ヘブル人への手紙9:1〜28
ヘブル人への手紙9章には、幕屋と聖所の問題が取り上げられています。荒野に建てられた幕屋については、出エジプト記25章〜31章と35章〜40章にくわしく書かれています。
1,幕屋について(1〜10節)
・幕屋全体は、幕屋内の外庭と聖所、至聖所の3部分からなっていました。
・一般のイスラエル人は幕屋の庭の入り口のところまでしか近づけなかったが、
・祭司とレビ人は幕屋の外庭に入ることが出来ました。
・祭司だけが聖所に入ることが出来ました。
・大祭司だけが年に一度、贖いの日に至聖所に入ることが許されていました。
(1)、「第二の垂れ幕」の意味は、人が神の御前に近づく道は、まだ完全には開かれていないことを示していた。
(2)、地上の聖所は、天にある聖所の「写しと影」「今の時を示す比喩」なのです。
2,すでに実現したすばらしい事柄(11〜22節)
・それはイエス・キリストの贖いのみわざです。
(1) 人の手で造ったものでない、完全な幕屋を通り(9:11)
(2) ご自分の血によって、ただ一度だけ聖所に入り(9:12)
(3) 永遠の贖いを成し遂げられました。
・贖いとは、とらわれの状態にある者を、代償を支払って自由にすることです。
(1) 律法との関係で言われているキリストの贖い。キリストは私たちのために、私たちに代わってご自身を律法のもとに置き、律法の要求を完全に守られたので、人間を儀式律法の束縛や行いの律法の束縛から自由にして下さいました。
(2) 罪との関係で言われているキリストの贖い。キリストはご自分のいのちを代償として差し出して下さり、私たちが受けるべき罪の刑罰を代わって負われ、私たちを罪責から解放してくださったのです。また、キリストは死という代償を通して、私たちを実際に罪の力から解放して下さるのです。
(3) 心をきよめて下さる。イエス様のいけにえは、人の心をその内側から根本的にきよめて下さいます。
(4) 生ける神に仕える者として下さる。キリストの十字架は、堅い罪の心を完全に打ち砕き、私たちを、死んだ行いから離れさせ、生ける真の神に奉仕する者に造りかえてくださるのです。それは負債の重圧から解き放たれた生活であると同時に、勝利の生活です。
・新しい契約もイエス・キリストの十字架の死によって初めて成立し、私たちはそのことによって、永遠の資産の約束を受けるのです。
・流された血の重要性
(1) 初めの契約は、血によって結ばれ成立しました。モーセは、契約の書にも民全体にも血を振りかけました。これは、民と契約の書の両方が血の印を帯びていたことを示しています。また、イエス様は最後の晩餐で、杯を取り十字架の死を示しながら、「これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。」言われました。
(2) 幕屋は血によってきよめられました。イエス様のいけにえの死とキリストの血なしには、罪の赦しと罪のきよめはありません。
3,ただ一度ささげられた永遠のいけにえ(23〜28節)
・キリストはただ一度だけ、世々の終わりに、ご自分をいけにえとして罪を取り除くために現れてくださいました。(26節)
(1) キリストは永遠の神の御子であり、歴史に縛られず、歴史を超越しています。また、天にある永遠の大祭司として、何時の時代にも生きてとりなしをされる存在です。キリストは常に今、ここにおられる方です。しかし、十字架の出来事は、歴史上実際にあった、完了した出来事なのです。
(2) キリストのいけにえは、繰り返される必要のない、最終的、究極的なものです。
(3) キリストのいけにえは、後にも先にもない唯一無二の神のわざです。
・一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている人間に、ご自分をいけにえとして罪を取り除くために現れて下さり、多くの人の罪を負うために一度ご自分を献げられた主は、二度目には、ご自分を待ち望んでいる人々の救いのために現れて下さるのです。
「より優れた聖所」
鈴川キリスト教会牧師
川崎 廣
ヘブル人への手紙9章には、幕屋と聖所の問題が取り上げられています。荒野に建てられた幕屋については、出エジプト記25章〜31章と35章〜40章にくわしく書かれています。
1,幕屋について(1〜10節)
・幕屋全体は、幕屋内の外庭と聖所、至聖所の3部分からなっていました。
・一般のイスラエル人は幕屋の庭の入り口のところまでしか近づけなかったが、
・祭司とレビ人は幕屋の外庭に入ることが出来ました。
・祭司だけが聖所に入ることが出来ました。
・大祭司だけが年に一度、贖いの日に至聖所に入ることが許されていました。
(1)、「第二の垂れ幕」の意味は、人が神の御前に近づく道は、まだ完全には開かれていないことを示していた。
(2)、地上の聖所は、天にある聖所の「写しと影」「今の時を示す比喩」なのです。
2,すでに実現したすばらしい事柄(11〜22節)
・それはイエス・キリストの贖いのみわざです。
(1) 人の手で造ったものでない、完全な幕屋を通り(9:11)
(2) ご自分の血によって、ただ一度だけ聖所に入り(9:12)
(3) 永遠の贖いを成し遂げられました。
・贖いとは、とらわれの状態にある者を、代償を支払って自由にすることです。
(1) 律法との関係で言われているキリストの贖い。キリストは私たちのために、私たちに代わってご自身を律法のもとに置き、律法の要求を完全に守られたので、人間を儀式律法の束縛や行いの律法の束縛から自由にして下さいました。
(2) 罪との関係で言われているキリストの贖い。キリストはご自分のいのちを代償として差し出して下さり、私たちが受けるべき罪の刑罰を代わって負われ、私たちを罪責から解放してくださったのです。また、キリストは死という代償を通して、私たちを実際に罪の力から解放して下さるのです。
(3) 心をきよめて下さる。イエス様のいけにえは、人の心をその内側から根本的にきよめて下さいます。
(4) 生ける神に仕える者として下さる。キリストの十字架は、堅い罪の心を完全に打ち砕き、私たちを、死んだ行いから離れさせ、生ける真の神に奉仕する者に造りかえてくださるのです。それは負債の重圧から解き放たれた生活であると同時に、勝利の生活です。
・新しい契約もイエス・キリストの十字架の死によって初めて成立し、私たちはそのことによって、永遠の資産の約束を受けるのです。
・流された血の重要性
(1) 初めの契約は、血によって結ばれ成立しました。モーセは、契約の書にも民全体にも血を振りかけました。これは、民と契約の書の両方が血の印を帯びていたことを示しています。また、イエス様は最後の晩餐で、杯を取り十字架の死を示しながら、「これは、わたしの契約の血です。罪を赦すために多くの人のために流されるものです。」言われました。
(2) 幕屋は血によってきよめられました。イエス様のいけにえの死とキリストの血なしには、罪の赦しと罪のきよめはありません。
3,ただ一度ささげられた永遠のいけにえ(23〜28節)
・キリストはただ一度だけ、世々の終わりに、ご自分をいけにえとして罪を取り除くために現れてくださいました。(26節)
(1) キリストは永遠の神の御子であり、歴史に縛られず、歴史を超越しています。また、天にある永遠の大祭司として、何時の時代にも生きてとりなしをされる存在です。キリストは常に今、ここにおられる方です。しかし、十字架の出来事は、歴史上実際にあった、完了した出来事なのです。
(2) キリストのいけにえは、繰り返される必要のない、最終的、究極的なものです。
(3) キリストのいけにえは、後にも先にもない唯一無二の神のわざです。
・一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている人間に、ご自分をいけにえとして罪を取り除くために現れて下さり、多くの人の罪を負うために一度ご自分を献げられた主は、二度目には、ご自分を待ち望んでいる人々の救いのために現れて下さるのです。