銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

うーん、緊急事態かなあ?

2024-02-29 23:51:20 | 政治
この一文ですがスクロール機能を、上下、左右ともに駆使して、お読みいただきたいです。でないと、見えない部分があって、意味不明になります。それだけ、深い真実を述べている文章です。だから、敵は、困るから妨害をしてきているというところです。
この写真ですが、右が私で、左が愛称カメとよばれていたお嬢ちゃまです。年代は1956(または1958)年の夏休みでしょう。13歳(または、16歳)だったはず。撮影者は、大久保忠康君でしょう。横浜国立大学付属中学9期卒です。二期上に、カメのお姉さんがいて嶋田昌子さんといいます。亡くなったときに、新聞=ただし湘南版(朝日なら)か、神奈川版(日経なら)が追悼記事を出しました。テレビ的な有名人ではないけれど、ブラタモリが第一回横浜編を放映した時の案内者です。テレビに出ないのは、すでに、エスタぶりっしゅど(上流階級)だと普通のことで、能力が低いというわけではありません。松前澄子先生程の祖先ではないけれど、病院の院長のお嬢様です。父君は、軍医時代に、宮田重雄に肖像画を描いてもらっています。いとこ(父の弟さん一家のお嬢さんたち)は、フェリスに進んで、非常に派手な感じで、大活躍でした。カメとお姉さんが、地味目な、一生を送ったのは、高校生の時に、暴走車にひかれるという大事故に出会ったので、何か、考えが変わったのでしょう。生きているだけで充分だ。社会に出て奉仕すべきだと、言う様な考えですねカメは、学習院大学哲学科を出て、都立図書館の司書になりました。で、この章の、副題2で出てくる有栖川宮記念公園内にある、都立中央図書館で、勤務していた日々もあったと、聞いています。
さて、撮影者の大久保忠康君です。この写真は、カメの顔に白線を入れたので、ぶっ壊れてしまっています。が、元の写真は、素晴らしいものです。大久保君は、カメラを、中学生の時から好きで、のちに九州産業大学の教授になりました。毎日現代美術展の常連でした。それへの出品作は写真ではなくて、現代アートの平面という分野のものでした。そして、ギャラリー山口の、個展の常連者でもありました。そして、山口千里さんが、野見山さんの秘書になる前の、野見山さんの九州における面倒を見ていたと、推察しています。しかし、暴走老女の車にひかれて亡くなったそうです。これは、本当にひどいです。大学教授ですよ。それに、毎日展の常連だった現代アートの世界では、名声が確立していた人物です。わたくしは、彼の、死亡を京橋の画廊羅針盤で、個展をしていた作家から、たまたま、教えられました。びっくり仰天。それを知ってから、山口千里さんと、高田弘子さんに、電話をかけてあれこれ、質問をしたら、二人とも、ひどくそっけないのです。大久保君に対して哀悼の意がないのです。千里さんは、作家としては、現代アートの人ではない。だけど、どうして、野見山さんの秘書になったかというと、40%ぐらいの原因は、私と友人だったからでしょう。わたくしの力を弱めるために、千里さんを野見山さんの秘書にしたのです。高田弘子さんは、日本刀剣協会の事務方トップで、日本の富裕層の情報をしっかりと握っている人物ですが、彼女の方は、社交的なので、付属中学の情報が、大きく入る人で、夫の忠道さんは、その時すでに亡くなっていたけれど、大久保君とは、親友だったはずです。なお、下は、ほとんど同じ時期に京都で、撮影された写真です。友人が撮ったものですが、彼女は、のちにカメラマンにはなっていませんし、美大の教授にもなっていません。上の写真が如何に優れていたか、どうか、把握してくださいませ。大久保君は、美的センスがあったのです。レフ板など、使っていないのに、私の顔に、水が反射した光が入っている。そういうところもすごいです。
この続きは明日公開します。と言いながら時蔵襲名に入って行ってしまっていますが、お待ちくださいませ。
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