未来技術の光と影。
SIYOU’s Chronicle




大統領選でニューヨークタイムズのネイト・シルバーの数理モデル予測が全50州で的中―政治専門家はもはや不要?
http://jp.techcrunch.com/archives/20121107pundit-forecasts-all-wrong-silver-perfectly-right-is-punditry-dead/

New York Timesの選挙予測専門家、ネイト・シルバーは昨夜、大統領選の勝敗を全50州で的中させた。 その一方で、いわゆる政治専門家たちの予想はほとんどが外れた。中には笑うしかないような外れ方をした者もいる。

前回ほどの盛り上がりに欠けた大統領選であったが、新たなヒーローが誕生したようだ。

ネイト・シルバー

数理統計モデルを駆使し、どんな政治評論家よりも正確な、そして完璧な予測を行った。

人間の行動の結果が、そんな数理モデルなどで予測可能なのであろうか?

前回2008年の大統領戦での50州中49州という的中率を認められて、「New York Times」の公式ブログに採用された上での、今回の結果である。

数多ある名も無き人々のブログやツイッター上での予測の中から、たまたま今回の結果に合致したものを取り上げている訳ではないので、偶然だろ?との批判は成り立たない。

天気予報を考えてみよう。

各観測ポイントでの気圧のデータから、低気圧/高気圧の位置などが判明するので、ある程度の現在の天候が解る。

時系列のデータがあれば、低気圧の移動方向などが解るので、これから先の天気の予報が可能となる。

極端な話、なぜ、低気圧が来ると雨が降るのか?という科学的な理由を知らずとも、この「気圧」というパラメータの変動値を過去のパターンと照合することにより、天気予報を行うことが可能だ。

良く「雨の日は古傷が疼く。」という話を聞く。それが、湿度の影響なのか気圧の影響なのかは解らなくとも、そのような人々には、外の天候が解らない状況で「古傷が疼いているので、恐らく雨が降っている。」との予測が可能だ。

「猫が顔を洗うと雨が降る。」と言う伝承も、恐らくは猫に気圧なり湿度なりの変動を感知する能力があり、丁度古傷が痛むのと同じような、なんらかのシグナルを感知して、顔を洗うような行動を導き出している。とも、考えられる。

仮に、人類に気圧を図る手段が無かったとした場合、この「猫が顔を洗う」現象が、どの地域でどれだけ観察されたか?をリアルタイムで収集することができれば、天気予報をすることが出来るのではないのか?

流石にちょっと論理が苦しくなって来たが、要は、因果関係がはっきり解明されていなくとも、十分な量のデータの蓄積があれば、それから信憑性の高い予測を導き出すことは十分に可能である。と考えられる。


「ハウス効果」呼ばれる現象がある。

世論調査機関の政治的偏向性によって回答者の反応が変わる。という考え方だ。

ネイト・シルバーは、世論調査の結果を単純に集計するのではなく、調査者の政治的指向を数値化し、これを除去している。

無論、他の予測モデルでも同様なことをしてるのであろうが、どのくらい除去すべきなのか?という数値の選定が、より適切であったのも重要なポイントであろう。

ひょっとするとこの数値もまた、膨大なデータと深遠な数理モデルによって導き出しているのかもしれない。


彼の予測がそれほどまでに正確なのであれば、それを以ってして選挙結果とすれば、もう、選挙をする必要はないのか?少なくとも、選挙運動にどれだけ力を入れるかなどは、結果に大きな影響を与えないのか?

今回の的中率の背景には、前回と同じ数理モデルが良く適合したから。との理由が大きい。どちらの陣営も選挙戦に全力を尽くし、やれることは全てやった結果として、いつも通りに各州を廻り、その州に合わせた演説を行い、いつも通りに討論会を実施し、いつも通りに誹謗中傷合戦を繰り返した結果だ。

どちらかが手を抜けば、予測結果を下回る結果となるだろうし、予期せぬ不祥事が発生すれば、その問題が大きければ大きいほと、数理モデルから外れた結末に至るのは必至だ。


では、少なくとも、政治評論家は必要ないのか?

彼らがなぜ、専門家として成り立っているかと言えば、過去の政治/政策に詳しく、またそれが社会情勢に与えた影響などに熟知しており、その知識を元に、新たな政策がどのような結果をもたらすのか?を予測したり、逆に、現在の状況を改善するには、どのような政策が有効であるのか?それが出来るのは、誰なのか?

そういった判断が、誰よりも得意だからである。

それだけであれば、何のことはない。数理モデルがやっていることと、対して違わない。

実際の天気予報では、偏西風や海流、山岳部を堺に天候は大きく異なるなどの土地の形状。など、長年の科学的研究の結果得られた様々な気象条件が、その予測モデルに組み込まれている。

そして、その努力は現在も続けられており、予測と観測値とに差異が生じた場合、その原因を突き止め、予測モデルを修正して行く。

政治評論家は数理統計モデルを全く無視するのではなく、数理統計モデルの得手/不得手を把握し、得意な部分の予測結果は素直に受け入れ、不完全な部分を補い、想定外の事象が発生した場合の影響範囲などについて、的確な判断を発信していかなければならない。

自分の判断が数理統計モデルに負けた場合、自分の論理のどこが間違っていたのか?を、謙虚に解析出来る者のみが、生き残っていけるであろう。

一見、前途洋洋なシルバーモデルであるが、次回2016年には、大きな試練が待ち受けている。

それは、今回の予測があまりにも見事であり、それが衆人の知るところとなってしまったがために抱えざるを得ない、ジレンマによるものである。


「前回2012年の選挙での見事な的中で、『魔法使い』の異名を持つあなたではありますが、今回発表された予測は『もはや、呪文としか思えない』との批判を浴びています。何か、路線の変更があったのでしょうか?」
「いえ、今まで通りの予測はちゃんと行い、別ページで詳細を発表しています。今回このような予測を発表した経緯をまず、ご説明したいと思います。」
「これですね?各州の予測を集計した結果を見ると、民主党の圧勝。オバマ続投。の様ですが。」
「はい。それが『第一の予測』です。」
「『第一の』?」
「ええ。その予測には、重要なファクターが欠けています。」
「と、おっしゃいますと?」
「『第一の予測』を発表した結果が、有権者の行動に与える影響です。」
「少々話が込み入っているようですが。。。」
「実は前回の結果が余りにも的中したために、私の予測結果が今回の選挙戦に与える影響が、無視できないほど大きくなってしまい、予測結果そのものを変えてしまう程になってしまったのです。」
「では、今回の予測はあまりアテにならないと?」
「幸い、ギャロップ社が今回の世論調査で『シルバーモデルの予測が、あなたの投票に影響を与える可能性はありますか?』との趣向の設問を追加しており、
『予測には関わらす投票に行く。』
『大差であれば投票に行かない。』
『予測が自分の支持政党に不利であれば、大差/僅差に関わらず投票に行く。』
『投票に行くか行かないかは、その日の天候次第。』
などの男女別/年齢別/地域別/支持政党別の詳細な集計結果を発表しています。前回の統計モデルに改良を加え、その結果を組み込み、『第一の結果』を発表した場合の予測を『第二の予測』として求めたものが次のページです。」
「これはなんと、共和党が僅差で勝利。予測結果が逆転していますね。」
「ええ。大差での勝利との予測により、若年層/無党派層で投票に行かないものが多数に渡り、接戦州での民主党支持率が下がる。との予測が導き出した結果です。」
「と、するとですね。あなたはたった今、『第二の予測』を発表した訳ですが、それがまた、新たな結果を発生させる。という可能性はあるのでしょうか?」
「『第三の予測』結果は、『若干の余裕を持って、民主党の勝利』です。それ以降は、あまり変動がありません。」
「つまり、回答がそこに向かって収束している。真の予測はそこであると?」
「サイトでは、『第十の予測』まで発表していますが、どちらかと言うと、『第三の予測』以降は、殆ど報道もされず、それ以降の予測結果を変えるほどの影響力を持たないため。と考えられます。」
「んー。どれが正しい予測なのか解らない状態。と、言うことでしょうか。」
「恐らく、『第一の予測』のみ発表していれば、結果は『第二の予測』通りになったと思います。ですが、それでは政治的公平性に欠けると思い、『第十の予測』まで発表することにしました。」
「ただ、こうなって来ると、どれが本当の予測なのか解りにくいですね。色々発表すれば、どれか当たるだろう?的な。」
「ええ。残念ながら、私の予測が余りにも正確なため、公平性を保とうとすればするほど、予測結果が曖昧になり、他の要因による影響の方が、私の予測結果が与える影響よりも、大きくなってしまいました。」
「そこで?」
「ええ。そこでその要因を考慮に入れ、最終的な今回の私の予測に基く見解を、一言で表明することにしたのです。」
「それが、冒頭で触れた、これですね?」
「ええ。『フロリダで朝、猫が顔を洗っていたら、共和党の勝利』です。」

・・・

「では、本日、お話を伺いしたいもう一つの話題に移りたいと思います。巷では、今回の選挙を最後に、あなたが全く別の分野に転身されるのでは?選挙予測から身を引くのでは?との、もっぱら噂ですが、これは何か根拠があることなのでしょうか?」
「それは、恐らく、私が先週上梓した書籍のせいだと思います。」
「どのような内容なのでしょう?」
「これです。『上手なネコの躾け方 - 3日でネコに顔を洗わせる習慣を付ける方法』」


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今日、2回目を観てきた。

初日は、舞台挨拶目当てであったので、残念ながらの2階席であった。

映画を見降ろして鑑賞する。と、いうのは記憶にある限り、初めての体験だ。

見辛い。

丸の内TOEIは、2階席から観て満足が行くほど、スクリーンが大きくない。

シネマズ六本木のスクリーン7であれば、かなり後ろの=かなり高い場所であっても、スクリーンの高さが8.4mあるので、決して見降ろす感じにはならない。

スクリーンの上段と席の位置がほぼ同じであったので、また、幽体離脱して天井付近を彷徨うことハメになるのかと、少々緊張した。


映画は、正直に言ってしまうと、色々な要素を詰め込み過ぎている感じがする。

私のように、出演者の一人をお目当てに行くと、肩すかしをくらってしまうかも知れない。

最大の見どころはやはり、北海道の大自然と、それを見事に捕らえた映像であろう。

2回目には、同じ劇場だか、前から5列目で見た。

それは、全く、別のものであった。

座席の位置で、これほどまでに映画の印象が変わるものか?と、驚いた。

初日の時、2階席とは言え、最前列であったので、舞台挨拶に見えた役者さん達の表情が伺えた。

「思ったよりは、良い席だ。」

と、その時は思ったが、帰り際、1階最後尾の扉から中を覗いて見たら、舞台の様子が全く違って見えた。

もう、舞台上には誰もいないのだが、黒板のセットがすぐ、そこに見える。

まるで、一つの教室に居るかのような印象だ。舞台全体が明るく、晴々と感じられる。

学校の教室の黒板の前に並んでいる役者さんを、授業参観のように、教室の最後尾から観ている。ぐらいの臨場感があったに違いない。

次回は、絶対に1階席で見よう。と、心に誓った。


木村大作

舞台挨拶では、登壇者が各自、今回の映画の感想を黒板に一言書き、それを解説する。という形式であった。

満島ひかりの言葉は「おとなってコワイ」であった。

今までの現場は、わりと和気あいあいな感じのものが多かったが、今回は、監督始め、スタッフの方々に、大人としての、仕事に対する意気込みと言うか、プロ意識というか、厳しさが感じられ、『コワイ』との印象を感じた。というものであった。

一方、監督の書いた言葉は『木村大作』その一言であった。

「監督のお言葉はどれでしょう?」と聞かれ、

「四文字熟語『木村大作』。と、書いて『かいぶつ』と読みます。たとえば、ラストのシーンの撮影の際、カメラの位置を決める時に、木村さん(カメラマンです)が、カメラを構えたまま、水温マイナス20℃の海に、なんの躊躇もなく、バシャパシャと入って行き、『監督、カメラの位置ここです!』と。」
「マイナス20℃の海っていうのは、どのくらい冷たいのでしょうか?」
「私は、入っていないから解りません。。。」

正にプロと言うべきか、自分の思った映像を撮るためであれば、他の事が一切目に入らなくなるタイプなのであろう。

その結果が、見事に映像に捕らえられている。

私が最初に「北のカナリアたち」関連の話題をブログに取りあげたのは、監督でも出演者でもなく、カメラマンである木村大作へのインタビュー記事であった。

カメラマンへのインタビューが記事になるのは、珍しいのでは?

そう思ったのだが、やはり、今回の映画のキーマンは、『木村大作(かいぶつ)』であったようだ。

元教師である吉永小百合が、20年ぶりに教え子と会う。

普通であれば、喫茶店なり、なんなり、どこか落ち着いた場所で話をするはずである。

だが、満島ひかりをサロベツ原野の管理官の職につけ、広大な冬のサロベツ原野での仕事の合間に、2人の会話が取り交わされる。

正直、そこにちょっと違和感が感じられ、初回はストーリーに気を取られ、会話の聞き取りに集中しようとすると、せっかくの壮大な映像が、かえって邪魔に感じられてしまう。

だが、2度目は、ストーリーを把握しているので、映像全体をゆっくり鑑賞することが出来た。


素晴らしい。

その一語に尽きる。


今回の映画で、一番気に入らないのは、全日空のスポンサード広告(?)だ。

不自然なまでに、「全日空を利用していますよ」とのシーンが入る。

正直、せっかくの映画を、「なんだ。全日空のCMかよ。」と、観覧者を落胆させるのに十分過ぎるほどのしつこさであった。

旅費は空席を利用してもらえば、全日空側の負担は実質ゼロだ。もちろん、それ以外にも色々と出資しているのであろうが、企業センスを疑われる。

この映画を観て、北海道に行ってみたい。それも、普通の札幌観光とかではなく、この映画に出て来るような、雄大な大自然、それに是非、あの『礼文富士』をこの目で見てみたい!

そう、思うものが多いはずだ。

特に、旅行好で生活に余裕のある人々。国内旅行に良く行くのだが、観光地には少々辟易している層への訴求力は、絶大だ。

『北のカナリアたちロケ地巡りの旅』

それを企画し、劇場にパンフを置いてもらう。いや、パンフに挟んで配布するぐらいは、劇中に執拗にCMを挟むような無粋さに比べれば、全然OKであろう。

そして、その体験が素晴らしいものであれば、その後も同様のツアーに参加するものが多いはずだ。

慣例に縛られた無粋な行いで、視聴者の気持ちを削ぐのではなく、映画ではとことん、北海道の大自然を堪能してもらう。そしてその体験をより崇高なものにするために、惜しみない援助をするのが、本来のパトロンとしての役割であろう。


いずれにせよ、是非、大劇場の、それもなるべく前方の席。

1度見て「なんだ。こんなもんか。」と思った人も、2度、3度と、劇場に足を運んでみて欲しい。

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