副題1、『皆様は、ケストナーの【飛ぶ教室】は、ご存じだと思います。私は、今、考えて、見て、日本での翻訳本の出版時期とは別の順序ですが、ケストナーの著作####罫線以下に置いている)の中で5冊ほど読んでいます。傑作は飛ぶ教室で、日本で今、【飛ぶ教室】という雑誌が出版されているほどです。でもね。忘れがたいのは、【私が子供だった頃】です。で、私とし手は、これが、子供向けの本の中に含まれているのは、徹底的に解せないです。このwikipedia を、書いている人は、それを読んでおらず、タイトルだけを見て、子供向けに分類したのではないかしら?
それと、父親の職業が、カバン職人だと書いてありますが、本を読むと違います。靴修理工だったのです。
それと、
母の結婚相手は、ケストナーの本当の父親ではなくて、
(同じく、ウィキペディアには、)
本当の父親はユダヤ人の主治医エミール・ツィンマーマン (Emil Zimmermann (1864–1953)) 博士で、不倫の子供であった、と言われているがケストナー本人はそれについて言及しておらず、また、その根拠の大多数が伝聞であることから、いまだ結論は出ていない。
と、ありますが、【私が子供だった頃】には、そんな話は、出てこなかったと思います。
ともかく、私はそれを買って読んだという記憶はあるのですが、今、自宅にはないみたいです。一度エッセーで書いているからでしょう。だから盗まれました。
私は、この本で、もっと、感動したところは、『自分は幼いころ、母がいないと困るし、母が自分をとてもかわいがってくれていたので、母の味方をして、父親を拒否していたが、それは、本当に申し訳ないことだった。今は、謝罪したいと思っている』と、書いているところです。
Wikipediaにも、別かれてドレスデンに暮らしている母の晩年を東ドイツが、厚遇したと書いてありますが、父親の消息は、書いてありません。
しかし、幼い僕が、母の方へ、寄り添って、一緒になって父を無視していたのは、本当に申し訳なかったと、書いているところが、ケストナーに傑作飛ぶ教室が生まれた、神の恩寵だと思っています。その心根が素晴らしいです。
そういう意味では、井の頭線【明大前駅】そばに100坪はありそうな広い土地を残してくれて、画廊または美術館経営の礎石を与えてくれた養父母には、全く感謝の言葉を残していない、窪島誠一郎氏には、大いに疑問を持ちます。生活苦の挙句自分を捨てた水上勉氏には、その後、じつのちちだと判明し、その日以来、べたべたと、引っ付いて慕って行っているのに、その人のおかげで、大人になることができた養父母に対する真心を表明していないのは、嫌悪感をもちます。この間、全く偶然に、子供時代の読書感想文ノートを発見したのです。リア王とか、何か、名作の子供向けストーリー本を小学生時代読んでいるのですが(1948~1949ごろです)著者は、水上勉とあったので、このころ、窪島誠一郎を捨てた時期に当たるのだと思います。
ただね、養父が、靴修理工だったのは、【明大前】駅そばという地の利も悪いのです。簡単に渋谷や、新宿に出られますね。そういう地域に住んでいる中流階級の人が、一軒だけ存在している駅そば靴屋で、新しい靴を買いますか。むろん買いません。だから、修理工をするしかないのです。
ところで、日本では、皮を扱う職業は、もしかしたら部落差別を思い出させるので、それもあって、特に養父母と決別したかったのだろうか? ただ、養父母を大切に思った方が、彼の周辺が明るくなると思います。
ケストナーも、母が不倫の子供だったら、顔や、頭脳で靴修理工の父親の子供ではないと、15歳ぐらいの時に気が付いたかもしれないのですが、大人になってから、・・・・・母と一緒になって幼いころに父を無視したのは、本当に申し訳なかった・・・・・といっています。これが、ケストナーを救っています。
この話とは別に、お茶大付属高校時代に、高校生になっても父をひどく毛嫌いしている級友が居ました。父親は母親と仲が悪くて、お金を家に入れないのだそうです。だけど、彼女から、修学旅行中にも、また、2005年にも二度目として、したたかにいじめられた私は、彼女のお母さんにも問題があったのだと、判断をしています。
もっとも残酷で、ひどいのは、いわさきちひろです。いわさきひちろは、あまり、お顔ができれいではないです。しかも、男性の数が少なくなっている時期の適齢期を迎えています。1918年生まれなので、1938年から、1942年ごろが結婚適齢期です。その当時は、よい家の娘は、結婚適齢期に結婚するものだと、決められていたからです。1938年から、1942年が、彼女の結婚適齢期ですが、お見合いが成立しなかったので、結局入り婿としての、養子を迎えます。しかも、20歳の時に。両親は、彼女のお顔が、きれいではないので焦ったと思われます。
、大日本帝国陸軍建築技師である岩崎正勝と、女学校の教師である文江との間に生まれたとありますので、お婿さんは、陸軍で、父の部下だった青年でしょう。だから、お婿さんの方もこの結婚は断れなかったのです。昔は、職業上の上下関係は絶対だし、・・・‥だけど、お母さんは、ちひろが20歳で結婚するころ、第六高等女学校教師をしています。多分奈良女子大か、お茶大出身です。
皆さんは、【寅に翼】をご覧になりましたか? 法律の世界で、女性差別に出会う、主人公は、せっかく弁護士になったのに、仕事の依頼がないことに愕然とします。理由を探るうちに、25歳を過ぎても未婚の女性は、社会的に信用がないからだと、気が付きます。そこで、慌ててお見合いに入るわけですが、相手が見つかりません。すると、それを見ていた階段下の狭いスペースを居住空間として与えられていた、書生が、お婿さんになると、彼の方から名乗りを上げてくれます。この役をした仲野太賀が5日徹子の部屋に出るそうです。
ドラマと、実際は違うかもしれません。三淵嘉子さんの両親の方から彼に頼んだのかもしれません。しかし、夫婦仲は、大変良かった模様です。そして、短い間にお子様を、一人残してお婿さんは戦死します。
一方、いわさきちひろは、お婿さんと一緒に満州にわたりますが、一年ぐらいで、お婿さんは、自殺をします。多分逃げ場がなかったのです。きっとサラリーマンとして、軍人稼業に、入っていたのでしょうが、夕飯に帰ってみるとお膳には、自分一人用のご飯が置かれていて、一番最初の日に、「私は、用事がありますので、一人で、食べておいてください」とでも、置手紙をしておけば、「夫は理解をするはずだ」とちひろは考えて、満州時代ずっと、一人で、ご飯を食べさせていたのだと思います。会話もむろんなかったのです。
わがまま一杯に育てられていたお嬢様であったちひろは、生涯、このことについては反省の言葉を出していません。そして、松本善明と結婚して、お子さんが生まれると、(ということはセックスができる人なのですが、初婚の相手とはしなかったわけです。相手を峻別する人なのです)、非常に深い愛情を示します。その偏波は、私には、ちょっと理解できません。
いわさき家の両親の態度は、理解ができます。戦後、両親は開拓農民として、長野県に移住をします。これは、お父さんは建築家といえども、陸軍の人なので、当然パージ(排除の対象となること)を受けて、いい仕事につけません。でも、お母さんの方は、第六高女(現在の三田高校)の先生に、すでに、就業しているので、一家の家計をささえるためには、やめない方がいいのです。が、やはり、やめて、長野県へ引っ込みます。これは、お婿さんの自殺が大きいと思います。だから、自分で、自分を罰するという意味で、引退蟄居したと思います。
ただ、その時開拓した農地が、いわさきちひろ美術館になっているそうですから、月日の経過とは、恐ろしいものです。または、ちひろの両親にとっては、「人間万事塞翁が馬だねえ」と、死後の世界で、かたりあっていることでしょう。「
ところで、私は昔から、いわさきちひろの絵がダメでした。この初婚の相手の自殺というエピソードを知る前からです。夫と家族のために大量の絵を描かなければならず、一種の時短の意味で発明した目の描き方だそうですが、永遠の虚無というか何か、空恐ろしいものを感じて、受容できなかったのです。そうだったのか?と、今なら、わかります。入り婿さんは、ちひろの指先を通じて描かれる、あの黒い目となり、深い深い絶望を見る人に伝えているのです。すごい、すごい、圧迫された魂は、天空を飛ぶのです。
なお、いわさきちひろは、色彩感覚としては、素晴らしいものを持っている人です。今調べたら、窓際のトットちゃんは、全世界で、2500万部が売れて、これは、まだ、破られていない記録だそうです。そのヒットにいわさき千尋が大きく役立っていると、書いてあります。ある個人の自叙伝としての記録ですが。しかし、私は買っていない。また、図書館で読んだこともない。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます