銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

伊藤玄二郎は、自分は伊藤整の婚外子(ただし、実母はインテリ編集者の筈)であるという貴種流る譚を最大限に利用している筈

2025-03-12 01:24:55 | 政治

これは、完璧に、前報

痛い。午前二時に痛みで、目が覚める。ご近所人間W夫妻をリモートで伊藤玄二郎が雇っているのを発見したからか?いる筈。+ 伊藤玄二郎は早稲田ゆきさんを過去に、また、永年、渡辺賢司夫妻を雇っているか?

2025-03-09 02:27:00 | 政治

の、続きです。【書き始めてから、4時間は、総タイトルを、【渡辺賢司・みか夫妻が、もし、リモートで、かまくら春秋社の仕事を引き受けているのだとすると、この大ミステリーの一角が解けるのだった???】としておりました。が、またまた、そこまでいかれないので、総タイトルを変更します。

その続きを本日は書きます。といっても、その本日は12日の午前一時となりました。いろいろ忙しいことがあったのと、3月4日の東京銀座<特に木挽町の松竹図書館に行こうとして、すかを浴びせられふられた日に、上野の、文化会館内、資料室も、どうしてか、珍しくその日がお休みで振られて、秋葉原でも、ここがいいお店だと、30年間の逍遥の結果見定めているお店が、30分早く閉店して、はいれず、そして、鎌倉に帰ってくると、6か所ぐらいで、いやな思いをして(泥棒も引き続きひどいことを10日の夜もやるし=チューリップの球根を10個以上掘り起こしている=だから、死ぬ=)すごいなあ。どうしたんだ?と思っていたら、例の神奈川県政策のコンクリート擁壁が、その外出日に完成していたのです。

 それで、絶対に勝ったと、感じている伊藤玄二郎が、居酒屋・奈可川を利用して、かつ、同時並行的に、画廊ジアースも利用して、かつ、ご近所人間、渡辺夫妻も利用して、「徹底的に打ちのめしてやれ」と出てきたのが、ハイヤーで、帰宅する姿をわたくしに見せたことでした。

 私がなかなか、続きが書けなかったのは、その15個ぐらいの攻撃を書くのがうっとおしくて、やりたくなかったというのと税務申告をまとめないといけないし、一台パソコンが壊されたので、新しく買った中古にいろいろ、アプリ(=ソフト)入れ込んで、使える様にしようとしている最中、また、また、苛め抜かれて(IDと、パスワードが合致しないとか、いう画面が現れたりして)長時間かかったからでした。ごめんなさいといっておこう。

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副題1、『私が、このブログを書く目的は、今では、人間研究=哲学の諸相を、実践的に記録すること・・・・・と、私の周辺に起きる壮大なミステリーを解くという事にある』

 私が感じている被害は、日本が、本当の法治国家だとあってはならない現象です。だから、すべて、だまし討ちという形で、行われます。でね、その裏側を書いていると、2015年ごろまでは、相手側が、少し反省したのでした。

 ところが、やまゆり園事件の、彼らにとっての成功(=一億二千万の、日本人が、本当に19人の死者がいるのだと、信じたらしいので・・・・・・一人も死んでいませんよ。・・・・・障碍者は、詳しいかつ正しいことを記者には説明できないはずだという、心底からの、障碍者見下し、精神を利用した、嘘事件です。

 47人もの死傷者が出たという事が嘘なので、あの三角屋根のやまゆり園の建て物を壊したのです。ところが別の所で再開されたやまゆり園で、虐待事件が、頻発していると、報道をされています。

 その原因は、2016年7月26日(多分、この日ですよ。すでに暗記をしているぐらいに)やまゆり園事件は、私の取っては、熟知の、事件です。その大嘘を、国民に本当だと、思わせた一女が、その日の午前中に記者会見をした、神奈川県知事、黒岩氏と、入倉かおる園長でした。

 でね。神奈川県の福祉行政マンのモラールが壊滅的に、破壊をされたのです。障碍者は、馬鹿にしていいんだと、神奈川県職員が思い込んでしまったのです。

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副題2、『笠松敦子さん、もう、あなたは、私のブログも読まないと2009年ごろかな? はがきで、連絡をくれたほどなので、もう、これを読んでおらず、ここで問いかけをしてもむなしいだけですが、それでも、あのを事件を、謀略として計画した、鎌倉エージェントへの怒りが溶解しないので、再び、お手紙を出します。公開質問状です。

 笠松敦子さん・・・・私はあなたを長らく尊敬してきていました。だけど、やまゆり園事件が起きた直後【手をつなぐ親の会】の声明文が出ましたが、あれのデジタル処理と、ネット公開をあなたがやってあげたのではないですか? 署名は、その時の会長名義でした。しかし、あの素早さは、ICU(=国際基督教大学)1966年卒の、パソコンマスター人間の、できることであり、署名者の技術ではないでしょう。

 あなたのご専門は、原文がフランス語の名著、=プルーストとかファーストの、新訳(箱入り上製本として出版をされた書物)の在宅・独立系編集者です。

 ご労作を、いただいて、恐縮の極みですが、その手の主たるお仕事とは別に、私のブログに見事に呼応する形で山折哲雄さんの新書とか吉田秀和氏のエッセー、箱入り、上製本(朝日新聞社刊)を、お引き受けになりましたね。

 そのオファーを受け取る際に、伊藤玄二郎とは、接触なさったでしょう。その前に、井上ひさし等とも、接触なさった可能性を感じ取っています。あなたは、CIAから攻撃を受ける可能性はないので、このブログにコメントとしても、

 あの【手をつなぐ親の会】の声明文に、自分は手を貸していない。または、川崎さん、あなたの慧眼通り、あれは、私が処理しましたと、どちらかのご返事を下さい。

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副題3、『渡辺夫妻は、笠松敦子さんほど、上品ではない。なお、笠松敦子さんのご主人は筑摩書房編集者として、私に対して、電話内で、牙むき出しの文言で、対応し、筑摩の編集部も同じなので、・・・・・まあ、まあ、何とも言いようがないが・・・・・しかし、渡辺夫人が、外語大卒ぐらいであろうと、長年言ってきたのを、ここで、丁寧に、再度考察しなおさないといけなくなった。

 今般、ご近所人間の、渡辺賢司いう人物があまりにも見事に、伊藤玄二郎らしき人物のいう事を聞いたので、急に彼ら夫婦は、リモートで、鎌倉春秋社の仕事を引き受けているのではないか?と、おもいあたった。

 かまくら春秋社は、銀座百景と同じ方針で、各商店から、毎月、美香じめ料程度の金銭を採集し、その貢献度に応じて、雑誌【鎌倉春秋】を配布し、そのお店が上得意に、ただで、配布することで、基本的な、収入を得ていると思われるが医師会にも手を伸ばしていて、まったく同じ手法を医院を相手にとっている。【神庫】と、呼ばれる雑誌は、出版直後には、大病院中の大病院たる、湘南鎌倉総合病院(徳洲会の旗艦病院】でも、入り口に、「持って帰っていいですよ」というフリーペーパーの形で置いてある。

 タウン誌【鎌倉春秋】のケースだと豊島屋程度の大企業でも、伊藤玄二郎の方が上なのだが、医師会を相手となると、伊藤玄二郎の方が格下である。だから、編集には、気を使っているはずだ。また、それ以外にも多数の雑誌を、運営している。

 しかし、居酒屋・奈可川の、おお女将が、「石川和子さんも、鎌倉春秋社で働いていたのよ」といったほどで、それほど、優秀な人は勤務していなかったと、考えている。

 私の想像なのだけれど、伊藤玄二郎が、たった一年間の勤務で、河出書房を、やめたのは、里見頓氏の、愛顧を得たのと、東京の春秋社の社長の愛顧を得たのが大きいとは、思うが、

 ほかに二人の女性の熱烈な支持があったので、決意したのだと、推察していて、一人は石川和子さんで、もう一人は母親ではなかったかと推察している。

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副題4、『居酒屋・奈可川のおお女将は、用心したらしくて、石川和子の名前は出したが、もう一人の女性=伊藤玄二郎の母親の名前は出さなかった。まあ、道端の立ち話で、それを聞いたときは、すでに、母君は、引退しているはずなのだが、

 伊藤玄二郎が、ありと、あらゆる人を、自分側に引き込むのは、貴種りゅうる譚を利用していると思われるからだ。

 伊藤玄二郎は、チャタレー裁判で、急速に有名人化し、最後には、従五位か従三位まで、上り詰めた小説家伊藤整の婚外子だと、私は思っている。これは、私が、大相撲壊滅作戦と、呼んでいる、ガバナンス何とか委員会で、奥島孝康氏が、会長を担ったのだが、その前に、伊藤滋(当時は早稲田の教授だった)氏が担ったので、瞬時にその想像が正しいとわかったのだった。

 伊藤滋氏と、伊藤玄二郎は13歳の年の差がある。伊藤玄二郎は、伊藤整に、認知されている子供だと思われし、伊藤整のせい夫人は、当時の、有名男性が、第二の女性を、持つことを、普通のことと考えていて、伊藤玄二郎の母親に対して、嫉妬などは抱かなかったと思われる。しかも、次男である、伊藤滋氏と、玄二郎は、13歳もの年の差がある。しかも、大相撲壊滅作戦が起きた、2008~2009年は、すでに、二人は非常に仲良しだったと、みなすことができるのだ。

 でも、こういいう裏があるので、里見頓氏は、伊藤玄二郎を特にかわいがったと、思われる。里見頓氏は、自分で言っている。自分は妾の子だと。

 ところで、里見頓氏は、そういうわけで、やわらかい方向に行き、お子様も小津安二郎映画の、プロデューサーとなっている。しかし、伊藤玄二郎の実母は、色町の出身ではないだろう。彼は、1944年2月の生まれである。となると、母親は、もし大学卒だと1910年から、1920年の間に生まれ、1930年から1940年ごろ、就職をしたと考えられる。その時代は、すでに、男性の数が、極端に少なくなっており、知的なレベルの高い女性が有名出版社に、勤務するのは、容易だったと思われる。で、伊藤玄二郎は、ベテラン編集者たる実母に助けてもらって、出版社を起こしたと思われる。

 母親そのものが、東京の春秋社社長と知り合いであったら、春秋という名前を貸してもらう事も容易にできたと、思われる。というわけで、伊藤玄二郎が外部に語っている半生は、ずいぶんと嘘が多い。ところが、彼が、誰かかから(ロンドン在住の三輪喜久代さん、もしくは、同じく、国際キリスト教大学1962年入学の河出書房新社の、編集者、川名昭宣氏の、二人のどちらかから、または、大町に、アパートを持っているが、会社は、シンガポールにあるファンドマネージャー木村氏の、三者のうちの誰かから、リクルートをされて、CIAエージェントとなり、その次には、瀬島隆三にもあっていて、1980年には、すでに、立派な、対わたくし攻撃者となっていて、したがって、彼の出世はすべて、私が導いたものだと言えるのだった。

 彼が、エンリケ皇太子勲章をポルトガル国からもらったのも、すべて、私に対する弾圧工作のご褒美である。お金も官房機密費を自由自在に使える立場になっているのも、すべて、私の存在があるからだ。

  ところでこれは、伊藤玄二郎に対する誹謗中傷でも何でもないのですよ。ただ、事実を述べているだけです。彼は、結婚制度など、への河童で、上の様ことを書かれても、痛くもかゆくもないでしょう。けっこん制度とは、女性を守るものです。古臭い言い方かもしれないけれど、非婚で、または、離婚後、60歳を過ぎると、女性一人では、経済的に成り立たないです。男性をしのぐ、経済力を定年前にたくわえた人は、別ですが。

 離婚で、単身親として、子供を育てるのも、お店を経営しているぐらいの経済力がないと、悲惨なことになります。現在でも、特別な人を除いて、結婚制度は、女性を守っているのです。

 すでに、午前四時になったので、パソコンのそばを離れます。


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