ルカ福音書5:33-39
1,パリサイ人たちの本音
パリサイ派の人たちの本音は、「今まではこうだったのに。」というものでした。それがあったので、イエス様の言うことなすことが、気にくわなかったのです。この、「今まではこうだったのに。」という思いが私たちを支配すると、クリスチャンとしての成長が止まってしまいます。なぜなら、クリスチャンは、いつまでも悔い改める存在、変化し続ける存在だからです。今まではこうだったから、これからもこれでいいや、というのは、パリサイ人が持っていた考えと同じです。
2,イエス様の教え
パリサイ派の人たちは、弟子たちが断食をしないことで文句を言いましたが、断食とは悲しむとき、嘆くときに行ないます。彼らは、いつもそれを行なっていたということは、彼らが神とともにいる喜びを持っていなかったことに他なりません。それに対して、弟子たちは喜んでいました。神との交わりが回復すると、いつもそこには喜びがあります。神と交わることによって喜びがあふれます。けれども、パリサイ派の人たちは、罪の赦しを信じていなかった結果、神との交わりがなくなっており、神との交わりがないので、悲しみと嘆きしかなかったのです。もちろん、彼らはそんなことを考えて断食していたのではありませんが、しかし、本物が現われたとき、実際に罪の赦しと神との交わりと、主にある喜びを目の前で見たとき、自分たちがそうでないことに気づいたのです。
「しかし、やがてその時が来て、花婿が取り去られたら、その日には彼らは断食します。」
その時とは、イエス様が十字架につけられる時です。
3、 5章全体のまとめの話
(1) 新しい布切れは洗うと縮むので、古い着物に継ぎをすれば古い着物が破れてしまいます。
(2) 新しいぶどう酒からは、ガスが出てきます。新しい皮袋は伸縮牲があるので大丈夫ですが、古い皮袋は固くなっているので、新しいぶどう酒を入れると破れてしまいます。
この2つのたとえから分かることは、
古いものを捨てなければ、新しい働きを受け入れることはできないことです。イエス様は、貧しい者に福音を宣べ伝えられました。貧しい人とは、古い自分に死んだ人のことです。ペテロのように、重い皮膚病の人のように、今までの自分の生き方や、自分のあり方に限界を認めている人です。だから、新しい働きが起こったときに、古い人を脱ぎ捨てて、キリストにある新しい人を身に着けることができるのです。古いものを持ったままで、新しい働きを受け入れることはできません。
4,次に、イエス様が彼らの問題の核心を突かれています。
パリサイ人、律法学者は、古い物のほうが良いと考えていました。他の人々は、新しい物が良いと考えて、イエス様の教えとわざを受け入れていきましたが、彼らは古い物が良いとしたのです。
みなさんはどうでしょうか。イエス様の新しい働きを、自分のものとしたいですか。それとも、今のままでいいと思いますか。罪の赦し、神との交わり、主にある喜びを実際に体験したいと思いますか。それとも、頭で信じているだけで、今のままでいいと思いますか。選択は、ひとりひとりにあります。
新しいぶどう洒は新しい皮袋に
鈴川キリスト教会牧師
川崎 廣
川崎 廣
1,パリサイ人たちの本音
パリサイ派の人たちの本音は、「今まではこうだったのに。」というものでした。それがあったので、イエス様の言うことなすことが、気にくわなかったのです。この、「今まではこうだったのに。」という思いが私たちを支配すると、クリスチャンとしての成長が止まってしまいます。なぜなら、クリスチャンは、いつまでも悔い改める存在、変化し続ける存在だからです。今まではこうだったから、これからもこれでいいや、というのは、パリサイ人が持っていた考えと同じです。
2,イエス様の教え
パリサイ派の人たちは、弟子たちが断食をしないことで文句を言いましたが、断食とは悲しむとき、嘆くときに行ないます。彼らは、いつもそれを行なっていたということは、彼らが神とともにいる喜びを持っていなかったことに他なりません。それに対して、弟子たちは喜んでいました。神との交わりが回復すると、いつもそこには喜びがあります。神と交わることによって喜びがあふれます。けれども、パリサイ派の人たちは、罪の赦しを信じていなかった結果、神との交わりがなくなっており、神との交わりがないので、悲しみと嘆きしかなかったのです。もちろん、彼らはそんなことを考えて断食していたのではありませんが、しかし、本物が現われたとき、実際に罪の赦しと神との交わりと、主にある喜びを目の前で見たとき、自分たちがそうでないことに気づいたのです。
「しかし、やがてその時が来て、花婿が取り去られたら、その日には彼らは断食します。」
その時とは、イエス様が十字架につけられる時です。
3、 5章全体のまとめの話
(1) 新しい布切れは洗うと縮むので、古い着物に継ぎをすれば古い着物が破れてしまいます。
(2) 新しいぶどう酒からは、ガスが出てきます。新しい皮袋は伸縮牲があるので大丈夫ですが、古い皮袋は固くなっているので、新しいぶどう酒を入れると破れてしまいます。
この2つのたとえから分かることは、
古いものを捨てなければ、新しい働きを受け入れることはできないことです。イエス様は、貧しい者に福音を宣べ伝えられました。貧しい人とは、古い自分に死んだ人のことです。ペテロのように、重い皮膚病の人のように、今までの自分の生き方や、自分のあり方に限界を認めている人です。だから、新しい働きが起こったときに、古い人を脱ぎ捨てて、キリストにある新しい人を身に着けることができるのです。古いものを持ったままで、新しい働きを受け入れることはできません。
4,次に、イエス様が彼らの問題の核心を突かれています。
パリサイ人、律法学者は、古い物のほうが良いと考えていました。他の人々は、新しい物が良いと考えて、イエス様の教えとわざを受け入れていきましたが、彼らは古い物が良いとしたのです。
みなさんはどうでしょうか。イエス様の新しい働きを、自分のものとしたいですか。それとも、今のままでいいと思いますか。罪の赦し、神との交わり、主にある喜びを実際に体験したいと思いますか。それとも、頭で信じているだけで、今のままでいいと思いますか。選択は、ひとりひとりにあります。