宗教法人 鈴川キリスト教会

わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。

2009年1月18日礼拝メッセージ

2009年01月25日 | 礼拝メッセージ
~2009年1月18日礼拝メッセージ要旨~
       
いのちの木を食せる幸い <黙示録22:1~15>
牧師 鳥居 完次           
 「天国」とは、「いのち」があふれているところである。そこには「いのちの木」があり、その実を自由に食することができる幸いがここ(黙示録22章)に記されている。

 1.「いのちの木」を食せる幸い。実はこの木は元々エデンの園にあって、人はその実を自由に食せる権利があった。しかし、人は罪を犯したことによってこの「いのちの木」から遠ざけられた。が、しかし、この天の都(天国)においては、信じる者には再びこの「いのちの木」に近づき、食せる幸いが与えられている。
  それは、ただ一言「もはや、のろわれるものは何もない」<3>の説明によって、すべてが語られている。何という祝福であろうか。

 2.今の(この地上における)私たちにとって、「いのちの木」を食せる幸いとは何か。確かに今、本物の「いのちの木」を完全な形で食することはできない。 しかし、神はもう既に、私たちの元にその「いのちの木」を届けてくださったのである。「エッサイの根株から新芽が生え、その根から若枝が出て実を結ぶ。」<イザヤ11:1>とイザヤが預言した通り、確かに2000年前、救い主イエス・キリストがこの世に来られ、罪人の私たちを贖うために主ご自身がのろわれた者となって十字架にかかって死なれた。

 そして、三日目に復活されたことによって、永遠のいのちに至る道を用意してくださった。その意味で、今やこの「いのちの木」は、神のことばが結実した「聖書」によって私たちにもたらされているのである。それ故に、それを日々食することができる幸いに勝るものはない。

「知恵は、これを堅く握る者には、いのちの木である。これをつかんでいる者は幸いである。」<箴3:18>


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礼拝メッセージ

2009年01月01日 | 礼拝メッセージ
2008年12月21日     クリスマス礼拝メッセージ要約

                          牧師  紺野 真和 
 「主の贈りもの」 (ローマ6章23節)

 夏目漱石の小説「こころ」の中に「あなたは死という事実をまだ、まじめに考えたことがありませんね。」という言葉がある。
 それを読んだ時に、自分は自分の死についてどれだけ真剣に考えてきたかと思わされた。
死ぬかもしれないという恐ろしい経験をした時、一瞬死と向き合うが、それっきりで後は何十年も生きられると考えている。
 他の人は死ぬけれども、自分は死なないという不思議な信仰をもっていた。しかし、死を免れる人は誰もいない。死は必ず訪れる。それも恐らく突然。その死は、愛する家族を引き裂き、死後の世界の入り口である故に、私たちにとって大問題である。従って私達は真剣に死の事を考えていく必要がある。
 以前、私は、多くの方々の死に直面した時、やりきれない気持ち、悔しさ、悲しみで溢れかえったことがある。私の心の底からどうして死ななければならないのかという強い思いが出てきた。どうして死ななければならないのか。聖書はその理由を語る。
 「罪から来る報酬は死です。」と。死は私たちの罪に対する神様の裁きである。しかし聖書はそこで終わらない。「神の下さる賜物は、私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです」と続く。イエス様は、私たちの身代わりに十字架で神の裁きを受けてくださった。人が自分の罪の故に神の裁きを受けなくても良い道を開いてくださった。
 信じる者にはその恵みが与えられる。しかし信じる者も死ぬ。どういうことなのか。Ⅰコリント15章には、再臨の時の復活のことが記されている。そこには、信者が朽ちるからだから不死の体に復活させていただくための死が記されている。私達は、愛する人と永遠に肉体をもって生きられるための朽ちない体を持つために、今の体が一度死ななければならない。
 信じる者にとって死は積極的な意味を持つようになった。また十字架によって、死は魂にとっても天国の門になった。 主は私たちの死を解決するために来られた。


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