未来技術の光と影。
SIYOU’s Chronicle




以下、大きなネタバレがあるので、海外ドラマ好きでまだ『グッド・ワイフ』を観ていない人。

『グッド・ワイフ』シーズン5を観てない人はすぐに抜けて欲しい。
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さて。

私は海外ドラマが好きだ。

最近の一番のお気に入りは『グッド・ワイフ』だ。

法廷物というか、弁護士が活躍するような作品の中では、群を抜いて一番のお気に入りだ。

とにかく、『面白い。』の一語に尽きる。

良く、毎回毎回、こんなに面白いもの作れるよな。と、感心する。

リドリー・スコット制作総指揮が故のなせるワザか。

吹き替えで観ているが、ちゃんと「野沢由香里」であることがまた、嬉しい。

さて。

先日D-lifeで放送されたシーズン5第15話『張り詰めた法廷』

ドラマや映画で、人の死をこれほどリアルに感じたことがない。

人が死ぬことを前提にしたストーリーをウリにしている作品では当然のことであるが、そうでなくても映画やドラマでは、人の死を、人の死の場面を、これぞとばかりに盛り上げようとする。

廻りの役者もここぞとばかりに嗚咽を漏らし、声を震わせ、あるいは号泣する。

私がその手の作品を毛嫌いするのは、そういった演出に、全く同調出来ないからだ。

人の死に意味を見出そうとするのは、どうやら人類全体の悪癖であるようだ。

人は必ず死ぬ。

そこに意味はない。

誰かの死に対して「〇〇の死をムダにしないためにも」的な話をよく聞く。

遺族の言葉であれば、それは仕方のないことではあるが、マスコミがこぞってそれを伝えようとするその姿勢に、嫌悪感を感じる。

事件が注目を集めれば集めるほど、「その死をムダにしない」的な訴えが叫ばれる。

「同じ悲劇を2度と起こしてはならない。」との訴えであれば、解る。

だがそれが、「死をムダにさせない」ための足掻きであれば、虚しさしか感じられない。

『1平方メートルの赤い土地と1ヘクタールの赤い土地では、どちらがより赤いか。』

出典も誰の言葉であったかも忘れたし、面積も良く覚えてないこの言葉が思い出される。

年間日本だけでも100万人が亡くなっていく中で、なぜ、その人の死だけを、ムダにしてはならないと叫ぶのか。

他の死はムダであっても良いのか。

逆に「ムダではない死」というのがあるか。

「死をムダにさせない」ことに拘泥するがあまり、ただ単に人の歓心を買うことに執着することになると、逆に人々の関心は離れていき、「同じ悲劇を2度と起こさない」ことの本質から外れて行く。

死は突然訪れる。

そこに意味はない。

ましてや、この死はムダであるとか、ムダではなかったなどの裁量の入る余地はない。

死の場面を直接は描写せず、近親者は誰も直接的には現場に居合わせず、で、ありながらちゃんと死の瞬間を捉えていて、「まさか」「関係ないよね」「関係あるのか?」「まさか」「無事だよね」「もしかして」との瞬時の葛藤が的確に整然と捉えられる。

死が判明した瞬間も、「手術が成功するのか?」「失敗するのか?」といった場面ではなく、その事実が唐突に告げられる。

実は、かなり念入りに練られた演出で、その突然の死が描写されている。

作中では誰一人、号泣をしない。

観ている私も、号泣はしない。

だが、一人の人の死に立ち会ったかのような、そのリアルな感情が、心の底に重く留まった。

ドラマや映画で、人の死をこれほどリアルに感じたことがない。

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