銀座のうぐいすから

幸せに暮らす為には、何をどうしたら良い?を追求するのがここの目的です。それも具体的な事実を通じ下世話な言葉を使って表し、

水沢勉(その1)と、宮崎進

2010-07-31 03:09:32 | Weblog
 実はたった二時間ほど前にあげた、長いものが下にあります。その中で、どうして、美術界の大権威である、酒井忠康氏をばんばんけなしているのかの理由を書いてあります。しかし、どこからか、差し止めは入る可能性はあると考えていました。先週、NHKの日曜美術館の予告が、来週は宮崎進氏だと告げて、『あ、これがもしかしたら、差し止めではないかと』感じました。私は脅かしには強いのですが、一種の懐柔策には弱いのです。特に誠実で、親切な人は裏切ることができないというのは誰もがもっている道徳的規範ですし、私もそれを持っているつもりです。

 宮崎進氏ご自身にたいしては何も気兼ねはありません。一度不親切極まりない対応を受けています。多摩美の教授としては、信じがたい反応を示されたことがありました。秘書さんがご親切にも受け取って、お金まで払ってくださった私の本が、ひどい形で、つき返されてきたのです。これについての詳細な論考は今は省きますが、多分瀬島隆三氏からの示唆でしょう。シベリア抑留のご縁でね。

 でも、宮崎進先生の専属的画廊である、ユマニテ様からは親切な対応を受けているほうだと思いますので、ちょっと引っかかります。でも、普段の私に似合わず、それをつききってしまっているのは、下に書いたとおり、泥棒が失火の案さえ示唆していて、しかも公的工事がそれを、上回って、脅かしをさらに強めているような、場合には、こういう文章を書くのを、天はお許しくださると、思っているのです。攻撃用方針の中にその手の不統一さと安直さが、相手方にあるのは知っていて、だから、「おっちょこちょいだ」といつも言っているわけですが。

 ところで、ここで重要にして上品な人が、私の前に立ちはだかります。美術界で大きな実力を備えていながら、性格が優しいので、先生ではなくて、水沢さんと呼ばれている、水沢勉氏です。しかし私は氏を、必ず先生と呼びました。美術界で蔓延している先生という呼称を好きではないのですが、恩義を受けているという感覚を持っていたからです。

 それはメールエッセイに対して、相当数のご親切な感想をいただいていたからです。私は、自らの身辺に漂う怪しい雲行きに気がついてからは、「個人的なメールは受け取らない」と親しい間柄では宣言をしています。しかし、その宣言の前には大変大勢の人と個人的なやり取りがありました。が、その中でも質の高さと信頼関係の深さは、抜群のものだったのです。

 これは前提条件がありました。水沢先生と私は、直線距離にして、60メートルぐらいの近さで、ご近所同士として育ちあがったのです。60戸程度の小さな住宅地ですが、その中で、いわゆる名門校へ、子どもが進学する家として、お互いに認識があったでしょう。だから、『あの人は、知的に優秀だ』と認め合う雰囲気が、最初から、お互いの間にあったのです。

 でも、10才も年の差があるので、子ども時代からの付き合いではなくて、主に海外留学から帰ったときに、作品を見ていただくという形で、付き合いが始まり、美術作品に対しても高い評価をいただいています。他の美術評論家からも高い評価を受けましたが、それは、あとで別の日に書きます。
 実は美術評論家に何がしの文章をいただいたら御礼をするのが、この業界の慣わしです。でも、季節ごとにお菓子おりを送る程度で済ませていました。

 それは、お互い様だという認識があったのです。悪い言い方をすればゴッホにおけるガッシュ博士のような、一種の実験材料と私がなっているというわけですし、よい言い方をすれば、リルケ(詩人)とパウラ・モーダーゾーン・ベッカー(産褥が原因で、若くしてなくなった女流画家)の間に交わされた往復書簡のように、『結果としては、一種の芸術論ともなる』と考えていらっしゃると思いました。だから、将来は一冊の本となさるおつもりがあったと思います。

 たくさんの、短いが内容の深いメールの中で記憶に残っているのは、本を作る場合の編集者との関係について述べておられるものです。要旨ですが・・・・・

 「一冊の本を作る場合、著者と編集者の関係が、必ずしも万全のコミュニケーションが取れているとも限らないのです。しかし、この本のケースでは気持ちよく進行しました」と書いてあって、この場合の本とは、『この終わりのときにも』(思潮社)です。ウィーン世紀末美術について書かれた一種の美術評論ですが、読みやすくてしかもポエティックで、すばらしいご本だと感じました。

 このころの私は本作りの初心者で、苦闘のみぎりを尽くしていたころで、しかも専属編集者であるはずの本多隆彦さんと、決してスムーズではなかったので、暗闇に明かりがともったような感じがしました。

 でもね、さらに実態を述べますと、岩波で本が出るほどの水沢先生級の扱いは、どこの出版社でもしてもらえなかったはずですから、何も忠告をしてくれない、イコール何も編集者として責任を取ってくれない<<<社長としての忙しすぎる>>>本多さんでも、必死になってついていったほうが得だったでしょう。後で思えばそうです。私の方が世間知らずでした。あ、は、は。

 このご親切な水沢先生が、実は、酒井忠康氏の鎌倉の館長時代の部下です。しかも宮崎進氏の専属的美術評論家です。ですから勘の良すぎる私は、この番組を暗喩としての、文章の差し止め請求だとも感じます。

 それに対して、どうするつもりなのかは、この同じタイトルの後篇に書きましょう。一度午前零時から、三時までかかって結論まで入っているものを書いたのですが、ホワイトアウトで消えてしまいました。これは二度目として、書いたもので、叙情性もまるでなくて、即物的で、恥ずかしいものです。でも、体力の限界ですので、お許しくださいませ。

 また、個人的なやり取りを公開するのは、非礼のようでもありますが、すでにハッキングされきっていますので、この程度のものを公開した方が、却って、身を守るのです。いい加減な推察やら誤解を招かないで済みますので。別に礼節を忘れてこうしているわけでもありません。
 なお、下にたった五時間で更新してしまったものがありますので、良かったら、覗いてみてやってくださいませ。 2010年7月30日           雨宮 舜
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