皆さんは、日曜美術館(NHK)の09-8-2『やなぎみわ』特集をご覧になりましたか? 去年のヴェニス・ビエンナーレ日本代表で、コンセプト優先(?)の迫力ある写真を公開した人です。
さあて、姜尚中氏と、作品の映像、ベニス・ビエンナーレ当時の彼女の記録、すべてを合わせた45分間で、私が最も感銘を受けたのは、彼女の母としての覚悟でした。そこは強く魅かれました。
この文章をどうして今日アップロードするかと言うと、今から8時間ぐらい前に鎌倉駅で、非常に美しいお母さんを見たのですが、どうしても違和感を抱かされ、その美しいお母さんとの対比例として、やなぎみわさんが思い浮かべられたからです。
芸術の道を志すという事は並大抵の事ではないので、実は影に何らかの欠落感とか、違和感を持っている人が取り組む可能性はあるのですが、それをやなぎさんは語ったわけではない。
しかし、幸せな人(特に贅沢な環境にいる専業主婦)と言うのも問題があるのです。幸せである事の不幸といったらよいのかなあ?
まあ、雅子さまが、その典型だったけれど、育ちもよいし、夫も立派であるし、社会的な存在として、何不自由がないのに、実存的な疑問や不安がある人があるのです。そちらを批判しているわけではなくて、私だって目覚めない、というか、目覚めの遅かった人間の一人であり、何かをずっと探してきた人間の一人ではあります。
何か、自分には他に、ふさわしい道があるのではないかと、考えたりする。この今の生活は間違っているのではないかと、考えたりするときがあるものなのです。それが他人にさえ見えるときがあります。ただ、クリエーターだけは別です。彼、彼女らは、作品の中でも、生身の人間としての、オノレ自身でも、それを、他者に見せている存在だから、自己顕示欲が強いといわれたりする以外は、それでいいのです。が、普通の人の場合には、それが見えたりすると、『危ない。彼女は将来、大丈夫かしら?』と、こちらが心配を抱かせられたりするのです。
その君島十和子張りに、美しい顔とお洋服のお母さんを見ていると、『あれ、このお母さんって、子育てに熱中をしていないのではないだろうか? それだけでもこの人は、見かけよりは、幸せではないのだ』と、私は考えてしまいます。
いや、もっとはっきり言いましょう。彼女はすれ違う人の視線を意識していました。私の目を見つめ返したときに、彼女の瞳に、いくばくかの不安が浮かび、私はお互いに、非常に、頭が良いもの同士の、切り結びを感じました。
いや、ごめんなさい。自分の事を頭が良いなどといっては駄目ですね。でも、彼女は相当に育ちがよい女性で、頭は良い人だと感じましたので、両者互角の切り結びとして、私も頭が良いと、ここでは言わせてくださいませ。便宜的に。
彼女の美的センスは、こと、ご自分のお洋服に関する限り、100%と言ってよいぐらい完璧です。黒地に白の小さなドット入りのポリエステル・ジョーゼットのフェミニンなドレス。
だけど、上半身が肩紐だけで露出しています。これがガングロの、18か、19のお嬢さんだったら、かえって違和感がありません。『ああ、あなたはそういう好みなんですね。ちょっと品が無いけれど、それが好きなら仕方がない』で終わりです。むちむちした肩が健康的でもありますし。
だけど、ひたすらに上品な顔と体格の人が、肩や、首・背中を露出して、電車にのり、しかも幼い子のお母さんであるとき、・・・・・
しかも彼女が他人の視線を気にしている事を知ったときに、・・・・・強烈な違和感を抱きました。そして、彼女がお嬢さんを愛するよりも、まだ、自己愛の方に夢中な段階である事をも、察したのです。
『お嬢さんが一人しかいない。だから、まだいろいろな事に目覚めていないのだなろうなあ』とも私は感じるのですが、・・・・・・そこまで考え至ったのは、娘にもフランス人形まがいのいでたちをさせているからです。
愛子様のお洋服ですが、非常に質のよい、しかも、上品なデザインのものが多いようですが、あれを見て、『フランス人形みたいだ』とは、私たちは感じません。『子どもらしい、しかも活動をし易いお洋服だなあ』と感じるだけです。子どもを本当に愛しているかどうかは、洋服選び一つにも現れます。
さて、対比例としてのやなぎさんの母親ぶりに触れたいのですが、今日もまた、あまりにも疲れてしまったので、書ききれません。で、この章は続くとさせてくださいませ。恐れ入ります。
なお、猫写真は本文とは何の関係もありませんが、拡大をしてみていただけますと、右側に結構、可愛い顔が見えてきます。よろしく。
09-8-5 雨宮 舜
さあて、姜尚中氏と、作品の映像、ベニス・ビエンナーレ当時の彼女の記録、すべてを合わせた45分間で、私が最も感銘を受けたのは、彼女の母としての覚悟でした。そこは強く魅かれました。
この文章をどうして今日アップロードするかと言うと、今から8時間ぐらい前に鎌倉駅で、非常に美しいお母さんを見たのですが、どうしても違和感を抱かされ、その美しいお母さんとの対比例として、やなぎみわさんが思い浮かべられたからです。
芸術の道を志すという事は並大抵の事ではないので、実は影に何らかの欠落感とか、違和感を持っている人が取り組む可能性はあるのですが、それをやなぎさんは語ったわけではない。
しかし、幸せな人(特に贅沢な環境にいる専業主婦)と言うのも問題があるのです。幸せである事の不幸といったらよいのかなあ?
まあ、雅子さまが、その典型だったけれど、育ちもよいし、夫も立派であるし、社会的な存在として、何不自由がないのに、実存的な疑問や不安がある人があるのです。そちらを批判しているわけではなくて、私だって目覚めない、というか、目覚めの遅かった人間の一人であり、何かをずっと探してきた人間の一人ではあります。
何か、自分には他に、ふさわしい道があるのではないかと、考えたりする。この今の生活は間違っているのではないかと、考えたりするときがあるものなのです。それが他人にさえ見えるときがあります。ただ、クリエーターだけは別です。彼、彼女らは、作品の中でも、生身の人間としての、オノレ自身でも、それを、他者に見せている存在だから、自己顕示欲が強いといわれたりする以外は、それでいいのです。が、普通の人の場合には、それが見えたりすると、『危ない。彼女は将来、大丈夫かしら?』と、こちらが心配を抱かせられたりするのです。
その君島十和子張りに、美しい顔とお洋服のお母さんを見ていると、『あれ、このお母さんって、子育てに熱中をしていないのではないだろうか? それだけでもこの人は、見かけよりは、幸せではないのだ』と、私は考えてしまいます。
いや、もっとはっきり言いましょう。彼女はすれ違う人の視線を意識していました。私の目を見つめ返したときに、彼女の瞳に、いくばくかの不安が浮かび、私はお互いに、非常に、頭が良いもの同士の、切り結びを感じました。
いや、ごめんなさい。自分の事を頭が良いなどといっては駄目ですね。でも、彼女は相当に育ちがよい女性で、頭は良い人だと感じましたので、両者互角の切り結びとして、私も頭が良いと、ここでは言わせてくださいませ。便宜的に。
彼女の美的センスは、こと、ご自分のお洋服に関する限り、100%と言ってよいぐらい完璧です。黒地に白の小さなドット入りのポリエステル・ジョーゼットのフェミニンなドレス。
だけど、上半身が肩紐だけで露出しています。これがガングロの、18か、19のお嬢さんだったら、かえって違和感がありません。『ああ、あなたはそういう好みなんですね。ちょっと品が無いけれど、それが好きなら仕方がない』で終わりです。むちむちした肩が健康的でもありますし。
だけど、ひたすらに上品な顔と体格の人が、肩や、首・背中を露出して、電車にのり、しかも幼い子のお母さんであるとき、・・・・・
しかも彼女が他人の視線を気にしている事を知ったときに、・・・・・強烈な違和感を抱きました。そして、彼女がお嬢さんを愛するよりも、まだ、自己愛の方に夢中な段階である事をも、察したのです。
『お嬢さんが一人しかいない。だから、まだいろいろな事に目覚めていないのだなろうなあ』とも私は感じるのですが、・・・・・・そこまで考え至ったのは、娘にもフランス人形まがいのいでたちをさせているからです。
愛子様のお洋服ですが、非常に質のよい、しかも、上品なデザインのものが多いようですが、あれを見て、『フランス人形みたいだ』とは、私たちは感じません。『子どもらしい、しかも活動をし易いお洋服だなあ』と感じるだけです。子どもを本当に愛しているかどうかは、洋服選び一つにも現れます。
さて、対比例としてのやなぎさんの母親ぶりに触れたいのですが、今日もまた、あまりにも疲れてしまったので、書ききれません。で、この章は続くとさせてくださいませ。恐れ入ります。
なお、猫写真は本文とは何の関係もありませんが、拡大をしてみていただけますと、右側に結構、可愛い顔が見えてきます。よろしく。
09-8-5 雨宮 舜
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