この文章は、午前5時から、午前10時半まで、【脳のCTスキャン+Gユマニテと保坂航子+薬の盗難+ホームドクター+アモバン+水虫薬の殺人?+措置入院+石川和子】としておりました。しかし、その時点で、上のものへと変えました。
このブログは最初に写真を置くことにしています。このスキャン画像を見ると、三原橋そばでの、交通事故は、2014年4月7日だったことがわかります。
副題1、『今、抱えている敵からの猛攻の、最初の兆候は、2020年12月9日の朝で、頭が痛くなることだった。だが、それを語る前に、2020年7月の第四週に起きた、メヌエル氏病の一週間・連続・状況を語らないといけない』
その日(=2020年12月9日)には、朝の七時から、15分おきに頭痛が起きる。これは、すでに、何度も説明しているから、詳細を書かないが、外部からの攻撃で起きることだった。この山の、たぶんだが、KAMAURA COTTAGEという米国系民宿(実際には、警察の、特殊部隊‥‥特にブルーカラーとしての特殊部隊の梁山泊となっている)に置いてある特殊なルーターを通じて、桜田門に設置してある大型画面に浮かぶ、睡眠中、もしくは食事中の私の体のサーモスタット画像のどこかへ、ピンポイントのレーザー光線(アルファ線などかもしれないが?)などを画面上で与え、それが、また、ご近所のルーターを通じて、私の体のどこかへ、悪い刺激を与えて、起きる病状だと、考えている。
2020年7月、白内障手術の予定が決まって居る直前、7日連続で、メヌエル氏病が起きたのもその典型だった。もし病院へかかれば、尾行、盗聴のシステムを通じて、白内障手術を予定している眼科医に連絡が入り、白内障手術はキャンセルになったと思う。だから、非常に苦しかったけれど、ただ、ひたすらに我慢をした。
以前、本当のメヌエル氏病に罹ったことがある。それは、ひどい症状で、4畳半というストックルームにいた時だったが、あっちこっちのタンスに頭をぶつけた。その時に鍼灸医にすでに転身を果たしていた主人が「(西洋医学においても、東洋医学においても)特に治療法はない。安静にして、疲労を取る以外、治らない」といったので、安静にしていたら、一日で治癒した。で、治療法がないということを知っていたので、この2020年7月の、一週間連続した際にも、我慢をし続けた。
ただ、その途中で、武蔵小杉駅(東横線)の4階から入れる(実際には五階)川崎市・中原区立図書館で、開架図書の中から、五冊ほど、医療書を取り出し、メヌエル氏病について、読んでみた。主人の発言と同じく、治療法はないと、書いてある。脳内の、三半規管という微細な部所で、リンパ液が入るとか何か、小さな変化が起きるということで体の正しい立ち方ができなくなるという病で、その液体が、吸収されれば治るという形らしい。
中原区立図書館とは、偶然に見つけた図書館だけれど、最近、超・発展した武蔵小杉のタワマン群の住民向けらしくて、鎌倉の図書館よりも設備は近代的であり、開架図書も充実しているので、自分が、メヌエル氏病に、今、かかって居ることを秘密にして、調査できると、思っていた。
ところが、最近、判明している現象だけれど、スマホをもってでない日は、必ず、尾行が付いているらしい。で、中原図書館で、メヌエル氏病について、読んでいた姿は、敵さんが把握することとなったらしいのだ。
で、敵さんは、私が白内障手術(午後二時開始の予定)の当日の朝まで、メヌエル氏病状態に耐え抜き、それを隠して、白内障手術を受ける強い覚悟でいることを察して、・・・・・其れなら、今回行っているメヌエル氏病攻撃は、もう、無駄だ・・・・・と、考えたらしくて、擬態のメヌエル氏病は、白内障手術の、一週間前に、終了した。本物のメヌエル氏病よりは軽かったので、起きる時に、ふらふらして、正常ではないのを、周辺の何かに、手でつかまって立ち上がり、10分程度歩きださないでいるという形で、一週間耐え、防衛しぬいたのだった。午前10時ごろからは、普通の体に戻るので、中原図書館まで、午後に、出かけて行ったのだった。
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副題2、『私は、脳のCTスキャンをすでに、人生途上で三回受けている。慈恵医大で、二回、聖路加病院で、一回だった。で、2020年12月9日、朝7時から、頭が15分おきに痛む現象が起きたときに、CTスキャンを四回目の事として、撮ってもらいたいと思った』
過去の事情は、こうなっている。
2005年だったと思うが、鍛治橋交差点そばで、中央分離帯に躓いて転んで(両手がふさがっていたために、頭から道路に突っ込んで)、プラスチックだったが、メガネ・レンズが割れて、こめかみに突き刺さり、大きな裂け目ができた。その時に、意識は失わなかったのだけれど、背中に重いパソコンを背負い、両手に、自著をたくさん持っていて、それが、重くて、自分一人では立ち上がることができず、通行人が助けてくれて、しかも、携帯を携行しない主義の、私に代って、救急車を呼んでくれて、救急車で、慈恵医大に担ぎ込まれたのだった。そのころの、慈恵医大の救急外来は、天井がひどく高い部屋で、その一方の壁に、脳の画像64枚が大きなサイズで浮かぶ形式になっていた。上は、6メートルぐらいの高さから、始まり、A4サイズ以上と思われる脳のCTキャン画像が、下へ向かって64枚ほど、展開する様式になっていたので、私は自分自身の脳の写真をはっきりと見た。脳に損傷はないということだった。外傷だけだった。しかし、お岩さん状態が、ほぼ、二か月続いたのだった。外にも、血は流れたが、皮膚の内側にも大量に出血が下りて、肉のと皮膚の間に、入り、下へ向かって流れて、顎のところで停まり、顎から、頬へ向かってたまったので、それが、筋肉または、毛細血管に最終的に吸収されるまでは、大きなあざを抱えている状態となった。
次は三原橋交差点で、車にはねられてしまったので、聖路加病院へ、同じく、救急車で、運ばれて、こちらでもCTスキャンは撮ってもらった。ただし、聖路加では、患者本人が画像を見る形式ではなくて、先生が、ご自分の、デスクに置いた、普通サイズの、液晶画面で、御覧になる形式であったので、自分自身は、見ていない。しかし、先生は「脳には損傷は、ないみたいです」とおっしゃった。
銀座で、特に事故に出会ってしまうのは、画廊が、七時に終わるシステムだったからだ。30か所ぐらい、全部回れるはずで、始めるのだけれど、途中どこかで、感銘を受ける作品と出会って、特に作家が在室して居たら、お話を始める。それで、予定が狂ってしまって、「後10分しか残っていないのに、残っている、四つの画廊に寄りたい」などと、思って、少しでも早く対岸に渡りたいと思って、交差点以外で、道路を横切ってしまうので、こういう現象が起きる。
で、今回、2020年12月9日に起きた頭痛は、7月のメヌエル氏病の後だったので、外部攻撃だと、はっきり思い、CTスキャンを撮ってもらいたかった。
実はその前、2009年から2017年の間のどこかで、同じ様に頭が痛くなって、慈恵医大にCTスキャンを撮ってもらいに出かけている。しかし、その時は、時計を見たりはしなかったので、普通に病気だと、思い、其れでは、CTスキャンを撮ってもらいたいと願ったのだった。しかし、二回目の慈恵医大は、聖路加病院と同じシステムで、自分が、CTスキャン画像を見ることは、できなかった。そして、「大丈夫ですよ。脳には、何も損傷はありません。片頭痛の一種でしょう」と、言われて、くすりもでなかった。救急車で運び込まれない限り、あの大型壁面で、64枚の、自分の脳画像を見ることはできないらしい。
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副題3、『さて、私は、ここで、考え込んだ。若い日の科学実験の影響で、トルエンを含む芳香族炭化水素を、毎晩500㏄と、いう感じで、大量に吸っているので、体力がふつうの人の半分以下だ。で、超・低空飛行だけど、非常に気を付けて、暮らしている私には、内蔵系の、疾患が起きるはずがないのだった。しかし、ひざ関節や、股関節の異常が起きて居て、それは、石段で、上がる、この鎌倉・雪の下の山の中での、暮らしを、不可能にさせることだったから、敵さんの攻撃だと、思っていた。が、それも、間歇的に起きるので、何年間も我慢をしたうえで、とうとう、40回目の痛み発生後かな? 西洋医学の大病院へ行っている。それで、攻撃の頻度が、さらに、下っている。しかし、この二月以降に、5日間ぐらい起きたので、彼らの悪意はすさまじいと思っている。
だけど、新しい身体の痛みを体験するたびに、考え込む。これを、我慢をして知らんぷりをした方がいいのか、西洋医学の専門医に、かかった方がいいのか、は、まだ、最終判断に発して居ない。それぞれ、個々に考えることにしている。ただ、2020年7月の一週間連続して起きた、寝起きの際の、メヌエル氏病の時は、医者には、行かなかったが、それが、正解だった。無事に白内障手術を受けることができたからだった。
今般の2020年12月初旬の頭痛の場合も、私は迷った。黙って我慢をしていた方が早く消えるか? 西洋医学の診察を受けた方が、早く消えるか?、どちらがいいか? 本当に迷った。
しかし、脳に向けての損傷は、結局はブログを書かせないためのもので、実際に書けなくなるだろう。それは、困る。このブログは、命をつなぐ唯一の手段となっていた。生きていくための最低の手段となっていた。それが、脳の破壊によって、ダメになると、本当に困るのだった。彼らは、すぐさま、措置入院ほかの手立てで、暗殺を敢行してしまうだろう。
したがって、西洋医学の診断に頼ることにして、我が家から、最も近い・・・・・しかも、システムが最新の病院である、湘南鎌倉総合病院へ行くことにした。私がそう判断をしているわけではなくて、病院経営の専門家が、それを言った。
そこは、整形外科にすでにかかって居て、診察券を持っているので、内科へ行くだけで、済むはずだった。(なお、徳洲会の本拠病院と言ってよいほどの大病院なのだけれど、整形外科の先生は、もっと専門のお医者様を紹介しますよとおっしゃって、今は、関東労災に通っている。その病院は、日吉に住んでいた私には、昔から知っている病院で、整形には特に強い病院なので、ずっと、そちらに、通っている)
しかし、2020年12月9日には、その徳洲会の大病院の、入り口で、阻止されて、新患扱いをされて、『うっ。嫌われている。診療をさせてやらないと、いう形を、こういう婉曲な方法で、示してきた。この現象を見ると、この脳の痛みは、敵方の攻撃の可能性が強まった』と考えた。
最近、みずほ銀行の一月13日の対応の際に、ロビー一階の仕分け人おばちゃんが、ねめつける様な、かつ、嘲笑を含んだ、まなざしで、「200万円分の定期をATMで作れっ。対人・ブースは使わせない」と、命令した時とそっくり同じだった。みずほの方では、その日、鎌倉警察署の生活安全課の課長が、裏で待機していると、私は推察した・・・・・・と、書いている〈後注1〉。事が起こってずっと後だったけれど。徳洲会の大病院に、生活安全課の課長が、待機しているのだろうか? 院長室で? ちょっと考えられないけれど、ともかく、入り口でも、内科でも、いかにも診てあげたくないと、いう態度を示され続けた。
その時点で、この頭痛は外部攻撃だと、判断をした。
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副題4、『湘南鎌倉総合病院の内科の若い女医は、<できるだけ、ここに来ないでください>と、いう感じだった。それで、なおさらに、この頭痛が、外部攻撃であると判断をした。その判断は、三原橋交差点で、交通事故を起こしたときに、聖路加病院の植え込みの陰で聞いた
警官二人の「ちっきしょー。間に合わなかった」と、いう発言から、判断していることだった。之こそ、神様が、私を助けてくれた、現象の一つで、その後の判断に大いに役立つ現象だった。つまり、警察庁が、<正当な医療を、川崎千恵子には、受けさせるな>と、医療関係者に命令することで、緩慢な形の暗殺へ、持って行こうとしているのだった。それを察知したので、それ以来、医者にかかるときは、今、現前に座っているお医者様に、それが、応用されているかどうかを、判断をしながら、かかって居る。
そして、あまりにも敵方に立っていて、失礼な対応をしてくるお医者様は、はっきりと実名で書く。特に入り口の事務スタッフが、いじわるな場合は、書く。それは、この次に書く、ユマニテのオーナー十束さんと金成さんの関係と同じだからだ。
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副題5、『三原橋交差点での事故では、加害者の紳士がずっと付き添ってくれた。それで、幸運至極にも警察庁が、私に医療行為を受けさせない様にしていると、いう驚くべき現象(真実)を発見してしまったのだ。委細は、以下の通りになっている…‥と、何度も過去に、言っているのだが、真実はもっと、もっと、奥深いのかもしれない』
どうして、聖路加で、そういう現象を・・・・・警官二人がパトカーでやってきて、「ちっきしょう。間に合わなかった」と、叫んだのを、見聞きしてしまったかというと、夕方の七時直前に私を車ではねた人が、ずっと、付き添ってくれていたからだった。
そして、彼は「僕は、車を駐車場停めてきています。で、あなたは、この後で、築地警察署によらないといけないそうだから、僕が車で、送ってあげます。でもね。今は、相当に遠いところに駐車しています。で、取りに行くのに時間がかかるので、ここで、待っていてください」と、言ってくれたので、私は聖路加病院の入り口の、樹木の陰で、まっていたのだった。
私は、三原橋交差点で、ぶっ飛ばされた後で、五分ぐらい気絶していたらしい。しかも、その人の車に、ぶっ飛ばされた上に、道路にたたきつかれた私の上を、さらに同じ車が、通ったらしいのだ。つまり、彼の車に、一度目は、ボンネットではねられ、二度目の接触としては、タイヤの下で、轢かれたらしいのだ。夏だった。で、周辺は明るかったので、大勢の人がそれを目撃していたのだった。
前回の、慈恵医大へ運び込まれたときは、社会経済的に言って景気が、悪かった。しかも冬で、あたりはまっくらで、冬の鍛治橋交差点には、人も車もまったく居なかった。今回は反対に大勢の人が目撃していた。それで、その紳士は、心の中で、深く、まずいことをしてしまった。この人は、後どうなるだろうと心配したらしいのだった。とても派手な事故だったらしい。私自身は、気絶をしていたので、全く気が付かなかった。しかし、頭の後部が、ベロンとはがれていて、それが、一か月半、治らなかった。夏だから清潔を保つのが大変だった。美容院で、「短くカットして大仏様程度にしてください」と、言ったのだけれど、怖がってやってくれなかった。それほど、傷の治りが長引いた。慈恵医大では、長さ4cmぐらいの裂傷を、40針もかけて、脳外科の先生が、縫ってくださった。聖路加では、洗ってもらっただけだったので、ちょっと不満だったけれど、脳の外皮膜って、縫うほどの厚みがないのだろうと、思ってあきらめた。傷が治ってしまうと、毛が生えてくるので、全く目立たない。
この事故の時は、二重三重に神様が助けてくださったのを感じた。後頭部の皮と肉がベロンとむけてしまったのは、なんでだろうかというと、思うと、バンパーが下から上へ、こそぎ取ったのだろうと、思う。首の側から、こそぎ取ったけれど、頭頂部では円周が、小さくなるので、肉片は、切れずにつながっていた。そして、捲れた部分は重力で、下へ向かうので、聖路加の先生は、縫わなくても大丈夫と判断をなさったのだろうけれど、縫ってもらったら、もっと早く治っただろう。
しかし、バンパーが後頭部をこそぎ取った際に、私の体はどうなっていたかというと、右と左のタイヤと並行に、その四つのタイヤの、真ん中に、うつぶせに横たわっていたこととなる。これが最高の幸運だった。しかも最初の、ぶっつかりで、気絶をしていたので、微動だにせず、それが、かえって手足も胴体も守ったのだった。覚醒して居たら、恐怖で、動いたと思う。
そしてこの時、まだ、私が頭がきちんとしていて、しかも、労働をいとわない時期だったので、あの夏の暑い日に、清潔を保ちえたのは、よかったことだった。ちょっとでも不潔にしたら、膿んで大変なことになったと、思う。
時々思うが、この時の先生は電話等で、すでに、警察庁からの言葉を聞いていてだから、縫わないで、終わらせたのだろうか? 治療費は、この二時間(主に待たされている時間が多くて、CTスキャンで、15分程度、先生との面談で、5分程度、看護師さんの、先発で5分程度、合計45分程度しか手当をしてもらっていない。それで、6万円だった。
加害者の人は「保険に入っています」と、言ったのだけれど、後刻に出向いた築地警察署の梅林という警官が「示談にしましょう。交通事故にしないことにしましょう」と、言ったので、私は私費で払った。ところで、慈恵医大では、40針も縫ってもらったのに、医療費は、3万円だった。三割負担で、行ってもらったとすると、10万円の手術だ。聖路加では、年齢が高かったので、負担が一割になっていたと、仮定すると(または、聖路加は、保険証が利かなかったのか?)ただ、洗浄だけで、60万円となる。
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副題6、『ここで、またまた、符丁があってしまうのだが、この聖路加の、異様な治療体制は、雪ノ下のご近所主婦たちが、初因で、起きて居ると、考えて、そういう方向で、分析していくと、見事に整合性が合うのだった。
で、私は内心で、この聖路加の治療に、疑問と怒りを持っているので、雪の下の主婦たちの所業を書くこととなる。聖路加は後回しにして、まず、雪ノ下の事を書く。それを誹謗中傷だと、言って書かせないで居るのは、伊藤玄二郎と、井上ひさしの超が付く傲慢のゆえんだ。彼らは、谷垣禎一さんと組んでいて安倍総理を動かして居た。その時点で、菅義偉現総理も、事情を知っているので、後釜に就任をしたのだった。
で、私が、鎌倉エージェントと呼ぶ、この二人に教唆命令をされて、動いたご近所主婦たちの過去の悪行を隠ぺいする為に、警察庁は、聖路加へ、連絡を入れ、通常の医療を行わせなかったと、私は考えている。ひどい。ご近所主婦は1985年からの、加害者である。土地を奪い、崖を無断で削り、友人を離反させ、パソコンを30台も破壊をしていく。そして子供や孫、そして弟にまで、被害を及ぼしている』
私は、今まで、聖路加の先生は、きちんと手当をしてくださって、そのうえで、あの二人の、警官の、「チッキショー」を聞いたのは、幸運だったと、考えていたが、時間の経過を考えると、聖路加の先生は、すでに警察庁からの、連絡を聞いていて、私の手当てを、看護師の洗浄と、CTスキャンだけで済ませて、行うべき必要不可欠な、縫合手術をなさらなかったのではないかと、思い至る。
で、私が・・・・幸運にも、それを聞いた・・・・と、考えた、あの二人の警官の「ちっきしょう」は、演技だったということとなる。特にご近所の安野智紗夫人の継子(次男)が、27歳の時に、我が家の玄関で、「チッキショー」と叫んだことを、私が、ブログに書いているから、あの言葉が、一種の演技として出てきたのだろうか? からかって来てそう言ったのだろうか?
特に戯曲を書くのが好きな井上ひさしが、この「ちっきしょう」発言を演出しましたか?
ここで、少し解説が必要だ。安野君と、もう一人の男の子が訪問をしてきたのは、彼らが、27歳になってからだった。この二人は、我が家の長男に謝罪をしたいと思っていた模様である。その13年前の九月に、二人は、わが子に、リンチ事件を仕掛けて、滅多打ちにして、大けがを負わせていたそうだ。主に夏の制服に隠れている部分だったそうだ。私は息子からは、それを聞いていない。しかし、娘から、彼女が結婚式の前夜、いろいろ、この家の思い出を語ったときに、初めて聞いた。「お兄ちゃんは、<おかんには、絶対に言うなよ。心配するから>といったので、お母さんには、このことは秘密にしていたの。でも、あの子たちって、本当にずるいの、制服に隠れているところを、狙っているのだから」と、言いました。
だから、学校の先生も気が付かないでしょう。
私は、当時、英語塾の先生をしていたので、午後四時半には家を出るという生活だったので、全く知らなかった。そして主人は日産自動車から、松坂のセントラル硝子に出向を命じられていた。で、主人もいなった。これは、瀬島隆三のせいだったと、思う。
主役は、謝罪には、来なかった。主役の青年を裏駅で、見かけたことがあったが、黒服(水商売)の、姿だった。
彼は、中流の上のご家庭の坊ちゃんなんだけれど、(特に祖父は慶応大学の教授なのだけれど)、三人兄弟の真ん中なので、親から可愛がられていないと考えていて、その悲しみを外部への攻撃で、晴らしていたのだった。一種のいじめ事案だけど、いじめる方の子には、こういう子供が多い。
当時西隣に住んでいた、遠藤夫人(お嬢さんを妙本寺の若いお坊さんに嫁がせた)、が、私を呼び止めて、「川崎さん、大変、大変、(主役の少年)が、石段で、たばこを吸っていましたよ」と、告げ口をしてきたのだけれど、私は、「あ、そうお」といっただけだった。
いじめられる方は、これまた、親にかわいがられていないか(鹿川君などが典型だ)または、親に超・かわいがられていて、ひ弱に育っているときに、親が、上流社会めいた生活をしていて、先生の嫉妬の対象となって、先生に、親の代わりに子供がうとまれているケースが多いのだ。
うちの子が、いじめられた(暴力まで、使ってだ)のは、とても背が高くて美形で、はっきりと、しゃべれるので、人気が出ると困ると考えた主役の少年の、嫉妬心の発露だろうと、思っている。安野君は、謝罪をするために、もう一人の元少年と一緒に来訪をしたらしいのだけれど、うちの子がそれを、拒否したのは、そのリンチ事件が起きた当夜に相手方をすべて、やっつけて帰ってきたそうで、したがって、自分の体力の優越して居る事、考え方のしっかりしているところを相手に、見せつけたのだから、それ以降のいじめ問題は起きないと、息子は考えていた模様だ。そして、実際に、それ以降、いじめ問題は、起きなかった模様である。
私は安野夫人が「お砂糖を貸してください」と、言いに来た件で、びっくり仰天をして拒否をしている。それは、彼女の口実であって、井戸端会議に参加させ、彼女主導の、階級を作り上げるためだと、わかっていたので、そういう仕組みに組み込まれることを拒否したかったからだ。ところで、その時の彼女の言い草だが、「うちの子にお客さんが来たので、お紅茶を出したいから、お砂糖を貸してくださいだった。全く付き合っていないと、いう認識だったので、これから、橋田寿賀子が、描くところの世界が、広がってしまったら大変だと、いう認識があった。
でも、重要なのは、その時のお客が、・・・・・例のリンチ事件の三人のうちの一人だっただろう・・・・・ということだった。二人は、事後対策を相談したのだと、思う。
この頃、すでに安野家にも我が家にも盗聴装置が入っていて、私の長男に危害を与えたのだったら、私の敵にあたるわけだから、安野家の次男を、持ち上げようと、瀬島隆三一派は、考えたと、みなすことができる。
このリンチ事件の主役の、少年が、安野君のことを「おいちに、おいちにのあひるさん」と、呼んでいて、安野君の通信簿に、1と、2しかないのをからかっていた。それから、安野夫人自身が、たまたま、出会った時に、うちの子は成績が悪いのですが」とは、いっていた、
私は安野智紗夫人から、直接、「うちの子は、成績が悪くて」と聞いている。
その安野家の玄関を石川和子さんが、訪れて、「国立大学の付属高校ご入学おめでとうございます」と言っていた。こういうのは、演技というかきゃくしょくにもとづいている事案で、お茶大付属高校出身の私をからかってきている一件だ。 しかし、恐ロしいことは、うちの子の通信簿からすべての強化で、一段階が落とされていたことだった。相対評価なので、すべては安野家の次男へ行ったのだと、思う。
この件は、さらに、丁寧に語らないといけないが、(特に高校受験の内申書が、二年の二学期と定められた件も含めての話になるが)・・・・・
この時の、娘との電話盗聴の結果を、井上ひさしが、利用して悪辣なコメントをよこしている。私には、本当に自由がない。
ところで、これは、聖路加病院の、ロータリーの植え込みのそばにいる私に、パトカーに乗った、二人の警官が、「ちっきしょう。間に合わなかった」といった件の分析のために書いている。
これ以降の時間、その日に起きたことは、後で、(次の章で、)語りたい。
本日は、これまでと、させていただきたい。