、思った。それで、もともと、心理的に、余裕を持っていたのが、さらに、余裕を与えられて、「あなたも、あの人の下で働くのは、結構大変でしょうけれど」と言った。
声が、とても若いし、てきぱきしているので、社長さんだとは、思わなかった。それに、最初に、名前を聞くべきだったのだが、こちらの名前は、告げたのに、相手の名前を聞かなかったのも失敗だった。その男性は開発ナニガシ、という名前の人らしくて、チエさんの弟さんだったのだ。そして、2012年当時すでに社長職についていた。
さて、私は、26時間起き続けています。途中で、20分電車の中で眠り、パソコンの前で、30分歌種をしました。
これから先、大事なことを語らないといけません、自分を死んだことんして、絶対に悪事が外へ漏れないと、信じ切っている、井上ひさし(いまだ本当は生きていますよ)の考え出した、隠微な悪が、
開花亭、ロビー午前11時5分に、露出したのです。従業員だと、思っていた若い声の男性は、社長であり、チエさんの、上の弟だったのです。隠微なミステリーの世界で、本来は隠されていないといけない、悪が、実業も実業の世界の、・・・・・東京や、関西の、経済界の偉い人を迎え入れる・・・・・料亭のロビーで合体したのです。そちらが、一種のブラックユーモアです。
なお、この辺りは、明日書きましょう。お待ちいただきたく存じま。