銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

亀屋万年堂・豊島屋・・・・・高橋裕子、酒井忠康、小関利雄、画廊るたん、江見絹子、シロタ画廊

2020-09-25 20:35:11 | 政治

  今は、25日の、夜12時直前です。今朝、五時に、これを、終止にもっていって、その後、20時間ほど、パソコンを開けて居なかったので、途中で総タイトルを変更したことで、一番最初の文章を変えないといけないことを忘れて居ました。恐れ入ります。

 一番最初の総タイトルとは、 【この秋、すべての園芸店でコスモスの苗が売られていて、かつ、498円で統一されているわけを、皆様はご存知ですか?】でした。

 そこに、ある疑問を提示して居ます。それを、解析して、その答えを書きたいと思ったのは、3週間前ぐらいでした。ところが、ほかの事が、急に入り込んできて、それを書いて居るうちにそれらが、なかなか、完成せず、グッと遅れてしまいましたが、本日、三週間前には、180円で、コスモスの花鉢が売られていた、同じ、お店で、急に498円になって居て、それで、この件に関する私の感想と、類推が正しかったことを悟り、それをブログ文としたいと思います。

 なお、この章でもコスモスだけではなくて、いわゆる政治問題は、大きく浮上します。いろいろな、人名が出てきますよ。で、最初の総タイトルは、つぶして、24日の夜の12時に上のものへと変えました。

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副題1、『私が使って居て、そして、いいものだと、推奨しているもの(ただし、ブログ文でそれを書いたことはなくて、夫婦間の家庭内、会話だけかのだが、

 どんどん、消えて行って居る。全国的に消えて行っているものもあるが、

 反対に、私が大事だと、思っているものをひそかに、商品化して、それで、もうかりますよと、経済界に提示している動きもある模様だ。

 消えて行っているものを上げましょう。アルファ・ケリーという沐浴剤です。これは、400ccぐらいの、プラスチックの四角い瓶に入って居る、外国製の、薬ですが、日本で、充分に売っているものでした。大手製薬会社・山之内製薬・発売品として。

 透明な青い液体を化粧品の瓶の蓋いっぱいぐらい(=10㏄ぐらい)を洗面器一杯のお湯で、溶かして、それで、タオルを浸して絞り、体をふくのです。その蓋いっぱい100㏄で、全身をふくためには、四回ぐらいタオルを洗いなおさないといけませんが、

 そうすると、洗面器のお湯が真っ黒になって、皮膚がすべすべになるのです。真っ黒になった水の中に汚れと、はがれた皮膚の表皮細胞が、全部溶け込んでいると、思われました。これは、病人の清拭に最適なものです。ほかの物を買っても、これほどの効果があるものがありません。

 ところで、上の写真ですが、これは、18年以上、保存しているものです。一種の政治的な証拠品として取ってあるもので、使って居ません。で、青い色が、消えてしまっているし、瓶も、プラスチック製なので、へこんでいます。

 其れを売らないでいるとか、アスゲンPVA軟膏(傷が化のうした時に非常によく治る)を、売らない様に命令している連中がいて、そのケースが成功したと、見るや、今度は薬事法の改正と言って、抗生物質の入った薬をお医者様さえ、処方をしない様になりました。

 これらは、私をいじめるための政策ですが、一般の人が、良いものを使えなくなる仕組みでもあるのです。まあ、同じ現象は、資生堂のシャンプーでこれは、一番いいなあと、思っていたものが無くなるとか、何通りも、繰り返されてきたことでした。

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副題2、『でも、本日この問題を、急に取り上げる気分になったのは、大船の亀屋万年堂で、とうとう、一年を通して、大福を売らない様になったと聞いたからだった』

 私はね、体がとても弱いのです。若い日のトルエン類を、使った、化学実験でね。それで、東京へ出た時は、必ず、ご飯類を食べて居ました。カフェじゃあなくてね。しかし、このコロナ禍騒動で、外のレストランで食事をするのが怖くなってね。それで、カフェで、ケーキセットで、体力補強をする様になったのです。鎌倉駅前広場には、接して開店(ただし、ビルの二階とか、三階を使って居るところもあるが)しているカフェが12軒もあるのです。

 以前は、色々、使って居たのです。しかし、駅ビル(小さいのにCIALを名乗っている)内に、D]elifrance が、できてからは、そこで、お茶するのが定番となりました。このお店は、店舗によって出しているコーフィーが違うそうです。私、2020年(というか、70歳を過ぎたら)、コーフィーがだめになった(腸内細菌を殺すらしくて、膨満感が出る様になる)のですが、2019年まで、Delifrance 鎌倉店のコーフィーだけは飲んでいました。豆もよかったし、パーコレーターで、入れてくれて、370円です。その上、ここを利用するのは外人と、それから、鎌倉在住の奥様方なのです。時々、よくなれた、観光客も入りますが、 主に外人と鎌倉夫人です。で、何気ない会話が楽しいのです。

 そこでのさりげない会話で、御大福がブームだと知りました。鎌倉東急ビルの一階にある和菓子店、【あけぼの】では、一個で御大福を売ってくれるそうです。或る奥様が、「私はね。未亡人なのです。それで、二個御大福を買って帰っても、すぐおいしくなくなるでしょう。それで、相談したら、一個で、売ってくれることになりました」と、おっしゃるのです。

 ただし、こういう一個で、売ってくれる御大福というのは、270円から、280円ぐらい物が多いです。高い方の御大福です。スーパーや、コンビニで売っている120円ぐらいのものとの違いは、外側のおもち部分が固いか、柔らかいかの違いです。固い方がおいしくて、かつ高いのですよ。柔らかい方がだめなのです。そして安いのです。柔らかい方はお砂糖が、おもちの中に入って居て、日持ちがするので、売り方が楽なのです。その上、水も多く入って居るので、大量に生産すれば原材料費もぐっと安くなります。そこが、違いますね。

 外側のおもち部分に、お砂糖ができるだけ入って居ない御大福が、上等なのだけれど、すぐ硬くなって、味が落ちるのです。

 で、私は、・・・・・そうか、大福が今のブームなのか、その通りだ。御大福はおいしい・・・・・と、思い至り、2018年から、外出するたびに御大福を買って帰る様になりました。銀座にはデパ地下もあるし路傍店もあるでしょう。たとえば松屋の地下には、四種類の御大福を売って居て、それを全部二個ずつ買って帰った日もあったのですが、全く満足できませんでした。側も問題だが、杏子の甘さも問題です。甘けりゃあいいっていうものでもない。バランスがとれているものが最高です。余談ですが、リンゴジャムを作るときに、紅玉ではなくて、もともと甘いジャムにさらに、初めてだからと大量にお砂糖を入れたら、却って、食べにくいものとなりました。甘けりゃあ、いいっていうものでもないのは、自分で、作るものにも共通するポイントです。

 ところが、灯台下暗しで、おいしい、おいしい御大福が、なんと、鎌倉から、電車だけなら、5分でいかれる、大船にあったのです。古い形式の路傍店ですが、亀屋万年堂というお店があり、そこで、見つけたのでした。亀屋万年堂って、自由が丘が、本店だと思います。1960年代には、日吉店を開いたので、私にとっては、とても、懐かしいというか、よく買って食べたお店ですね。母は、必ず、10個ぐらいの生菓子を、二日に一度買っておいて、お茶タイムを開いて居ましたし。

 今、会社四季報を見たら、和菓子店って、文明堂でさえ、上場していないのですね。千疋屋も上場して居なかった。不二家ぐらいか? で、神奈川県、特に、東横線沿線の人しか、知らない可能性のあるお菓子屋ですが、御大福は全国一おいしいと、思いました。

 この亀屋万年堂の経営方針ですが、源吉兆庵などとは、正反対の様式です。岡山出身なのに、本格的な木造建築である鎌倉のお茶のお店を、買って、自分の本店としていてニューヨークにも豪華な、前面(又は、全面)ガラス張りの、店舗を開いている、源吉兆庵などとは、正反対の、街の和菓子店という形で、チェーン展開をしているのです。一時期、お嬢さんが、巨人軍のファンで、国松選手と結婚をしたそうで、それで、王貞治選手が、「ナボナは、お菓子のホームラン王です」と、テレビコマーシャルを流していて、それだけは派手でしたが、デパートなどには、出店していない、やり方です。ただし、あの路面店が、すべて、土地まで、取得して開いていると、したら、資産は、膨大です。安定しているから、冒険をしないと、言うところもあるかなあ?

 しかし、我が家で、それ(=亀屋万年堂の御大福が、一番おいしいわよ。東京から、鎌倉までの間ではね)を主人に言ったのです。それとブログでも書いたかもしれない。すると、一年ぐらいして、亀屋万年堂、大船店に行くと、御大福がないのです。「売り切れですか?」と聞くと、「いいえ、冬場は、御大福を作らないのです」と女店員が答えます。『うっ。やられたなあ。ここでも、我が家の夫婦間会話が盗聴をされていると、言う事が証明された』と考えました。

 しかし、ブログでは書きませんでした。どうしてかというと、他の分野のケースで、いったん、攻撃を受けても、知らんぷりをしていると回復するケースがあるからです。私は日本一おいしいと思っている御大福が食べたいわけです。で、回復するのを待ちました。しかし、大船の亀屋万年堂を訪問することがなかなかできませんでした。六時にしまっちゃうからです。

 ところが、本日、久しぶりに訪問をしたら、「御大福は、夏は作りません」というのです。『あれ、以前と矛盾している』と、考えました。結局のところ、我が家の会話が、盗聴されていて、私を、脅かしたり、いじめるたりするために、亀屋側に、「御大福を作るな」と命令した、人間が居るという事でした。誰でしょう?

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副題3、『今ね。豊島屋と、比較をしてみました。豊島屋さんは、私が先代社長と、長い時間にわたる会話を交わした日があって、それを、『レストラン・ろしなんて』という本に顕しています。で、豊島屋さんは、鎌倉エージェントにひどく使役をされています。しかし、商品について、これを作るな」などという支配を、刷ることは、伊藤玄二郎と、言ってもできないことだ。その点における亀屋万年堂との、違いは、どこにあるのだろうか?』

 私はれすとらんろしなんて】の中で表現した、豊島屋の二代目社長さんとの会話では、ある部分しか文字にしていません。主に、新興菓子メーカーの狡さと、言うポイントで、感想や、工夫をおっしゃった部分が、心に訴えたので、それを書いて居ます。

 特に、イサムノグチとの、NYでの、交流。それは、戦後すぐの事であり、弟さんと一緒だったので、色々、おおきな勉強になったと、言う話でした。もう一つあって、

 戦後すぐは、豊島屋さんも、苦労が多かったという話です。それは、全国的に、すべての分野で、人々は、物資や、資材が足りなくて、苦労をしたのですが、豊島屋さんの苦労は、如何にお菓子の質の高さを守るかに、腐心をしたかという点でした。

 「大型の冷蔵庫がないので、アイスキャンデーの製造機を何台も買ったのですよ。小麦粉は、冷蔵しておかないと、質が落ちるのです」とのこと。氷の冷蔵庫は、戦前から、あったと、思いますが、戦後の一時期、ぜいたく品である氷を作っていない時期があったのでしょう。

 私は素晴らしい聞き手(インタビューワー)なのですよ。それは、1980年代、一年間、小関敏夫先生のゼミに、出席した時に、表出されました。もう、80歳を超えておられて、朴訥極まりない口調で話がすすむ中で、私は、先生の話が、いい方向へ進む様に、質問を入れるのです。

 小関先生とは、新制作の会員で、横浜国立大学の教授でもあった方です。ものすごく女性にもてる方で、奥様が、それで、離婚に走られたそうで、そのゼミでも、どうも、熊沢俶さんが、プラトニックラブとしての、実質上の、奥様であるらしくて、熊沢さんの、嫉妬に負けて、そのゼミを去ることになるのです。熊沢俶さんは、湘南地方で、造り酒屋他をしている名門の一族の出かもしれません。小関先生とは、20歳ぐらい年が違うし、長い間、新制作のメンバーとして、同じ場にいたので、私なんかより、そりゃあ、小関先生との、間柄は、強いのです。もしかしたら、小関先生の離婚は、熊沢さんが原因だったかもしれない。私の方ですが、年齢は、小関先生と、40歳以上も、違うから、恋愛などするつもりはないのです。ただ、考えることが大好きだし、理解力が高いから、先生が、お話をされる、二時間ぐらいの中で、美術に関する部分を次の回までの、一か月に、6号から8号の油絵、四枚程度で、実践をしていくのです。そして、次の会に、一番早く行って、その実践の結果を見てもらいます。すると、先生としては、教えたことが見事に結実しているので、教えるもののみょうりに尽きるわけです。そうするとアガペーとしての目をかけると、言う事が始まります。一方の熊沢さんですが、もう、新制作の会員です。そして、自分の作品の隅々まで、先生の目を通して、批判をしてもらう必要がありません。

 それからそれ以外のメンバーですが、その時から、12年後に、サントリー学芸賞をもらう高橋裕子さんを除いて、先生のお話を本当に理解している人はいなかったと、思います。先生を好きだという気持ちは、あったし、先生に、展覧会へ、出品する絵を批判してもらいたいと、言う願いはあったと思います。で、全員が、100号の絵を、その時期になると、木枠から外してもってきて、先生に、批判をしてもらうのです。それが、目的だから、間の、月に、勉強を小品で、こなしてくると、言う姿勢はないのです。私の方は、展覧会については、批判を仰ぎません。戦前に父が(満州文展ですが)、すでに、特選を取って居ましたね。その新聞記事の切り抜きが、11枚も、この家から盗まれているのですが、ともかく、自分の美的才能については、自信があるわけです。その上、国際基督教大学で、外国風な教育を受けて居ます。だから、完成作品について、それをさらに、上乗せし、より完成度を高くするための批評を受けるなどという事はしたくないのです。その代り、ヒントとして出される課題を、こなして、学びを深めることはやりたいわけで、毎月、それをこなしてくるから、先生に、眼をかけられることが、気に入らないのです。自分達がやらない部分で、ひいきをされていると、見ているから、気に入らないのです。そう言う雰囲気を読んで、みんなの総意で、川崎さんは、先生を独占しすぎると、言う事となって、居場所が無くなっていくのでした。

 ただ、その会で、思考をする別の女性がいて、それが高橋裕子さんでした。

 のちに、画廊るたんに、彼女が現れることがあって、色々、政治的な意味合いが出てきたので、それで、彼女をググってみることにしました。私が小関先生のゼミで出会った頃は、上智大学卒だと、聞いていましたが?

 少し、亀屋万年堂と、豊島屋の違いというところからは、離れますが、また戻ってきます。

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副題4、『画廊るたんに、彼女が現れた時の、オーナー、中島三枝子さんの顔つきから、30年ぶりに出会う、高橋裕子さんが、私より相当に、上位の社会的位置に存在することは分かった。ただし、裕子さんが、思いがけなく、礼儀正しく、丁寧な態度を取ったことなどが、何を表しているかを、考察する必要があると、感じて、その後、高橋裕子・名義で、グーグル検索をかけてみたのだった。すると、1985~6年当時は、唯、上智大学卒だと、聞いてだけの高橋裕子さんが、2015年には、学習院大学の教授であって、サントリー学芸賞も受賞していることを知った。なるほど、酒井忠康氏が、この画廊へ、彼女を、出現させることを、企図しましたね。高橋裕子さんが、受賞した時に、審査員の中に、酒井忠康氏がいたのでしょうと、私は考えました・・・・・と、一回過去に書いて居ます。しかし、本日は、更にそれを深めて書きましょう』

 本日は、2020-9-25日です。金曜日です。それは、たまたま、二週間に一回通って居るパソコン教室の日でもあります。それはだいたい、家を出る時間が決まって居ます。で、四週間前までは非常に大きく利用をされていました。私がブログ文を書いた、人間が、目の前に現れる事、現れる事、

 しかし、二週間前には現れませんでした。それは、四週前の、夜に、ありえない時間に、この山の、三人のご主人が帰ってきたのです。不通なら、その時間帯には、小町通りを通らない、男性が三人帰って来て、特に渡辺賢司と、ミスター平木が剣呑でした。唯ね。大人は仕方がないと思って居るのです。政治的に動くものだから。しかし、其の二時間前に、平木家の坊やが、無礼だったことは、大問題で、それを、基点にして、安倍総理大臣の、急なる辞任の真相を書いて居ます。

安倍総理辞任が、急に決定した謎は、平木家の坊やの無礼で解けるのだった+ 三井物産副社長+ 少年リンチ事件

2020-08-29 11:12:02 | 政治

 これが本当の処だったので、連中(日本を真実牛耳っている、CIAの日本人エージェント達)は、黙り込んだのです。しばらく静かでした。で、二週間前には、パソコン教室への往復時、誰も、目の前には、現れなかったのです。ところが本日は、富沢氏と安野夫人が目の前に現れました。両方とも、その表情や態度を見ると、自然な邂逅ではなくて、仕組まれて、(というのも命令を受けて)現れた可能性が高いです。

 でね、何度同じことを繰り返すのだろうと、鎌倉エージェント達(特に伊藤玄二郎)には、あきれ果てて居ます。彼本人が相当なビビりです。それは、鎌倉駅のトイレで、栗田玲子さんと、一緒に入ってきたときに、私が「栗田さん!」と、呼びかけたせいで、栗田さんが、個室に入ったまま、五分以上出て来なかったのです。それだけで、あいてが私だと、察した伊藤玄二郎が、20m向こうを走って逃げたことでも確かです。

 私は、筆先、鋭く、書き抜いている安野夫人が、現れても、富沢氏が現れても、全く動揺しないのです。というのも、彼等がやったことを書いて居るだけですし、悪辣な内容なので、大概の現象は、ミステリーとして作り上げられるのですが、必ず回答を得て、その裏側=解を書いて居るだけですから、何も卑下する必要はないのです。

 ただね。ここで、小さな挿入を入れます。:::::::::富沢氏は、曲がり角で、見通しのきかない場所で、急に現れました。その時に、私の方から相手がだれかは、わからないものの足だけ見えたので、反射的に、挨拶をしてしまったのです。ただし、富沢氏は、事前の計画、通りらしく、私に返礼をしませんでした。声を出す、挨拶を返しませでした。

 で、ここですが、石春産業の道路改修工事と絡めて、語らないといけないのですが、安野家の前には、道路に何か所も穴が開いているのです。わざと鏨か、斧で、開けたのではないかと思う穴が、コンクリートの中に、開いているのです。で、私は一度転んで、大けがをしました。それ以来、必ず、下を向いて、歩きます。で、足だけ見えた富沢氏を、富沢氏とも、思わず、瞬時に挨拶をしたのです。ぶつかりそうになったので、それも申し訳ないと、思ったし、私自身は、悪いことをやられなければ、神様みたいに、親切で、上品な人だからです。本日も外出先で、数人ととても楽しい、温かい会話を交わしましたよ。事前に私の悪口を聞いていない人は、みんな親切です。日本人には普通は悪い人はいないし、私は、いつも穏やかで、神様みたいな顔をしているからです。自分で、それを言っちゃあ、おしまいですが、色々な人から親切にされます。

 本日なんて、私以上に年齢が高く見える人から席を譲ってもらいました。固辞したのに、私の方は、ずっと座ってきたのだから、今度はあなたが座る番よ」と言われました。唯ね、こういうことを書くと、尾行が付いて誰と話したかを、探索されるので、書きたくないのですが、私は、ほとんどすべての人から、神様扱いを受けるのですよ。大切にされています。お金も名誉もないし、別にテレビに出る有名人でもないのに、すべての人から未知の人から、大切にされている人です。

 で、我が家の前の道路は、穴なんか開いていないのに、アジサイ畑欺罔事件という、我が家の私道部分だけが盗まれた証拠を隠滅しようとして、道路改修工事が行われました。斜面になっているので危ないのだそうですが、本当は、藤本禎子夫人が電動のこぎりで、真ん中に開けたラインを消すための工事だったのです。

 急に顔を上げてみた富沢氏は、本当に嫌な顔をして居ました。赤ら顔で、眼が吊り上がって居て、鬼みたい。彼は普通なら、いい顔の男性です。お子様も長男と三男は、それを継いでいて美形です。父君が慶応の教授で、ご自分は、栄光学園、慶応大学、三菱重工と、神奈川県民ならだれもがうらやむエリートコースをたどった人なのに、伊藤玄二郎などの発案で、動くときは鬼か、蛇かという顔をしているのです。それで、すぐ裏側がわかります。

 という様に、こういう陳腐な攻撃策が、復活したのです。安野夫人も、自分は、策略として、ここにいるのよという態度が見え見えですから。でもね、なぜ、こんなに陳腐で、使い古された策謀が、又復活したかというと、四つの理由があります。

 しかし、其の理由を書いて居ると、又、脇へそれすぎることになるし、それを書くことは、伊藤玄二郎や、石塚雅彦さんを、少しだけやっつけることにはなるでしょうが、しかしゾンビみたいに復活する人間ですから、ここでは、それには触れず、先へ進みます。

 この様にして、私に、わざと誰かと、遭遇する様に仕向ける、策略は、常に、行われているので、画廊るたんに、高橋裕子さんが現れた時は、すぐさま、自然な事ではないと、感じ入りました。しかし、その時点で、彼女について、大したことは書いて居ないと思います。で、高橋裕子さんが現れたのは、この章の、二重ガッコの中に書いた様に、むかし、co-league (仲間)だった人間が今では、はるかに出世して居て、 私が取り残されているのだろうと、思いました。そして、その高橋裕子さんから、私が犬のごとく、追い払われるのを楽しみにしようとして、中島三枝子さんは、虎視眈々だったのです。

 で、そういう事がすべて、読める私は、その日、帰宅して、グーグル検索をかけて、裕子さんが、サントリー学芸賞を受賞したことを知りました。

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副題5、『高橋裕子さんが、画廊るたんにし脚として表れたのは、酒井忠康氏の、教導であったと思って居る。本日、丁寧にサントリー学芸賞を、検索してみると、以前より丁寧な、サイトが、できていて、酒井氏は、高橋裕子さんよりも、二十年近く、前、39歳で、受賞しているので、裕子さん受賞時の審査員だったという事は、充分にあたって居る推測だと、思われる。で、酒井さんから依頼を受けたら、断れないと、思われるが、何故、画廊るたんで、待ち伏せしてほしいかの、理由は聞かされたと、思われ、

 したがって、裕子さんは、私についても、ネット検索をかけて、このブログのその当時の、数章を読んだと、推察される。このブログは、相当なインテリでないと理解が不可能であろうと、私は考えて居る。一見修飾語がないし、語彙が、単純なので、やさしく見えるが、文章の構成やら、筋立ては、きわめて複雑だから、文章を書くことを専門とする人にこそ、理解をされる文章だと、信じて居る。それで、その一人である、高橋裕子さんは、読んでみて、びっくりして、それで、30年前よりは、圧倒的に、丁寧な、態度に変化していたと、思われる。やはり学者ですなあ。準備を怠らない人だ。(微笑)』

 中島三枝子さんの方は、下町育ちのおきゃんなお嬢さんだと、見て居ます。普通の場合は親切です。しかし、彼女に私の悪口を吹き込んだのが、酒井氏、赤津侃氏、佐野ぬいさん、島田鮎子さん、又、版画芸術の誰かさんだったら、私を苛め抜こうと決意するでしょう。だから、彼女の態度を書くのは、それこそ、鎌倉エージェントを、分析する為なのですよ。で、中島三枝子さん本人は、別に問題とも、して居ません。いじめられてもいじめられても寄っていたでしょう。

 しかし、そういう時のあなたの顔とか態度って汚いわよ。そのうち、すべてが終わったら、丁寧に書きますからね。いつも、いつも不通にしていた方がいいわよと、言っておきましょう。もう、後の祭りだけど。

 サントリー学芸賞のサイトには、受賞作品と、その講評欄が、下部の、リンクとしてついて居ました。それを開けると、裕子さんの上智大学以降の、経歴を生まれた場所が出て居ました。豊島区ですって。豊島区って、東は、文京区で、東大が、あります。そこから、戦前だと、教育大、お茶の水女子大。日本女子大、早稲田大学(これは、南側新宿区ですが、豊島区からは、徒歩圏内でもある)学習院大学、立教大学と、七つも有名な大学があるのです。跡見や、拓殖大学も入れれば、合計9大学があります。中央大学理工学部も、自転車や、自動車だと、通勤圏内です。それで、10大学になります。父君は、どこかの教授だったと、推察します。でないと、文学部の博士課程など、進学を許可されないです。

 うちの父なんか絶対に理工学部ではないとだめだ。戦争になると文学部卒では食えないと、言い続けて居ました。で、私から見ると、彼女は、まず、文学部に進学できたというだけで、稼がなくてもいいと、言う、路線に乗っているお嬢様ですが、さらに、文学部のドクターコースに進んでいるのですから、『ああ、銀のさじを咥えて、生まれてきた人なのね』となります。

 父君がすでに、名声のある学者だったら、岩波書店から書物を出すのも容易だったでしょうし。高橋という姓が、結婚後の姓だったら、父君の名声は、わからないですけれど。東大文学部博士課程中退というのは、文学部の博士なんて、自宅で、研究しても同じことだし、(実験室や、実験装置が要らないので、)しかも、もし、結婚をしていたら、親からの研究費としての、支援をもらう事がいけないこととなったのでしょう。

 小関ゼミは、日曜日に開かれるし、月一回だから、奥様でも、来ることができたと思いますが、お子さんは、居なかったと、思います。あの当時、35,6歳でした。でも、生活臭のない人でした。かわいい感じで、鋭い質問を先生に投げかけて居ました。鋭いというよりも、先生の言葉を捕捉する様な質問です。先生が言わなかった部分を、他の出席者に教えてあげるという様な、言葉かけです。『なるほどねえ。学者だったんだ。あの頃から』と思います。

 私は、画家として、先生が創作の機微について触れた時に、それが、よりはっきりして、出席者全部にわかる様な、方向付けをしたのです。とても短いセンテンスで。しかも、回数は、裕子さんより、少なく。裕子さんは、長いセンテンスで、長い時間、話して、いて、しかも若くて、きれいなのだから、熊沢さんは、高橋裕子さんを目の敵にしたらよかったのに、年が、10歳ぐらい上の、私の方をターゲットにしていじめたのでした。

 高橋裕子さんがサントリー学芸賞を得た、1998年(Wikipediaは、間違って居ますよ。1999年と書いて居ますが)に、私は、表参道の、日傘雅水さんの所へ手相観をみてもらいに行って居て、「あなたは芸術家でよかった。これが専業主婦だったら、事件を起こす人になって居ます。ダブルで、金星帯があるから」と、言われています。一方で、同じ年に、裕子さんは学芸賞を受けて、海外派遣などの道も開かれたところかもしれません。

 私の方では、そんな事(いわゆるもて女であったという事)には、夢にも気がついて居ません。熊沢さんも、男性っぽいのだけれど、私と似ていて、内面では、ひどくフェミニンなのかもしれませんね。同類は、においをかぎ分けて、勝負に出ると、言う感じかな?

 実は熊沢さんからは、そこまでの事は気が付かなかったのですが、江見絹子さんから、それは、気が付きました。江見先生って、男性みたいな外見の人です。眼鏡をかけているし(私もそうですが)、一見すると、フェミニンではない。だけど荻野アンナさんみたいな、素晴らしい美形のお嬢さんが生まれたのは、ご主人が、美形で、お金持ちだからです。そう言うご主人と結婚できたのは、江見先生の方に得も言われぬフェロモンがあったからでしょう。

 その江見先生が、私を見る目が何とも言えない目なのです。一言でいえば、「気になるあいつ」っという目です。年下の後輩を見る目ではない。

 もう一度小関ゼミに戻ります。そこに導入してくれた山川栄子さんが、抜群の出世を遂げて居ます。で、早川重明さんなどを通じて、山川栄子さんと酒井忠康氏の間に接触があったかもしれません。

 すると小関ゼミで、筆頭者は、高橋裕子さんだと、彼女は言ったでしょう。で、酒井氏は、1998年に、サントリー賞を与えた縁で、高橋裕子さんを使えるから、画廊るたんで、ジャストインタイムで、出会う様に仕向けたのです。そして、1985,6年でも、私より、優越していた、高橋さんが、わかれていて、出会わないでいた、30年間で、サントリー学芸賞をもらい、学習院大学の教授となり、圧倒的に優越して居ました。

 ジャストインタイムで、出会う様にするためには、シロタ画廊から、連絡が行ったと、思います。山口みつ子さんが亡くなってからは、画廊巡りは、南側から、始めるのが常だったからです。

 シロタ画廊さんは、銀座一、頭がいいと、言って居ます。こういう行動を全部、私には、わからない様に、実行を、するところがあるからです。

 でもね、本日の私は、相当に満足をしているのです。彼女は、1949年生まれだそうです。すると、此の次にあう機会は、無いでしょう。二人の最後が、画廊るたんで、よかったです。裕子さんがやせすぎていたのは、心配だけれど、彼女は、充分に丁寧で、礼儀正しくて、品がよかったです。三十年間の間に、人間として成熟なさったと、言う事が私に、わかりました。そして、相変わらず、私よりも、実際以上、(15歳ぐらい)若く見え、明るい声でした。私の方では、唯、目を丸くしていて、何も話さなかったと、思いますよ。でも、彼女の、品の良い対応、礼儀正しい対応に、充分なる満足をしました。

 それで終わりたいところです。しかし、こういう風に書くと、又、次の機会があって、彼女が獰猛で、野蛮な目つきで、見つめてくるかもしれません。その日の中島三枝子さんみたいに。「変だぞ。どうして高橋さんは、犬の様に、川崎千恵子を扱わないのかしら?」と考えて居る目でした。あ、は、は。私は背中に目がついて居ると、言うほどの人間ですから、左側、70度の位置にいる彼女の、一挙手、一棟速は見逃しません。

 だってね、ご近所で、もっとも、人格が高いですよと、言って居るH夫人でさえ、私のお手紙をすっと、その日の内に、前田夫人に渡してしまうのですからね。(後注1)誰に対しても、油断ができません。安心して付き合えるのは、未知の人だけです。それと神様ね。あ、は、は。

税制の矛盾を突いた私の親書は敵方に渡って、銀行協会がQRの支払いを認めるというNHKnewsとなった。しかし誰が石井秀樹氏の土地を47坪一千万円で世話したのかが判った。其で良としたい

2020-09-23 15:03:02 | 政治

 これから先は、将来、続きを書きます。

 

 

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