上の写真は35年前(1976年)の鶴岡八幡宮境内のアメリカきささげの写真です。この木は当時から、臥龍の様に横たわっていたのでした。それが、この2009年に切られてしまったのです。私はそれについて、何度も文章を書いていて、残念で成りません。切り口もまっ黄色で、どこにも腐敗の影は、ありませんでした。
それと、その後の、大銀杏が倒れたこと、そのほか、私は内心で、忸怩たる鬱屈を抱えていたわけですが、鎌倉雪ノ下二丁目、4の何がしに住む、大原光孝氏という画家の驚天動地のいじわるが、パンドラの箱を開けたこととなって、胸の中に長らく秘めていた瀬島龍三氏との30年にわたる抗争を、明らかにする決意を固めました。それは、ミステリー小説の展開を取ります。瀬島隆三氏は、国際的軍産共同体のエージェントとして有名な人で、配下に瀬島機関を持っていて、言論弾圧の実力行使に出ると、有名ですが、その実行行為は、目立たないように、常に秘密のヴェールをまとっています。
特に、実際にこの社会で生きている人間を使っていて、自分の姿は、絶対に露見しないように努めています。ですから、そこを追及していく過程は、壮大な、ミステリーとなっていきます。以下は、今まで、三々五々書いてきたことの、まとめとあらすじです。文体は、人懐っこい会話体ではなくて、小説などの突き放した形の語法と文体を、用いるのをお許しくださいませ。
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第一部、横須賀市、根岸町2丁目の話
第一の一章
1974年、私(雨宮舜=川崎千恵子)は、横須賀市根岸町2-103に60坪の土地を求め、家を建てる。平和に暮らしていたが、1980年に入り、地境地主、益山某・元海軍参謀が、地籍変更届を利用した詐欺事件を企画し、それに巻き込まれる。
益山氏は、140坪程度の土地(多分、原型は山林だった)を買い求め、宅地造成(立派な舗装済の、私道を含む)を果たした後で、分譲住宅を売り出し、残りが一坪もなくなっていた。しかし、巧妙にも、隣にある、横須賀市の水道局の山を、目隠しをした高い塀の内部で、開墾を進め、あたかも自分の庭のように偽装をして、法務局の地籍変更届を出し、無から有を生み出すと言う形で、1200坪の土地を生み出そうとしていた。
その目的をかなえるためには、地境地主、11軒の実印を押す必要があるが、私の西隣の原さんは、ここら辺の戦前からの地主で、益山氏のいんちきを見抜き、実印を押さない。で、益山氏は、原氏の実印をもらわないでも済む様に、原家を青地というもので囲んだ。青地とは江戸時代に出来た、山もちと、畑を耕す人間との間に争いが起こらないようにした緩衝地帯で、木を植えてもいけないし、野菜を受けてもいけない場所である。通常幅一間程度であり、戦後(または明治以来)、国有地として、設定をされているもの。私は購買時には、無かったこんなものを急に設定されて、びっくりして財務局に問い合わせに行く。財務局には、これらの青地の図面はなく、公図にも(1981年当時には)記載が無く、益山氏が、自分の利益のために、突然に設定したものだと、理解することとなる。
しかも青地とは、国家から払い下げる際には、半分ずつ両隣で、分け合うことと聞いて激怒した。正しい図面に基づいて買ったのに、隣の原家に一メートルも分も、譲渡しなければならないなど言語道断だ。
第一の二章
栗原弁護士と青山弁護士の二人の弁護士についてもらって、戦う。原家の南隣の『上滝家は、私より、ずっと、広範囲な情報を、益山氏から与えられていて、しかも成功報酬100万円程度を、土地の形でもらえる事となっている』と、彼本人から聞いた私は、それにも激怒する。私の方は、ただ、『益山氏の私道を、横須賀市に寄付する』と言う名目で、実印を押させさせられるところだったのだから。こちらの方が上滝家より、軽く扱われている。結局、『お前の方が馬鹿だ』とみなされたいたこととなる。
しかも上滝氏は、こども(小学生)を使った、いじめ行動に出る。それが益山氏への側面からの奉仕となると考えた模様である。それにも怒った私は、それをきっかけに弁護士さんの指導の通りに、法務局と財務局に内容証明を出し、益山氏の悪事を公的に記録をして、自分自身の正当な権利を守る。これは、益山氏には予想外の打撃であった。つまり、『周辺で一番、甘い人間だ』とみなしていた私(雨宮舜=川崎千恵子)は、最も手ごわいインテリだったのを、氏は見過ごしていたのであった。
益山氏は、この事件中、親友だと自称する元・陸軍参謀・瀬島龍三氏に相談をして、援助を仰いだ模様で、私宅は完璧に電話を盗聴される。し、電柱に取り付いている工事マンの声から、盗聴のこと、それ自体を誇示して知らされる。
しかし、結局のところ、益山氏は、詐欺そのものは完成させる。ともかく、さまざまな偽装や技巧を駆使して、土地、1200坪だけは、自分のものとして確保をする。無から有(当時の時価で四億円)を生み出したわけだった。
ところで、それで終えておけばよいのに、何を、とち狂ったのか、益山夫人が、白いセドリック・ハードトップで、私を轢き殺そうした。瞬間的に勘がひらめき難を脱したが、これにも怒り狂った私は、盗聴されている事を知った上で、弁護士さんに、「殺害までされそうになった」と、堂々と告げる。その夜(深夜か?)、益山氏は急死する。これを私は仮名で一回ほど、書いている。それを発表させたくないのが、今の猛烈な攻撃の最大の理由でも、あろう。
第一の三章
益山氏の死後、瀬島龍三氏は、この件に加担して、該当する根岸町2-103番地を、伊藤忠何とか、と言う子会社四社を含む共同名義(*)として、そのなかから、夫人の弟が引き継いだ不動産会社が二戸の建売住宅を新たに販売する。(*これは、2007年までは確かなこととして、相手側の測量士を名乗る人から電話で聞いた。今はどうなっているか、私は、知らない)
一方で瀬島龍三氏は、新聞の一面を使って、青地の説明をしたり、国立国会図書館のマイクロフィルム化を利用したりして、私の父の資料(画家として優秀な成績を、戦時中の満州で上げ、ラストエンペラー溥儀氏にお買い上げとなったりして、一種のスター扱いを受けていた)を消し去る。また、2007年以降は、私自身が保持していた写真や切り抜きも盗んでいく。
そして、鎌倉雪ノ下へ引っ越した私宅を、引き続き、電話盗聴、(もしくは室内盗聴をも)をし続け、そこで、つかんだ情報を利用して、主に心理操作を含んだいじめを仕掛けてくる。狙いは、うつ病にさせて自滅をさせることである。自殺までして欲しいと願っている模様。
私は、それが、分かっているが、ともかく、一応は知らん振りをして、切り抜け続ける。が、雪ノ下二丁目『鶯がやつ』と言う小さな谷に転居をした後で、隣人たちを利用して強力な集団いじめをしかけてくるする。そこは、実際の居住者が、16軒しかない小さな、住宅地であり、心理的には一種のたこ部屋となっていた。
第二部、アジサイ畑欺もう事件の素地。
雪ノ下2丁目、3~4にかけて、鶯がやつという小さな谷、には以下の面々が住んでいて、それらの有機的な結合によって、結果として、私が土地を盗まれるということとなる。
第二の一章、安野夫人
友人たちへの電話を盗聴して、私が安野夫人と言う『過去に、略奪婚を果たして、この雪ノ下へ転入してきた』奥さんを嫌っている事を知ると、あらゆる意味と側面で、そちらを援助する。それは、国家的規模をともなう大きさであった。継子(表向きは実子扱い)は、おいちにおいちにのあひるさん(5段階評価で、1,と2しかないと言うことの噂話)と普段から噂されているのだが、舞鶴の海上保安学校へ入れることと成り、それは、わざわざ私に「国立大学付属高校へご入学になりました」と知らされる。そして、海上保安庁に就職した坊ちゃんをのイメージ向上用・映画、『海猿』次々と、製作され続ける。また、安野夫人とそっくりな藤田憲子女史は、マスコミ上優遇をされ、その子・貴乃花親方も相撲界において突出して、優遇をされる。
夫人は、25年前当時で16人しかいない主婦の間に、上下関係を作り、かつ自分が一番になろうと、して、毎日、山の下の自宅前の、あり地獄の巣のごとき場所で、井戸端会議を開き、主流派を形成し、一種の番長となる。それで、この山は自然の環境はすばらしいが、心理的には一種の牢獄となり、大勢のお宅が入れ替わりを、繰り返すこととなる。大迷惑な存在だが、何の反省も無く、むしろ、警察の援助を受け、
・・・・・私の娘に、偽装の痴漢を、わざと襲わせさせ、夫婦で救出したこととして、その件で、私に頭を下げさせる・・・・・など、種々さまざまな、こちらにとっては、屈辱的ないじめを繰り返す。
奥さんはお色気のあるタイプで若尾文子のごとく、しなを作るので、初代会長古沢氏のお気に入りとなり、夫が町内会副会長になったが、それは、足掛け27年以上のながきにわたり続く。しかも彼ら夫妻が得意になって、いじめ行為を発する日と、警察が私を暗喩的に脅迫する日、および小沢一郎氏が、マスコミに派手に登場する日は、ぴったりと重なっている。
第二の二章 前田夫人
その安野夫人が安心して威張っていられる理由の一つに、都立大学の大学院を出た前田夫人が、彼女の派閥に属しているという事がある。前田夫人は、八幡宮様のご推挙があったらしくて、國學院大學の講師職が与えられた。それも、彼女を、増長をさせたのか、肩で風を切る勢いで、安野夫人一派のいじめ集団に権威を付与している。夫が大学教授なので、現在の会長職をしている。ほぼ、10年以上、それを継続。しかもこの人自身にも強い『いじめたい』という意欲があり、煙のこと、猫のこと、さまざまなことで、間違った情報により、私をいじめてくる。それを、こちらが訂正をするたびに、一種の面子をつぶされるものだから、さらに居丈高にいじめてくる。この2010年の夏にもひどい事が数々あった。
しかし、彼女には。この山の住人としては、決定的な弱点がある。前の住人が、私道負担部分を正当に拠出していないのだ。ほとんどが二メートル前後しかないこの山の私道部分でも、そこだけはきわめて細くなっている。
上の二人に加わるに、鎌倉春秋社の支援を得た、鎌倉春秋がまの講師、石川和子女史が加わってけたたましい矯正をあげ続けるので、この山の環境はすこぶる悪い。
第二の三章 藤本夫人
私はこどもがすでに中学生でもあるし、他の人家が一軒も自分の目には入ってこないここの環境を最高に利用すべく、絶対に井戸端会議には加わらない決意をする。しかし、横浜や、横須賀で、適宜に井戸端会議も経験してきているので、主婦としては柔軟な方でもある。しかも地理的な条件からいっても、その現場より12mぐらい高い場所に住んでいるので、独立独歩の姿勢をとりやすい。
一方で、私の対面、北側に住んでいる藤本夫人は、井戸端会議のすぐ傍、ほとんど同じ高さに住んでいるので、5,6メートルの身近な距離で、つまらない会話を聞かされることとなり、かつ、医者の娘で誇り高いお嬢様なので、柔軟にその輪の中に加わる事もできず、最初期のいじめのターゲットと成ってしまう。
彼女も、さまざまな工夫を弄して、手を尽くすが、何分にしても多勢に無勢で、敗色濃厚だ。そこで、考えに考えて、『雪の日の訴訟対策の、フェンス作り』という奇策をひねり出す。藤本家と我が家の間だけはこの山では傾斜が緩やかな方なので、石段一段の長さが、一メートル近くあり、緩やかに傾斜をつけて、コンクリートが張られている。雪の日に、除雪が不十分だと、確かに滑りやすい。
で、「誰かが滑って転んで骨折し、道の所有者の不適切な、設備のせいであると言う訴訟を起こすと困る」と言う提案をまずして、その上で、「だから私は一種の自衛の措置として、道の真ん中のフェンスを作る」と主張をする。
そして、実際に電動のこぎりで、道路の彼女宅から二メートルの位置と、彼女が考える花畑所有分の辺りに、二本の切込みを入れ始める。山中、キーンと言う音が鳴り響き、不穏な雰囲気に満ち溢れる。
この山の道路は、実質一メートルしかコンクリートが打っていなくて、両方の土の部分にすべての人は、なんらかの花を植えているのであるが、我が家では、アジサイを植えていた。その実質一メートルの真ん中にフェンスを作るのであるから、この山のほとんどの人は交通不可能になる。
みんなは藤本夫人をいじめたり、責めたりし抜いていたが、私は、実は内心で笑ってみていた。「痛快だ」とさえ思った。藤本夫人の復讐は見事にはまっていたから。
第二の四章、古沢氏と、古沢夫人、
私に「この苦境をだっするために、お宅のアジサイ畑を提供してくださいませんか」と頼んできたのが、最初の会長だった古沢氏だった。のちのちに氏のバックグラウンドが明らかになってくる。北関東の農家の出身で、しかも11番目の子どもであるとのことで、やんちゃな性格で、かつ、戦死を免れた人としての、戦後の優遇を受けた人で、俳句結社を主宰する紳士でもあった。
しかし、芸術も理解できる人特有の人当たりのよさもあり、やがて、私は立ち話を交わすようになる。で、上のいきさつを打ち明けられ、「協力して欲しい」と頼まれる。当時、夫は松阪に単身赴任中で、一切は私の双肩に担わされていたが、最初の申し出ででは、別に問題もないように思われたので、承諾した。
古沢氏の提案では、「この山のみんなが困っている(ただし藤本夫人に責め立てられて、一番困っているのは、土地を不正使用している前田家だが)ので、川崎さん宅で、お宅の花畑を提供して欲しい。そこに手すりを作れば、みんなが助かる」と言われる。
私は花畑をコンクリートで打つと、そこにはしごを立てる事が出来なくなり、石垣の目地に生えている潅木を抜けなくなるので、やがて、崖が痛む事をも考えた。が、そこはなんとか、柔軟に運ぶだろうと、この山の人たちの、性格のよさに期待をした。が、それが、生涯、悔やむ結果を招くとは、25年前には夢にも思いよらなかった。今では、崖は湾曲しているし、玄関たたきは割れている。ひどい後遺症が現れているし、実はそれだけではない大被害があるのだが、それらは、後回しにしよう。
古沢氏も、古沢夫人も、この提案が後々、我が家に大変な被害をもたらしたのを実感して、その後、数十年、この世からみまかるまで、丁寧な態度を崩さなかった。それは、お子さん方も同じである。この山の、他のメンバーとは、きわめて違った態度を示された。その理由は簡単だ。
お子様方二人の勤務先が両方とも我が家とは、通々の間柄にある人が、上司である会社だったのである。つまり、大企業だが、私の親戚とか、知人は、大企業に勤めている人間が多く、どちらも、もし、私がこの山の安野、石川、、前田夫人等のように、風評を流す人だったら、たちまちに、お子様が、困ることになるはずだった。私はそんな下品な事はしないが、世情に良く通じている古沢家では、こちらに丁寧な態度を最後まで崩さないという、形を取られた。
第二の五章 中谷家のひとびと、
中谷さんは、この悶着の起きた当時、会長であった。あじさい畑をつぶす案は、氏の発案では無いが、すぐ飛び乗ってきた。で、私に「藤本夫人はきちがいだ」とか、何とか、散々の悪口を吹き込み、違法な地境石のことも教えてくれた。
前の住人が引っ越していき、私たちが、転入してくるわずか、1,2ヶ月の間にいれた、地境石が、違法であり、また、藤本家が、普通は角が落とされている宅地の東南の角をわざと、70度ぐらいで尖らせている不条理などを私に教えた。
中谷家では、フタバを出た奥様は非常に賢明で、当時東大の助教授であり、のちに教授へなって行った、ご長男は紳士であるが、ご主人自体とご次男は問題がある人格の持ち主だ。信念と、道徳観がない。
藤本夫妻の最晩年を引っ掻き回し、私に対しても散々な迷惑を掛けておきながら、ご自分が病気になると、気弱くなって、「どうか、川崎さん、みんなをいじめないでくださいね」だって。信じがたいほど、胆力のない人間だ。あのとき、前田夫人たちを、富士本夫人宅へ謝罪をしに向かわせることが、唯一無二の解決策だったのに、それができない人だ。奥様以外の女性は怖いらしい。
まず、中谷氏が決定的に悪かったのは、アジサイ畑ではなくて、その前に、我が家の東北に存在していた自然な山そのものを、崩したことである。藤本夫人が入れた地境石は、誰が見ても違法なものであると分かるほど、我が家の山は、大きくみ地に出っ張っていたのだが、その山を無許可で崩してしまい、潅木を十数本引っこ抜き、土を大量に取り崩し、地境石があたかも正当であるかのごとく、しつらえてしまったのである。
その工事、そのものも、事前の警告も予告も何も無く、だまし討ちであった。私は、午後零時ごろ、それがほとんど回復不能なときとなって、やっと気がついた。というのも、だまし討ちをせんがために、あらゆる工事の最初期として、初日に、それが通告なしで、行われたからである。
中谷氏は、イソップ物語のこうもりを地で行く面妖さを持った人で、こちらには、藤本夫人の悪口を吹き込み、藤本夫人には、「お宅の言うとおりにいたします」と述べていたのだ。そして、のちほど、大原光孝さんが、「中谷さんのお子さんは、東大教授ですよと言うこととなる。東大教授の息子を持っていれば、土地を盗んでいいと言うのだろうか。本当に「出るところへ出、ましょう」といいたい。それは、死んでしまった中谷氏に言うこともできなので、ご長男と大原氏に言うこととなるが。ご次男でも良いし。
ところで、26年前の当時の、当日に戻ろう。土木業者は私が推薦した業者だった(その前に、高枝きり・・・・・しかし、大木であり、25年前は高枝きり専門の上貴職がいなかったので、とび職に頼んだ)ので、顔見知りだから、「東京の弁護士のところへ行ってくるから、待っていて、これ以上、工事を進めないで」と言い置いて、東京へ出かけた。
このときに、東京の青山弁護士へアポの電話をかけたが、瀬島龍三が、この件へ乗り出してきていて、盗聴をされたいたのは確かだといまあでは思う。弁護士さんを動かしたかどうかは知らないが、中谷さんを動かしたのは確かだ。
東京では、弁護士、青山敦子さんは、熱意を示さず、「争わない方が良い」と言い、夜に、帰宅をすれば、中谷氏は、次の日に、「こちらへどうか、おいでください」という。自宅の応接間で、三拝九拝して、あじさい畑欺もう事件を、進めさせてくださいと説得をする。しかし、私は前夜すべての家を回っていて、大原氏も前田家も、あの安野家でさえ、この事情を何も聞かされておらず、町内会で、私宅の山を削ってよいと言う決定は何もなされていないのを知っている。
中谷家応接間に招きいれられた私は、奥さんからは、「川崎さんの言うことの方が正しいわ。あなた、もうこの件は、おやめなさい」とさえ言われているのに、面妖というか、不思議にも中谷氏が、ひとり、言う事を聞かない。理解をしない。息子が東大の助教授だと言うのに、こんなに、不名誉なことに手を染めるのが不思議でならなかった。
誰が見ても、「絶対に崩してはなりません」と厳命をしておいた山まで崩したのなら、悪意ある泥棒でしかない。しかも、「手すりを作る事も、こうなったら、承諾を撤回します」と言っているし、「あじさい畑をコンクリート打ちをする事も拒否します」と言っているのだ。それなのに、本当に平身低頭をして、ご自分の説を通してしまった。
私だって、自分が四十代の主婦にしか過ぎず、相手が、七十代の男性だから、ちょっと、気が緩んでしまったのだ。それで、とうとう氏の提案を許したのだ。だけど、後で分かってみれば、私が東京へ行っている間に、瀬島龍三氏から、中谷氏の二世仲間(もしかしたら、私の主人側にも相当立派な、二世仲間がいる。現在、90歳前後で、学歴職歴もすばらしい。そこら)辺りを通じて、命令が下ったのかもしれない。となると、中谷氏は、私の抗議など、どこ吹く風であったであろう。『最後の段階では、この人のご主人を丸め込めばよいのだ』とか、思って。それは藤本家に使われたのと、同じ手法であるが。
その後、中谷氏も中谷夫人も相当な礼儀を尽くして、接してくれていたし、私は影にいる瀬島龍三の存在には気がつかなかったので、結局のところ被害を鵜呑みにすることと成った。
第三部 私の自滅、逼塞と、ブロがーへの変身
第三の一章、美術の道一筋へ
もともと、私は、この山へ転入する際には、他のご夫人たちと同じく、変身をしたいと願っていた。それは、ご近所で威張るために地位を向上させることではなくて、キャリアーウーマンとしての復活であった。まず東レの、鎌倉工場内研究所へ、世話してくださる方が現れた。これは、絶好の条件だった。しかし、辞退をした。が、いかんせん、体が弱かった。一週間程度の無理は利く。しかし、正社員として、半永久的に勤務するとなると、体の側面で自滅しそうだった。と言うのも、お世話をしてくださった方は不思議そうだったが、山があるので、同じ鎌倉市内だといっても徒歩と電車とモノレールと徒歩で、一時間半ほど、通勤時間が掛かるのだった。信じがたいほど大回りをして、そこへ行かなければならない。
この体が弱いと言うのは大ネックとなる。そして、人が紹介してくださる限り、絶対に、長期に勤め無ければならない。三ヶ月や半年で放り出してしまうわけには行かないのだ。そして、本当の事を言えば、私は実験が好きではないのだった。博士号を取っていない私が、東レの研究所に入っても、下働きの実験を、命令をされてするしかないであろう。わがままなようだが、『それが、自分には向いていない』と判断をした。ブランド名が高くても、向いていない仕事をするのは、疲労が大きくなる。今は、お金も名誉も関係が無いが、自分に向いている仕事をしているので、30時間起きていても耐えられる。
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さて、みなさま、ここから、いつものブログ固有の会話体へ文体を戻らせていただきます。実は中途半端なところで、一万字をこえました。で、大急ぎで、今日の結論というか、まとめをさせていただきます。
敵もさることながら、私側にも1987年から2005年までの20年間に紆余曲折がありました。結果として、私はパソコンを利用したエッセイを発表する人として社会と再び、結びつくこととなります。つまり、いったんは完璧に沈潜して世の中から消え去ったように見えたのに、まったく新しい形で復活してきたのです。
しかも、逼塞し、沈潜しえいる間に、紙の本を自分ひとりで、出版できるほどの力量を蓄えてしまいました。それは一種の夢の実現です。私は、不幸でもあり、不運でもあり、
しかし、一方で、ラッキーであり、恵まれている存在でもあります。その『文章が書ける』ということこそ、敵がもっとも恐れている部分であり、それゆえに、強烈な迫害を受けることとなっていきます。
しばらく、また、あらすじから離れて、具体的なエピソードを書き連ね、また、あらすじへ戻ってくることとなりましょう。では、今日はこれで。
2010年10月12日、しかし、アップロードの日付だけは9日と記載をされているのですが、・・・・・下書きのはじまった日がそれなので、そうさせておいてくださいませ。写真は、12日の午後二時に上げます.雨宮舜
それと、その後の、大銀杏が倒れたこと、そのほか、私は内心で、忸怩たる鬱屈を抱えていたわけですが、鎌倉雪ノ下二丁目、4の何がしに住む、大原光孝氏という画家の驚天動地のいじわるが、パンドラの箱を開けたこととなって、胸の中に長らく秘めていた瀬島龍三氏との30年にわたる抗争を、明らかにする決意を固めました。それは、ミステリー小説の展開を取ります。瀬島隆三氏は、国際的軍産共同体のエージェントとして有名な人で、配下に瀬島機関を持っていて、言論弾圧の実力行使に出ると、有名ですが、その実行行為は、目立たないように、常に秘密のヴェールをまとっています。
特に、実際にこの社会で生きている人間を使っていて、自分の姿は、絶対に露見しないように努めています。ですから、そこを追及していく過程は、壮大な、ミステリーとなっていきます。以下は、今まで、三々五々書いてきたことの、まとめとあらすじです。文体は、人懐っこい会話体ではなくて、小説などの突き放した形の語法と文体を、用いるのをお許しくださいませ。
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第一部、横須賀市、根岸町2丁目の話
第一の一章
1974年、私(雨宮舜=川崎千恵子)は、横須賀市根岸町2-103に60坪の土地を求め、家を建てる。平和に暮らしていたが、1980年に入り、地境地主、益山某・元海軍参謀が、地籍変更届を利用した詐欺事件を企画し、それに巻き込まれる。
益山氏は、140坪程度の土地(多分、原型は山林だった)を買い求め、宅地造成(立派な舗装済の、私道を含む)を果たした後で、分譲住宅を売り出し、残りが一坪もなくなっていた。しかし、巧妙にも、隣にある、横須賀市の水道局の山を、目隠しをした高い塀の内部で、開墾を進め、あたかも自分の庭のように偽装をして、法務局の地籍変更届を出し、無から有を生み出すと言う形で、1200坪の土地を生み出そうとしていた。
その目的をかなえるためには、地境地主、11軒の実印を押す必要があるが、私の西隣の原さんは、ここら辺の戦前からの地主で、益山氏のいんちきを見抜き、実印を押さない。で、益山氏は、原氏の実印をもらわないでも済む様に、原家を青地というもので囲んだ。青地とは江戸時代に出来た、山もちと、畑を耕す人間との間に争いが起こらないようにした緩衝地帯で、木を植えてもいけないし、野菜を受けてもいけない場所である。通常幅一間程度であり、戦後(または明治以来)、国有地として、設定をされているもの。私は購買時には、無かったこんなものを急に設定されて、びっくりして財務局に問い合わせに行く。財務局には、これらの青地の図面はなく、公図にも(1981年当時には)記載が無く、益山氏が、自分の利益のために、突然に設定したものだと、理解することとなる。
しかも青地とは、国家から払い下げる際には、半分ずつ両隣で、分け合うことと聞いて激怒した。正しい図面に基づいて買ったのに、隣の原家に一メートルも分も、譲渡しなければならないなど言語道断だ。
第一の二章
栗原弁護士と青山弁護士の二人の弁護士についてもらって、戦う。原家の南隣の『上滝家は、私より、ずっと、広範囲な情報を、益山氏から与えられていて、しかも成功報酬100万円程度を、土地の形でもらえる事となっている』と、彼本人から聞いた私は、それにも激怒する。私の方は、ただ、『益山氏の私道を、横須賀市に寄付する』と言う名目で、実印を押させさせられるところだったのだから。こちらの方が上滝家より、軽く扱われている。結局、『お前の方が馬鹿だ』とみなされたいたこととなる。
しかも上滝氏は、こども(小学生)を使った、いじめ行動に出る。それが益山氏への側面からの奉仕となると考えた模様である。それにも怒った私は、それをきっかけに弁護士さんの指導の通りに、法務局と財務局に内容証明を出し、益山氏の悪事を公的に記録をして、自分自身の正当な権利を守る。これは、益山氏には予想外の打撃であった。つまり、『周辺で一番、甘い人間だ』とみなしていた私(雨宮舜=川崎千恵子)は、最も手ごわいインテリだったのを、氏は見過ごしていたのであった。
益山氏は、この事件中、親友だと自称する元・陸軍参謀・瀬島龍三氏に相談をして、援助を仰いだ模様で、私宅は完璧に電話を盗聴される。し、電柱に取り付いている工事マンの声から、盗聴のこと、それ自体を誇示して知らされる。
しかし、結局のところ、益山氏は、詐欺そのものは完成させる。ともかく、さまざまな偽装や技巧を駆使して、土地、1200坪だけは、自分のものとして確保をする。無から有(当時の時価で四億円)を生み出したわけだった。
ところで、それで終えておけばよいのに、何を、とち狂ったのか、益山夫人が、白いセドリック・ハードトップで、私を轢き殺そうした。瞬間的に勘がひらめき難を脱したが、これにも怒り狂った私は、盗聴されている事を知った上で、弁護士さんに、「殺害までされそうになった」と、堂々と告げる。その夜(深夜か?)、益山氏は急死する。これを私は仮名で一回ほど、書いている。それを発表させたくないのが、今の猛烈な攻撃の最大の理由でも、あろう。
第一の三章
益山氏の死後、瀬島龍三氏は、この件に加担して、該当する根岸町2-103番地を、伊藤忠何とか、と言う子会社四社を含む共同名義(*)として、そのなかから、夫人の弟が引き継いだ不動産会社が二戸の建売住宅を新たに販売する。(*これは、2007年までは確かなこととして、相手側の測量士を名乗る人から電話で聞いた。今はどうなっているか、私は、知らない)
一方で瀬島龍三氏は、新聞の一面を使って、青地の説明をしたり、国立国会図書館のマイクロフィルム化を利用したりして、私の父の資料(画家として優秀な成績を、戦時中の満州で上げ、ラストエンペラー溥儀氏にお買い上げとなったりして、一種のスター扱いを受けていた)を消し去る。また、2007年以降は、私自身が保持していた写真や切り抜きも盗んでいく。
そして、鎌倉雪ノ下へ引っ越した私宅を、引き続き、電話盗聴、(もしくは室内盗聴をも)をし続け、そこで、つかんだ情報を利用して、主に心理操作を含んだいじめを仕掛けてくる。狙いは、うつ病にさせて自滅をさせることである。自殺までして欲しいと願っている模様。
私は、それが、分かっているが、ともかく、一応は知らん振りをして、切り抜け続ける。が、雪ノ下二丁目『鶯がやつ』と言う小さな谷に転居をした後で、隣人たちを利用して強力な集団いじめをしかけてくるする。そこは、実際の居住者が、16軒しかない小さな、住宅地であり、心理的には一種のたこ部屋となっていた。
第二部、アジサイ畑欺もう事件の素地。
雪ノ下2丁目、3~4にかけて、鶯がやつという小さな谷、には以下の面々が住んでいて、それらの有機的な結合によって、結果として、私が土地を盗まれるということとなる。
第二の一章、安野夫人
友人たちへの電話を盗聴して、私が安野夫人と言う『過去に、略奪婚を果たして、この雪ノ下へ転入してきた』奥さんを嫌っている事を知ると、あらゆる意味と側面で、そちらを援助する。それは、国家的規模をともなう大きさであった。継子(表向きは実子扱い)は、おいちにおいちにのあひるさん(5段階評価で、1,と2しかないと言うことの噂話)と普段から噂されているのだが、舞鶴の海上保安学校へ入れることと成り、それは、わざわざ私に「国立大学付属高校へご入学になりました」と知らされる。そして、海上保安庁に就職した坊ちゃんをのイメージ向上用・映画、『海猿』次々と、製作され続ける。また、安野夫人とそっくりな藤田憲子女史は、マスコミ上優遇をされ、その子・貴乃花親方も相撲界において突出して、優遇をされる。
夫人は、25年前当時で16人しかいない主婦の間に、上下関係を作り、かつ自分が一番になろうと、して、毎日、山の下の自宅前の、あり地獄の巣のごとき場所で、井戸端会議を開き、主流派を形成し、一種の番長となる。それで、この山は自然の環境はすばらしいが、心理的には一種の牢獄となり、大勢のお宅が入れ替わりを、繰り返すこととなる。大迷惑な存在だが、何の反省も無く、むしろ、警察の援助を受け、
・・・・・私の娘に、偽装の痴漢を、わざと襲わせさせ、夫婦で救出したこととして、その件で、私に頭を下げさせる・・・・・など、種々さまざまな、こちらにとっては、屈辱的ないじめを繰り返す。
奥さんはお色気のあるタイプで若尾文子のごとく、しなを作るので、初代会長古沢氏のお気に入りとなり、夫が町内会副会長になったが、それは、足掛け27年以上のながきにわたり続く。しかも彼ら夫妻が得意になって、いじめ行為を発する日と、警察が私を暗喩的に脅迫する日、および小沢一郎氏が、マスコミに派手に登場する日は、ぴったりと重なっている。
第二の二章 前田夫人
その安野夫人が安心して威張っていられる理由の一つに、都立大学の大学院を出た前田夫人が、彼女の派閥に属しているという事がある。前田夫人は、八幡宮様のご推挙があったらしくて、國學院大學の講師職が与えられた。それも、彼女を、増長をさせたのか、肩で風を切る勢いで、安野夫人一派のいじめ集団に権威を付与している。夫が大学教授なので、現在の会長職をしている。ほぼ、10年以上、それを継続。しかもこの人自身にも強い『いじめたい』という意欲があり、煙のこと、猫のこと、さまざまなことで、間違った情報により、私をいじめてくる。それを、こちらが訂正をするたびに、一種の面子をつぶされるものだから、さらに居丈高にいじめてくる。この2010年の夏にもひどい事が数々あった。
しかし、彼女には。この山の住人としては、決定的な弱点がある。前の住人が、私道負担部分を正当に拠出していないのだ。ほとんどが二メートル前後しかないこの山の私道部分でも、そこだけはきわめて細くなっている。
上の二人に加わるに、鎌倉春秋社の支援を得た、鎌倉春秋がまの講師、石川和子女史が加わってけたたましい矯正をあげ続けるので、この山の環境はすこぶる悪い。
第二の三章 藤本夫人
私はこどもがすでに中学生でもあるし、他の人家が一軒も自分の目には入ってこないここの環境を最高に利用すべく、絶対に井戸端会議には加わらない決意をする。しかし、横浜や、横須賀で、適宜に井戸端会議も経験してきているので、主婦としては柔軟な方でもある。しかも地理的な条件からいっても、その現場より12mぐらい高い場所に住んでいるので、独立独歩の姿勢をとりやすい。
一方で、私の対面、北側に住んでいる藤本夫人は、井戸端会議のすぐ傍、ほとんど同じ高さに住んでいるので、5,6メートルの身近な距離で、つまらない会話を聞かされることとなり、かつ、医者の娘で誇り高いお嬢様なので、柔軟にその輪の中に加わる事もできず、最初期のいじめのターゲットと成ってしまう。
彼女も、さまざまな工夫を弄して、手を尽くすが、何分にしても多勢に無勢で、敗色濃厚だ。そこで、考えに考えて、『雪の日の訴訟対策の、フェンス作り』という奇策をひねり出す。藤本家と我が家の間だけはこの山では傾斜が緩やかな方なので、石段一段の長さが、一メートル近くあり、緩やかに傾斜をつけて、コンクリートが張られている。雪の日に、除雪が不十分だと、確かに滑りやすい。
で、「誰かが滑って転んで骨折し、道の所有者の不適切な、設備のせいであると言う訴訟を起こすと困る」と言う提案をまずして、その上で、「だから私は一種の自衛の措置として、道の真ん中のフェンスを作る」と主張をする。
そして、実際に電動のこぎりで、道路の彼女宅から二メートルの位置と、彼女が考える花畑所有分の辺りに、二本の切込みを入れ始める。山中、キーンと言う音が鳴り響き、不穏な雰囲気に満ち溢れる。
この山の道路は、実質一メートルしかコンクリートが打っていなくて、両方の土の部分にすべての人は、なんらかの花を植えているのであるが、我が家では、アジサイを植えていた。その実質一メートルの真ん中にフェンスを作るのであるから、この山のほとんどの人は交通不可能になる。
みんなは藤本夫人をいじめたり、責めたりし抜いていたが、私は、実は内心で笑ってみていた。「痛快だ」とさえ思った。藤本夫人の復讐は見事にはまっていたから。
第二の四章、古沢氏と、古沢夫人、
私に「この苦境をだっするために、お宅のアジサイ畑を提供してくださいませんか」と頼んできたのが、最初の会長だった古沢氏だった。のちのちに氏のバックグラウンドが明らかになってくる。北関東の農家の出身で、しかも11番目の子どもであるとのことで、やんちゃな性格で、かつ、戦死を免れた人としての、戦後の優遇を受けた人で、俳句結社を主宰する紳士でもあった。
しかし、芸術も理解できる人特有の人当たりのよさもあり、やがて、私は立ち話を交わすようになる。で、上のいきさつを打ち明けられ、「協力して欲しい」と頼まれる。当時、夫は松阪に単身赴任中で、一切は私の双肩に担わされていたが、最初の申し出ででは、別に問題もないように思われたので、承諾した。
古沢氏の提案では、「この山のみんなが困っている(ただし藤本夫人に責め立てられて、一番困っているのは、土地を不正使用している前田家だが)ので、川崎さん宅で、お宅の花畑を提供して欲しい。そこに手すりを作れば、みんなが助かる」と言われる。
私は花畑をコンクリートで打つと、そこにはしごを立てる事が出来なくなり、石垣の目地に生えている潅木を抜けなくなるので、やがて、崖が痛む事をも考えた。が、そこはなんとか、柔軟に運ぶだろうと、この山の人たちの、性格のよさに期待をした。が、それが、生涯、悔やむ結果を招くとは、25年前には夢にも思いよらなかった。今では、崖は湾曲しているし、玄関たたきは割れている。ひどい後遺症が現れているし、実はそれだけではない大被害があるのだが、それらは、後回しにしよう。
古沢氏も、古沢夫人も、この提案が後々、我が家に大変な被害をもたらしたのを実感して、その後、数十年、この世からみまかるまで、丁寧な態度を崩さなかった。それは、お子さん方も同じである。この山の、他のメンバーとは、きわめて違った態度を示された。その理由は簡単だ。
お子様方二人の勤務先が両方とも我が家とは、通々の間柄にある人が、上司である会社だったのである。つまり、大企業だが、私の親戚とか、知人は、大企業に勤めている人間が多く、どちらも、もし、私がこの山の安野、石川、、前田夫人等のように、風評を流す人だったら、たちまちに、お子様が、困ることになるはずだった。私はそんな下品な事はしないが、世情に良く通じている古沢家では、こちらに丁寧な態度を最後まで崩さないという、形を取られた。
第二の五章 中谷家のひとびと、
中谷さんは、この悶着の起きた当時、会長であった。あじさい畑をつぶす案は、氏の発案では無いが、すぐ飛び乗ってきた。で、私に「藤本夫人はきちがいだ」とか、何とか、散々の悪口を吹き込み、違法な地境石のことも教えてくれた。
前の住人が引っ越していき、私たちが、転入してくるわずか、1,2ヶ月の間にいれた、地境石が、違法であり、また、藤本家が、普通は角が落とされている宅地の東南の角をわざと、70度ぐらいで尖らせている不条理などを私に教えた。
中谷家では、フタバを出た奥様は非常に賢明で、当時東大の助教授であり、のちに教授へなって行った、ご長男は紳士であるが、ご主人自体とご次男は問題がある人格の持ち主だ。信念と、道徳観がない。
藤本夫妻の最晩年を引っ掻き回し、私に対しても散々な迷惑を掛けておきながら、ご自分が病気になると、気弱くなって、「どうか、川崎さん、みんなをいじめないでくださいね」だって。信じがたいほど、胆力のない人間だ。あのとき、前田夫人たちを、富士本夫人宅へ謝罪をしに向かわせることが、唯一無二の解決策だったのに、それができない人だ。奥様以外の女性は怖いらしい。
まず、中谷氏が決定的に悪かったのは、アジサイ畑ではなくて、その前に、我が家の東北に存在していた自然な山そのものを、崩したことである。藤本夫人が入れた地境石は、誰が見ても違法なものであると分かるほど、我が家の山は、大きくみ地に出っ張っていたのだが、その山を無許可で崩してしまい、潅木を十数本引っこ抜き、土を大量に取り崩し、地境石があたかも正当であるかのごとく、しつらえてしまったのである。
その工事、そのものも、事前の警告も予告も何も無く、だまし討ちであった。私は、午後零時ごろ、それがほとんど回復不能なときとなって、やっと気がついた。というのも、だまし討ちをせんがために、あらゆる工事の最初期として、初日に、それが通告なしで、行われたからである。
中谷氏は、イソップ物語のこうもりを地で行く面妖さを持った人で、こちらには、藤本夫人の悪口を吹き込み、藤本夫人には、「お宅の言うとおりにいたします」と述べていたのだ。そして、のちほど、大原光孝さんが、「中谷さんのお子さんは、東大教授ですよと言うこととなる。東大教授の息子を持っていれば、土地を盗んでいいと言うのだろうか。本当に「出るところへ出、ましょう」といいたい。それは、死んでしまった中谷氏に言うこともできなので、ご長男と大原氏に言うこととなるが。ご次男でも良いし。
ところで、26年前の当時の、当日に戻ろう。土木業者は私が推薦した業者だった(その前に、高枝きり・・・・・しかし、大木であり、25年前は高枝きり専門の上貴職がいなかったので、とび職に頼んだ)ので、顔見知りだから、「東京の弁護士のところへ行ってくるから、待っていて、これ以上、工事を進めないで」と言い置いて、東京へ出かけた。
このときに、東京の青山弁護士へアポの電話をかけたが、瀬島龍三が、この件へ乗り出してきていて、盗聴をされたいたのは確かだといまあでは思う。弁護士さんを動かしたかどうかは知らないが、中谷さんを動かしたのは確かだ。
東京では、弁護士、青山敦子さんは、熱意を示さず、「争わない方が良い」と言い、夜に、帰宅をすれば、中谷氏は、次の日に、「こちらへどうか、おいでください」という。自宅の応接間で、三拝九拝して、あじさい畑欺もう事件を、進めさせてくださいと説得をする。しかし、私は前夜すべての家を回っていて、大原氏も前田家も、あの安野家でさえ、この事情を何も聞かされておらず、町内会で、私宅の山を削ってよいと言う決定は何もなされていないのを知っている。
中谷家応接間に招きいれられた私は、奥さんからは、「川崎さんの言うことの方が正しいわ。あなた、もうこの件は、おやめなさい」とさえ言われているのに、面妖というか、不思議にも中谷氏が、ひとり、言う事を聞かない。理解をしない。息子が東大の助教授だと言うのに、こんなに、不名誉なことに手を染めるのが不思議でならなかった。
誰が見ても、「絶対に崩してはなりません」と厳命をしておいた山まで崩したのなら、悪意ある泥棒でしかない。しかも、「手すりを作る事も、こうなったら、承諾を撤回します」と言っているし、「あじさい畑をコンクリート打ちをする事も拒否します」と言っているのだ。それなのに、本当に平身低頭をして、ご自分の説を通してしまった。
私だって、自分が四十代の主婦にしか過ぎず、相手が、七十代の男性だから、ちょっと、気が緩んでしまったのだ。それで、とうとう氏の提案を許したのだ。だけど、後で分かってみれば、私が東京へ行っている間に、瀬島龍三氏から、中谷氏の二世仲間(もしかしたら、私の主人側にも相当立派な、二世仲間がいる。現在、90歳前後で、学歴職歴もすばらしい。そこら)辺りを通じて、命令が下ったのかもしれない。となると、中谷氏は、私の抗議など、どこ吹く風であったであろう。『最後の段階では、この人のご主人を丸め込めばよいのだ』とか、思って。それは藤本家に使われたのと、同じ手法であるが。
その後、中谷氏も中谷夫人も相当な礼儀を尽くして、接してくれていたし、私は影にいる瀬島龍三の存在には気がつかなかったので、結局のところ被害を鵜呑みにすることと成った。
第三部 私の自滅、逼塞と、ブロがーへの変身
第三の一章、美術の道一筋へ
もともと、私は、この山へ転入する際には、他のご夫人たちと同じく、変身をしたいと願っていた。それは、ご近所で威張るために地位を向上させることではなくて、キャリアーウーマンとしての復活であった。まず東レの、鎌倉工場内研究所へ、世話してくださる方が現れた。これは、絶好の条件だった。しかし、辞退をした。が、いかんせん、体が弱かった。一週間程度の無理は利く。しかし、正社員として、半永久的に勤務するとなると、体の側面で自滅しそうだった。と言うのも、お世話をしてくださった方は不思議そうだったが、山があるので、同じ鎌倉市内だといっても徒歩と電車とモノレールと徒歩で、一時間半ほど、通勤時間が掛かるのだった。信じがたいほど大回りをして、そこへ行かなければならない。
この体が弱いと言うのは大ネックとなる。そして、人が紹介してくださる限り、絶対に、長期に勤め無ければならない。三ヶ月や半年で放り出してしまうわけには行かないのだ。そして、本当の事を言えば、私は実験が好きではないのだった。博士号を取っていない私が、東レの研究所に入っても、下働きの実験を、命令をされてするしかないであろう。わがままなようだが、『それが、自分には向いていない』と判断をした。ブランド名が高くても、向いていない仕事をするのは、疲労が大きくなる。今は、お金も名誉も関係が無いが、自分に向いている仕事をしているので、30時間起きていても耐えられる。
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さて、みなさま、ここから、いつものブログ固有の会話体へ文体を戻らせていただきます。実は中途半端なところで、一万字をこえました。で、大急ぎで、今日の結論というか、まとめをさせていただきます。
敵もさることながら、私側にも1987年から2005年までの20年間に紆余曲折がありました。結果として、私はパソコンを利用したエッセイを発表する人として社会と再び、結びつくこととなります。つまり、いったんは完璧に沈潜して世の中から消え去ったように見えたのに、まったく新しい形で復活してきたのです。
しかも、逼塞し、沈潜しえいる間に、紙の本を自分ひとりで、出版できるほどの力量を蓄えてしまいました。それは一種の夢の実現です。私は、不幸でもあり、不運でもあり、
しかし、一方で、ラッキーであり、恵まれている存在でもあります。その『文章が書ける』ということこそ、敵がもっとも恐れている部分であり、それゆえに、強烈な迫害を受けることとなっていきます。
しばらく、また、あらすじから離れて、具体的なエピソードを書き連ね、また、あらすじへ戻ってくることとなりましょう。では、今日はこれで。
2010年10月12日、しかし、アップロードの日付だけは9日と記載をされているのですが、・・・・・下書きのはじまった日がそれなので、そうさせておいてくださいませ。写真は、12日の午後二時に上げます.雨宮舜