ようこそ里山へ 茨城笠間・青葉って永遠

茨城県笠間市。観光と陶芸の町の知られざる宝。穏やかな里山と田園は心の原風景。庭と山川草木、体感する旬の言の葉たち。

土手か土塁か太郎次郎でした

2016-03-19 07:01:42 | わが里の飯田城址ほか中世城館の記
 またまた飯田城址、泥田堀の入り口より、城郭の藪を仰ぎつつ。
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昨日の続き、いわゆる東沢探訪の続報。
東沢の東には、ご近所さんのお住まいもありますが。
その背後は、出城の南端部分ですから、やはり城郭チックな景観。



ずんずん沢を進んだところで、長靴に履き替え忘れたことに気付きましたが。
足元は、かなり安全です。
というのも、奥に山の神さんがましまし、地域の先輩方が毎年刈っているのです。



感謝の心で脇道にそれましたが、ソレもまた良し人生劇場。
なんと、このあたり一帯にも、棚状の人工らしき地盤が累々。
棚田ではありませんが、確かに棚林であることは確か。



棚林なる言葉が、あるかどうかは別といたしましても、やはり。
その入り口もまた、典型的な棚林です。
このあたりは、南北に長い、出城エリアの中ほどでしょうか。



棚林に感謝しつつ、対岸の本城址を望めば。
アズマネザサさんの中から、土塁状の土手さんの尻尾が見えました。
早速、ちょっと筆を入れてみましょう。



こんなふうに、ちょっと細めの土手ですが。
それでも一応、先輩方の軽トラUターンには、十分な広さです。
これをちょっと右に行けば、昨日の記事の撮影ポイントです。



こんな感じで。
昨日の広い土塁状の構造物を、横から撮ってみましたが、斜線はのり面です。
峰沿いの道から、対岸に向かって直角に出ていることがよくわかります。



二つの土手をば、一望するとこんな感じですが、ちょっとぼけました。
これに関しては、城址カリスマさんのご感想を承り(→こちら)。
青葉も同感でございますが、末尾に私的コメントを追記いたします。



それにしても、山の神さんを大切にされている、里の先輩方は有り難い。
お陰様で、本城本丸対岸まですんなりと至り、感謝の心で仰ぎました。
大規模と騒いでいる割には、案外、本丸さんは可愛い感じでしたが。



後ろを振り向けば、やはりここにも。
出城址かもしれない棚林シリーズさんが、ご健在で。
ますます底知れない、城址の慈愛を感じました。
【沢の二重土手に関する私見】
 この二重土手については、幼少のころから記憶にございます。沢の田んぼが続く途中に、何ゆえに土手が二つもあるのかと、疑問に思っておりました。後年、その二つの間には、昔は用水池があったと聞きましたが、城址との関連で、土塁かもしれないという思いもありました。それは、ここと似た環境で、笠間城址の北の麓、関場付近で土塁とされる遺構を見たとき以来の疑問です。さらに今回、沢を越えた東側が、実は飯田城の出城だったと知り、さらに疑問は深みにはまりました。
 一方、用水池についても一考の余地はあります。必ずしも、谷津田の最上流部にあるとは限らないようで、沢の合流するところなどに設置される事例も、市内日草場地区であったようです。飯田城址におきましても、この少し上で、沢が三本合流しております。
 いずれにしても、昔はすべて、掘削も運搬も基本は人力ですから、盛土用土の供給源が直近であることは当然でしょう。隣接の棚状の林付近は、このあたりでは表土が深く掘りやすそうでした。そこいら一帯を棚状に掘り残して、残土を土手に使用したと見るのが自然かと。ちなみに棚の一番ふもとには、美味しい茶園さんが今も一枚健在です。
 但し、用水池説をとれば、その上流部分の方が広い土手であるという点に、少々疑問もあり。隣接する本城址と出城址の現場を精査すれば、その真相に近づけるかもしれませんが。いずれにしても、大規模な要塞に挟まれるように、二本の土手は今もなお、沢の真ん中にて仁王立ちしております。
 結局、当面の拙ブログでは、上流の広い土手を、姓は沢、名は土手太郎、下流側の狭いほうの弟分を、沢土手次郎と称させて頂きつつ。本日の結論とさせて頂きます。
【関連記事】→その①その②
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