宗教法人 鈴川キリスト教会

わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。

2009年4月19日礼拝メッセージ要旨

2009年04月26日 | 礼拝メッセージ
   ~キリストの恵みと平安~
                      鈴川キリスト教会顧問牧師 川崎 廣
                      聖書エペソ1:1-2


1,あいさつ
 このたび、これまで顧問牧師として奉仕してくださった、鳥居完次師に替わって、私が顧問牧師として奉仕させていただくことになりました。これまで奉仕してくださった鳥居先生のご奉仕に心から感謝いたします。
 鈴川キリスト教会は、約40年ほど前に、私が山形第一聖書場バプテスト教会の牧師をしていた頃に、その教会の献堂20周年記念事業の一つとして開拓が始まった教会です。私は、中学生の時からこの地域に住み、また、高校生の時に主を信じる信仰に導かれましたから、この地域に対する伝道の重荷を与えられていました。そこで、この地域への開拓に導かれた訳ですが、このたび再びこの教会の方々と主に、主のすばらしい福音をこの地域の方々にお伝えする奉仕に加わることができ心から感謝しております。私は、原則として毎月1回の説教のご奉仕と、役員会などに参加させていただきますが、皆さんと共にこの教会の働きを担って行きたいと思っています。そこで、始めに、エペソ人への手紙の中から「キリストの教会」について学んで行きたいと思います。


2,パウロのあいさつ
・「神のみこころによる」
 エペソ人への手紙は、主としてすでに信仰を持って生活している方々に向けてかかれた手紙です。そして、教会についての基本的なことが語られている書簡です。
 使徒パウロがこの書簡を、ローマの獄中から書きましたが、最初の自己紹介を見てみましょう。「神のみこころによるキリスト・イエスの使徒パウロ」と書いています。パウロが、キリスト・イエスの使徒として奉仕しているのは、人間的な熱心や願いによるのではなく、「神のみこころによる」と語っています。
 クリスチャンが、日々の生活の中で確信を持った生き方をするためには、このパウロの生活を見習うことが必要です。私たちは、いろいろな職業を持ちまた、家庭や社会での働きの責任があります。その職業や働きについてどのように考えているでしょうか。たまたま自分の気に入った仕事だから、その職業に就いているのでしょうか。あるいは、なんとなくそのよになっているからですか。私たちのどんな仕事や、働きについてもこれは「神のみこころによる」とはっきり言うことができるなら、確信に満ちた生活ができるようになります。そして、うれしいこともつらいことも、それを乗り切ることができる原動力になるのです。
・「キリスト・イエスにある忠実な聖徒」
 パウロはこの手紙の受取人を「キリスト・イエスにある忠実なエペソの聖徒たち」と呼びかけています。主イエス様を信じているクリスチャンは、「聖徒」と呼ばれています。これは、これはキリストを信じている人は、神様に付くものとして別にとっておかれた存在だと言うことです。私たちも、主を信じて生活しています。もしパウロがいま、鈴川キリスト教会の皆さんに手紙を書くとしたらやはり「キリスト・イエスにある忠実な鈴川の聖徒たちへ」と書いてもらえるでしょうか。私は、必ずそのように書いていただけると思っています。
・「恵みと平安があるように」
 あいさつに続いて、パウロの祈りが書かれています。それは「私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があなたがたの上にありますように。」という祈りです。「恵みと平安がありますように」いう祈りはパウロがよく祈った言葉ですが、これは、初代教会のクリスチャンの独特の挨拶でした。ユダヤの社会で「シャローム」という挨拶をすることは、よく知られています。「シャローム」は「平安があるように」という意味ですが、パウロはこの挨拶に「恵み」という言葉を加えて、クリスチャンの挨拶の言葉にしています。「恵み」とは、受ける資格のない者が受け取ることです。私たちは本来受け取る資格のないキリストの救いを、ただ神の恵みとキリストの愛のゆえに受け取り生きています。このあいさつの言葉は、私たちの生活のもっとも基本的なところに、「私たちの父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安があるように」と祈るところから始まっているのです。日々の生活の中でいつもキリストの十字架の恵みと愛を覚えていることは、すばらしいことであり、大切なことです。


 

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2009年3月29日礼拝メッセージ要旨

2009年04月11日 | 礼拝メッセージ
~永遠に生きる存在として~
    <伝道3:11>
                牧師 鳥居 完次  
 “永遠に生きる存在として人は造られている”とは、なんと壮大なテーマであろうか。

 1.神が私たちに与えられた「永遠」とは――すべての人に与えられている「永遠」である。「神はまた、人の心に永遠を与えられた」(伝3:11)のみことばには、神が私たち人間を永遠に生きる存在として特別に造られたというメッセージが込められている。さらに、この「永遠」は本来すばらしいものとして与えられていたことが分かる。それこそ「永遠のいのち」に与ることができるというものであった。しかし、私たち人間は、この「永遠のいのち」の源である創造主・まことの神から離れてしまった(罪)故に、本来与えられていたはずの「永遠のいのち」を失ってしまった。そして、「永遠の死」を招いてしまった。しかしながら、神はそんな罪人の私たちに、キリストの十字架と復活の贖いにより、「永遠の死」から「永遠のいのち」に移ることができる道を用意して下さったのである(ヨハネ3:16)。

 2.神が与えてくださる「永遠」に対して、どのように応答すべきか――私たちは、「永遠(のいのち)」というテーマをもっと深く考える必要がある。それには、「イエス・キリストを知ること」である(ヨハネ17:3)。つまり、「永遠(のいのち)」について深く知ることは、イエス・キリストがどういうお方であるかを深く知ることなのである。私たちは、日々何かと忙しさに埋没して、「永遠」というテーマを深く考える余裕のない生活をしている。だからこそ、私たちは日毎の個人礼拝や週毎の主日礼拝でのイエス・キリストとの交わりを通して、永遠(のいのち)の素晴らしさをもっともっと深く覚える者となっていきたい。


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