副題0、『この章を書くにあたってのお断り』
前報ですが、書いた初日は、非常に気が楽でした。亡くなった方を書くのは、自由自在ですね。しかも有名人です。私は、黒澤明監督と、勝新太郎の、衝突は、黒澤明監督の方に、非があると、感じています。そこから、自分自身の、不遇を、こういう風に考えたらいいのだと、いう考えに達しています。そこを前報から、こっちへ移動をさせてくださいませ。~~~~~~~~~~~~~ で、この・・・・・番組【アナザーストーリー、黒澤明監督、VS 勝新太郎】を見た感想は、・・・・・「若い日に、名誉を得てしまった黒澤明監督は、却って不自由だったのですね」という事です。・・・・・そして、自分のことを、こう考えました。・・・・・私には名誉も社会的地位もない。でも、自由がある。何のといえば、精神の。私は誰に対しても、金銭的に、責任を負う立場にない。という事は、換言すれば、誰も、私を束縛するものが無い。これは、結構、幸せな事だ。非常にうれしい事だ。それに気が付かされた・・・・・と。 『私の一生とは、結構、ぜいたくな一生だったのかなあ』とも、気が付かされました。価値観の違いですが・・・・・まあ、創作の上では、自由が大切です。黒沢監督には黒沢組という家来陣(集団)が居た。それが、却って、重荷ではなかったのかなあ? そういうお取りまきがいるからこそ、自分が、【かつ新】に負ける状況は許されないと、お思いになったのではないかなあ。二人の衝突劇は、黒澤監督の方が狭量に見えますよ。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
副題1、『どっちが上なのかと、いう覇権争いと、いうか、マウンティングの問題で、周辺から尊敬をされている人物程、器を、大きくしなければいけないのだが、往々に、して、そうなっていない。学校の先生の器が小さいと、子供が大きな被害を受ける』 こういう事は、よくありがちです。私が最近書いている、担任の教師(鬼面冠者というあだ名だった)が、本間君という・・・・・特に体が小さい、だけど、ヴァイオリンは、1955年当時、小学生だけのコンクールでは、全国五位、以内に入っていた・・・・・を、苛め抜いたのは、本間君のお母さんと、ご自分(男ですよ)との間の上下関係に関して、何らかの、人に言えない、怒りがあったからだと、思います。【かつ新】も、無邪気なだけだったのでしょうが、本間君のお母さんも、自分が、それほどに、深く先生の怒りを買って居るなどと、まるで、気が付かない人だったのです。それと、学校から、たった、五分程度の距離に住んでいたので、しょっちゅう、学校に来ていたから、いけなかったのですね。本間君が、小学校時代の担任は、それが通る相手だったが、中学の先生は、音楽が好きな人だけに、却ってまずかったのです。本間君のお母さんは、戦前に音大を出ていたと仮定をすると、先生の方が声は、いいけれど、音大を出ていなくて、理科の教師であるという事で、何か、先生の、どこかを悪く刺激したのだと、思って居ます。本間君の、人生とか、生きる力を奪い取ったのですから、ひどいいじめでした。 黒沢監督って、ある時期から、サングラスを常に着用していますね。其れは、何かを恐れていたからだと、思います。いろいろ、心に負担がある人だったのです。偉い人ほど、引退時期を、ご自分で、決定しないといけません。特に黒沢組などという家来集団を抱えていてはね。 ~~~~~~~~~~~~~
副題2、『自分の方が、上だと、ずっと考えていたのに、突然にある日、年下の人間が、意外と能力が高くて、自分より、上だと、気が付いたりすると、たいていの人は、ドキッとしたり、ぞっとしたりするものだと、思う。しかし、その発見時より前の、人生経験が、どうであったかによって、その時の態度が、全く違ってくるものだろう』
・・・・・・・この・・・・・ずっと以前から、自分としては、相手を下だと、思っていた人間が、ある種のポイントで、自分より上だと、発見した時に、相手の、あれこれが、すべて、癪の種になるというのは、2002年ごろの、渡辺幸子さん(ICU卒の画家で、青木繁大賞を取っている女性。鎌倉在住で、フェリス卒。私より年上)と、私との間で、見られたことです。 其れは、詳しく書いた過去文章があるはずですが、見つかったら後注1として置いておきます。 あの時は、いじめられた私の方が、彼女の前から去りました。二人は、同じグループ展(同窓会展)に所属をしていたのですが、そこを、私の方が去ったのです。それで、彼女は、びっくりしてしまった模様ですよ。そういう決断を私がとるとは、思いもよらなかったみたいでね。 ~~~~~~~~~~~~~~
副題3『渡辺幸子さんは、そのトラブルの後で、ガレリアグラフィカで、個展をしている。特に青木繁大賞展は、賞金が、100万円であり、かつ、画廊で、企画展を催してもらえることになっている。その受賞展であっただろう。その前、シロタ画廊で、初個展をした時は、個展に向かうマナーや、システムについて、彼女は、私に助言を求めたほどだった。彼女は、結構、気の弱いところもある。それが、ご主人にとっては、かわいいところだと、思うが、・・・・・しかし、彼女が敵意を抱いて、攻撃してやろうと思った時に、すごい顔つきと、言葉遣いには、本当に驚くほどだ。そこに、JALのスチュワーデスだった過去がにじみ出ている。女の世界で、色々あったのだと、思う。初期のスチュワーデスは、女の職業としては、花形だったので、勝気で、優秀な女性が多く就業をしていて、したがって、その中での、競争心とか、マウンティングの、発露は、華々しかったのだと、思う。そういう世界で、展開する女性特有の行動様式と、私自身の生きる手法は全く違うのだけれど、彼女は、私が、どういう手法で生きていて、どういう考えを持っているかなど、全く理解をしていないと、思われる。 そのガレリアグラフィカでの個展を、彼女が、準備していたころだったと、思う。2005年ごろだったと思う。当時の私はニューヨークの美大の大学院で、美術理論も学んできていたし、メルマガ内で、英語で、美術評論も書いていたほどだから、多数の画廊を巡って、作品を見ていた。一つの画廊で、2つの展示室がある場合も、両方とも見ていた、そういう時期である。 で、ガレリアグラフィカの場合だけれど、1階と2階の2つの展示室があって、1階は、ある作家の個展をしていて、2階は、オーナー栗田玲子さんが、所有している有名な作家(特に外国の有名人)の作品が、アンソロジーというかポートフォリオというか、グループ展というか、という形で、展示してあり、そこもちゃんと見ていた時期だった。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~
副題4、『ガレリアグラフィカの2階に行ってみると、酒井忠康氏と、栗田玲子さんが、テーブルをはさんで、すでに座っていて、そこに、私がドアを開けてはいるという形になった。私が入ると、ほとんど同時に、渡辺幸子さんが入ってきて、部屋の中央に置いてある、4つの椅子に、座る様に、栗田さんが、勧めた。私は、既に、知り合って居るつもりだったが、挨拶さえしてもらえず、無論、椅子も勧められず、ものの見事に、恥をかかされた。これは、色々なところで、繰り返される心理的手法を用いた、いじめなのだけれど、この日ほど、見事なタイミングで、かつ見事な設定で、準備をされていた事は、無い。 栗田玲子さんが、教育大学の西洋史学科の卒業生であって、私の高校の同級生の、宇都宮和代さんと言う女性が、お茶大の西洋史学科の卒業である。二人はイタリア留学済みという事で、仲良しだと、思う。イタリア大使館主催の、留学済み同窓会などがあるだろうし。というわけで、伊藤玄二郎発、栗田玲子さん主導で、私は、2014年東京タワー下、豆腐屋うかいで、行われた、同期会で、上のケースよりももっと激しい形で、恥をかかされた。お歌を道具として使った形だったが。もし見つかったら、後注2として、以前に書いた文章を、置いておく。 勿論のこと、こっちのケース=お茶大付属高校の同期会の方=は、別のライン(=学習院のルート)もあるので、確定的なことは言えないのだけれど、当夜の電話から考えると、宇都宮さんに、栗田玲子さんが、助言をしてあの下品で、恐ろしい罠が設定をされたと、見ている。当日、11時から、二時まで、クラス会があり、三時から、五時まで、同じ、れすとらん内喫茶室で、二次会をした。その間、私は、いつも通り、リアルな生活では、喧嘩をしない主義だから、平静を貫いた。その上で、帰宅してから、夜の九時に、宇都宮さんに、電話をかけて、「栗田玲子さんって、知っている?」と、問い合わせた。すると、宇都宮さんが、「知らない」って、どなったのだ。これは、お茶大付属高校の卒業生の間ではありえないマナーであって、私は直観として、やはり、後ろに、栗田玲子さんが居たのだと、理解をした。こういうケースだけれど、普通の場合だったら、宇都宮さんは、「あら、知らないわよ。あなた、どうしてそういう事を聞くの?」と答えるだろう。しかし、当日の午後から、夕刻にかけての私の態度を見て、別の友達が、「白ちゃんは、すべてをわかっているよ」と、行ったと、思われる。この別の友達って、宇都宮さんと、ヒマラヤトレッキングをするほどに親しい人だ。 で、宇都宮さんは、私からの電話に上手に返答をするつもりだったと、思うが、こっちもそういう宇都宮さんの心がわかるので、単刀直入に、「栗田玲子さんって知っていると?」と、質問をしたのだった。罠本体のことは、一切ぬかして、最も大切な事だけを聞いた。だから、宇都宮さんは、想定外の、事態に直面して、パニックに陥ったのだった。だって、ひどいことだもの。すさまじい下品さだった。そんな罠をお茶大付属高校卒業生同士でしかけるなんて、ありえないというほどの、恐ろしい罠だった。私がここで、言って居ることが正しいからこそ、2016年と、2018年の同期会に、宇都宮さんも、その親友で、当夜、彼女に「白ちゃん(高校時代の私のあだ名)は、すべてを、わかっているわよ」と注意したであろう、別の友達も来ていない。 しかも今、電話ほかの、当時のエピソードを書いている最中に二度ほど、書いた文章が消えた。だから、これ=====栗田さんが、お茶大付属高校、36年卒のクラス会をめちゃくちゃにしていった======は正しい。 ところで、どういう手法で、文章を消すかというと、私には見えない形で、彼等にとって、都合の悪い部分を【青い色に、なる形】で、選択する。その次に、エンターキーを押すと、同時にdelete キー機能が働くように設定をして置いて、それら、数種の機能が、一つのアイコンで、利くようにしておくのだ。それで、簡単に誰にでも、私の文章を消すことが可能になる。 栗田玲子さんが、やったことは、ほかにもたくさんあるのだけれど、ここは、この二つのエピソードだけで、まとめたい。
上の方の、画廊内でのエピソードが、私狙いのいじめ用罠だった、というのは、その後、栗田さんが、壁の位置をずらして、応接セット部分が、外部から絵だけを見に来る人には、見えない形にした事で、正しい考察だと、わかって来る。 ~~~~~~~~~~~~~~~~~ 副題5、『さて、場面は変わって、鎌倉駅のトイレ(表駅側)に移る。しかも、そのトイレは、改修前で、壁が薄い状態であったころの話だ』
ここで、渡辺幸子さんと、2002年で、大トラブルが発生した、時点に戻ります。 その・・・場(大学同窓会展というグループ)を去る・・・という形は、反抗とか、抗議の形としては、結構、強い事なのですね。それでね、鎌倉駅のトイレの中で、しかも、夜の、10時半に、偶然に出会った栗田玲子さんから、「川崎さんって、怖い人だっていう評判よ」といわれることとなります。栗田玲子さんって、銀座の、有名画廊、ガレリアグラフィカのオーナーです。山本容子をお手持ち作家としている画廊です。
私は『ああ、裏で、渡辺幸子さんがいるわけですね』と思うわけです。しかも、目の前、30メートルの所を、走って逃げる伊藤玄二郎を発見したので、『なるほど、二人は銀座で、私をいじめる相談をしていたのですね。で、グリーン車の中でも、話し合ったが、話が尽きなくて、逗子に降りなくてはいけない栗田さんは、伊藤玄二郎に誘われて、鎌倉駅に降りたのでしょう。葉山に住んでいるのにね。既に、夜の10時半なのにね。栗田さんは、結婚をしていると聞いているけれど、大丈夫なのかしら? それほどに、遅く帰って?』などと、思うのです。
そして、トイレで、偶然出会った私を避けようとして、なかなか、個室から出てこなかったのでした。その思いは、むろん分かりましたよ。だけど、私の方は、ずっと、彼女が出てくるのを、待っていたのです。
だって、こういう機会こそ、神様のお恵みなのです。証拠捕まえちゃったと、いうわけですからね。最高の喜びです。
その間、伊藤玄二郎は、何事かを察して、男子トイレの方で、かたずをのみながら、待っていた模様です。そして、到頭、栗田玲子さんが、個室から出てきて、私と手を洗いながら、何事かを話しているのを壁越しに聞いて、栗田玲子さんが相手をしているのが、川崎千恵子だと、察して、私に出会うのを恐れて、走って逃げたのでした。怯懦の、人です。
私は背中を見せて、逃げて行く伊藤玄二郎を見ているうちに、何とも、言えない怒りが浮かんできて、珍しく、喧嘩という形にもっていきました。、東口のトイレから、改札口までの、30メートルぐらいの間ですがね。以下の様に、しかも、語気鋭く、言い放ったのです。怖い人だといわれたセリフに返答としてですが、「だって、人生経験を積んでいるのですもの、強くなるのは当たり前でしょう」っと。栗田玲子さんが、過去に積み上げた人生経験と、私が過去に、積み上げた人生経験のどっちが深くて、どっちのエピソードが、学びにつながったのか、等は、比較はできませんよ。私は、このブログに全部を書いていませんもの。
その上、美術系作家として、生きることもいじめられきっていて、道が狭まっているし、美術評論家として、生きる道も相当に、妨害をされているでしょう。大原光孝という人物が、創形美術学校の後輩、本田和博さんと、そっくりな画題で、しかし、できを比較をするとはるかに雑な絵を、アクリルで、しかも、ベニヤ板の上に描いて、中島千波さんなどの、ご支援を得て、春季院展に入選させたのも、私の美術評論家としての、立場を、からかってきた、仕組みでしょう? まだ、それは、軽い方で、無視できるのですが、
山口みつ子さんが、美術評論家の秋山祐徳太子よりも、私の方を上に置いて、それが、ギャラリー山口のオフィスに盗聴がかかっていたために、CIA側に入ってしまって、結果として、殺されてしまったケースなど、本当につらい事でした。
ここですが、最近、書いている手相観の第一人者、日傘雅水さんとも関係があるのです。彼女は、一種のお医者さんなのに、二回目とか三回目、ぐんぐん、意地悪っぽくなっていくのです。其れは、赤瀬川原平さんに、村松友視さんが、言いつけてね。そうなったと思います。村松友視さんは、尾辻克彦名義での、赤瀬川さんの、文章の方の支援者でした。村松さんの後ろというか、上流というかには、湯川有紀子さん(ICU卒で石塚雅彦夫人と親しい。中央公論新社で、婦人公論と、中央公論の編集長をした)が居て、讒言を、村松さんに、吹き込んだと、見ています。それを伝え聞いた、赤瀬川原平さんが、日傘さんに、私をいじめたり、からかったり【週刊女性紙上の記事の事】する様に、命令したのでしょう。赤瀬川さんは、雑誌太陽の特集号で、日傘さんに、苦境時代に救われたと、語っています。その赤瀬川さんと、【ライカの会】というのを作っていて、親しかった秋山祐徳太子は、もろ、CIA側人物で、しかも、対私用、攻撃者でした。それの証拠が、彼が晶文社から、自伝【ブリキ男】を出版していることでも証明をされます。この晶文社の件は、これまた、とても恐ろしい事へつながっていき、100万字ぐらい必要なので、今は、触れません。
みつ子さんは、画廊を閉鎖する予定だった、2010年1月31日の二週間も前に、飛び降り自殺をしたという事になっています。しかし、違いますよ。画廊を閉鎖して、これから、時間がフリーになるみつ子さんと、私が仲良くなると、私の力が強化されるものだから、みつ子さんを殺したのです。
彼女は、スタッフさんに、後始末を任せて、画廊閉鎖の予定日の、二週間も前に、自殺をする様な人ではないですよ。殺されたのです。薬を使ってです。部屋に数人で、待ち伏せしていてね。これは、私にとっては、たとえようもない衝撃でね。美術評論家としての、筆を折りました。
どうしてこれほどにいじめられたかというと、美術評論家って、美術館のスタッフとか、大学教授などの、ほかの仕事を持っている人以外は、売文業なのです。だから、どうしても惰性に陥るわけです。難しい語彙は、使うが、面白くないし、感動も与えません。そこへ、中学生程度の、語彙を使うが、本当に感動した作品しか、取り上げない私が、面白くて、人を引き込む文章を書き、しかも英語でも書けるし、お金はとらないしですから、旧来の、売文業的、美術評論家は上がったりになるわけです。だから、憎まれたり、いじめられたのですよ。
そこに戦後最大の、CIAエージェント、瀬島龍三一派は、乗っかかったのです。それが、井上ひさしが提唱している、9条の会の、美術部門である、美術9条の会の創設だったのです。そこを利用して、いじめられたのが、大きい弾圧用ラインでした。野見山暁次さんも、渡辺豊重さんも、そこの委員をしています。
しかし、その二つの仕事を、奪われたからこそ、私は、ほかの人が書けない様な、真実を書く、人間になったのですよ。美術界から追い出されたからこそ、自由なのです。ありとあらゆるいじめを受けたからこそ、自由になり、美術界のお偉いさんと、対等になったのです。人間としては、すべての、日本人は、対等です。憲法に保障をされているでしょう。違いますか?
元に戻ります。ぐるーぷICU展を出たころに戻ります。渡辺幸子さんの嫉妬のせいで、苛め抜かれたので、出た方がいいと、判断しました。ただ、そのグループの中に、石塚雅彦さんが、含まれていたので、そこを出たことで、CIAは、石塚雅彦 ⇒ 古村浩三ラインを使いやすくなったのだと、思います。そういう意味では、損でしたね。政治的な意味ではね。日動画廊、笠間美術館のオーナーだった、長谷川智恵子女史が、茨城県教育委員会で、「障害児は、妊娠中の検査で、わかるのだから、中絶を、勧めるべきだ。その方が茨城県は、予算削減ができる」という発言をしたのなど、まさしく、石塚さんが、かかわっていると、思うし、
スタップ細胞疑惑もそうですよね。日大アメフト問題もそうですね。
でもね、私は、既に、損得は計算しない人間になっていますから、『それは、それとして、却って、自由自在に、石塚さんについて描く(=書く)ことができるようになって、よかったわ』と、思って居るのです。
でもね、この、・・・・・目下だと、思って居た存在が、実は、自分より頭がいい・・・・・と、発見した時の、いやな感じにおぼれているのが、各地で、発見される、親側の、子への虐待です。イギリス制作のドキュメンタリー番組、【地球ドラマチック、NHK 教育テレビ、土曜日放映】を、見ていると、人間って、赤ちゃんの時から賢いのですよ。すべて、わかっているのです。 ちいさいのに、「もう許してください」と書いて、殺された結愛ちゃんなんて、まさにその典型で、あの父親は、途中から、結愛ちゃんに追い詰められていたのだと、思います。
まあ、そんなことを、思ったというわけです。ただし、私が、黒澤映画の、対象例として挙げた三本の映画の様に、真実味のある映画って、脚本家とか、監督の実体験が反映しているので、何本も同じレベルの作品を生み出すのは、難しいでしょう。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます