未来技術の光と影。
SIYOU’s Chronicle




「今日のテーマは、『地球温暖化』だ。みんなは『地球温暖化』って知ってるかな?」
「「「知ってまーす!」」」
「そうか。なら、その説明はいらないな。今日はみんなに、地球温暖化を防ぐには、何をしたらいいかを考えて欲しいんだ。」
「はい!」
「おっ、さすが早いな、委員長。」
「名前が良くないと思います。」
「名前?」
「はい。先生は『温暖』と聞いて、どんな場所を思い浮かべますか?」
「そうだな、瀬戸内海とか地中海とかかな。」
「それは、どんなイメージですか?」
「冬は暖かく、とは言え、夏でも日光浴が出来るような、そんな『温暖』な地域だな。」
「そうですよね。なんか、とても平和な場所って、イメージがあると思います。なので『温暖化』と聞いても普通の人は、すごく暑い国も、逆にすごく寒い国も、地球上の全ての地域が温暖な気候になるんじゃないかと、勘違いしているんだと思います。」
「そんなわけないと思います!」
「少なくても、頭では分かっているつもりでも、心の底では誰も危機感を持っていない原因の一つは、名前にあると思います。」
「では、どうしたら良いと思うのかな?」
「はい。だから、もっとみんなが怖がるような名前にした方がいいと思います。例えば、」
「チョー温暖化!」
「酷暑化とか猛暑化とか?」
「『コクショ』『モーショ』って、何だよ。もっと分かんねーよ。」
「ぼくは『アッチ」
「そんなさ、名前変えたぐらいで、なんとかなることかよ。」
「じゃあ、何かいい案でもあるんですか?」
「別にないけど、そんなことぐらいで、何かいいことしてる気になってる方が、ヤバいと思います!」
「そう言って、何もしようとしない方が、よっぽど悪質だと思います!!」
「『アクシツ』って、なんだよ。気取ってんじゃねーよ。」
「とにかくっ!!とにかくぼくは、『地球アッチッチー化現象』がいいと思います。」
「「「ばっかじゃねーの。」」」

◇◇◇

「『地球温暖化対策を根本から見直す法案』と言いながら、具体的な対策として挙げられているのは、名前を変えるということだけですね。それで実際に何かが変わると、本気で信じていらっしゃるんですか?」
「あぁ、もちろんだ。」
「そもそも、先ほどから『国民が身近に感じられるネーミング』と言いながら、首相。あなたは日常生活で実際に誰かが、『アッチッチー』と、言っているのを聞いたことがございますか?」
「もちろん、あるとも。」
「私は聞いたことありませんし、自分で言ったこともありません。」
「さっき私が言ったのを聞いただろ?自分でも言っていたじゃないか。」
「子供の喧嘩ですか?『日常生活で』と申し上げたはずです。これは私に限ったことではなく、国民の殆どが同じ気持ちだと思います。」
「私がこの意見を初めて周りに言ったのは、小学生の時なんだよ。」
「反応はどうでしたか?」
「議論するまでにも至らず、全否定されたよ。その時につくづく思ったものだ。『何か事を成すには力が必要だ。』とね。その後も機会があるたびに周りに働きかけてみたんだが、その度に痛感したよ。『もっと、大きな力が欲しい。』とね。」
「それで、総理大臣になられたのですか?」
「結果的にはそうなるが、今一番感じているのは、あの時、もっと勇気を振り絞って、皆にアイデアを受け入れてもらえていれば、温暖化対策は、50年進んでいたかもしれない。と、いう思いだ。50年後に今を振り返って、『あの時、実行に移せていたら。』と、後悔するようなことだけは、何としても避けなければならない。とにかく、議論をしている暇があるなら、出来ることから始めるべきではないのかね?」
「『今、自分に出来ることから始める』。50年前の小学生なら、それでも良かったでしょう。ですが総理。今のあなたは不可能を可能に変えてでも、本当に必要なことを、次から次へと実行して行かなければならない立場なのです。」
「そんな事は百も承知だよ。」
「いえ、全く分かっていらっしゃいません。総理のなさろうとしていることは、氷山にぶつかって船が沈もうとしている時に、机に向かって避難計画の『作戦名』を考えているようなものです。一人でも多くの乗客を救うためには、船中のサイレンを鳴らし、残り時間が少ないことを伝え、正しい方向に乗客を誘導することです。そうは、思わないのですか?」

◇◇◇

「何見てるんです?」
「これが高々50年前のこととは、とても思えないな。」
「そうですね。何百年も昔のような気がします。」
「もう、引き返せるポイントを過ぎてしまった。と、言われ始めたこの時期にまだ、名前がどーの、立場がどーのを云々しているだけで、実効的な手段についての議論が何もされていない。この時点で、なりふり構わず、全ての火力発電を停止しするなど、国民の危機意識を煽ることはいくらでも出来たんじゃないかとね。」
「無理でしょうね。この時点では、自分たちの乗っている船がどんな状況にあるのか、誰一人分かっていなかったでしょう。船底の穴から水が入って来て、船が少しずつ沈んで行っているのに気づきながらも、『誰かがそのうち、穴を塞いでくれるだろ』と、呑気に構えていた。既にその時には、世界中の至る所で警報が鳴り響いていたにも関わらず、誰の耳にも届いていなかったんですね。」
「たとえ実際に大音量の警報が鳴り響いていたとしても、事態は変わらなかったと思うよ。結局、全ての問題を一瞬で解決してしまうような技術が発明されることもなかったし、高度な文明を持った宇宙人が助けに来てくれることもなかった。。。」
「珍しいですね。室長が感傷に浸ってるなんて。それより、アラート出てますよ。」
「あぁ。」
「・・・これって。自分が行きます!!」
「二人きりになった時に決めただろ。トラブルは必ず、当直している方が担当するって。」
「しかし。」
「いーんだよ。たぶん、戻ってくるまでは防護服持つと思うよ。」
「そうですね。ケチらずに、新しいの着て下さい。まだ使ってないのがいくらでもありますから。」
「あぁ。これってさ、重ね着出来れば良かったのにな。」
「なるほど、その発想はなかったですね。今まで誰も思いつかなかったんでしょうか。」
「誰か思いついたかもしれないが、必要な局面まで思い描けなかったんだろうな。ありがとう、もう、中に戻っていーぞ。」
「ロック確認しました。外側のハッチ、開きますね。」
「あぁ。」
「・・・」
「アッチッチー」
「・・・」
「一度、言ってみたかったんだよ。」
「これから行うメンテナンスに、『作戦名』は付けなくて良いんですか?」
「『防護服、着てても地球はアッチッチー』」
「なんです?それ。」
「辞世の句だよ。」
「縁起でもないこと言わないで下さい。」
「いや、我ながら良く出来たと思うよ。これ、標語にすれば良かったな。」
「標語、ですか?」
「交通安全とかで良くあるだろ。名前を変えた時に、CMでガンガン流したり、エアコンのコントローラにステッカー貼ったり。どうせ名前を変えるなら、もっと全力でやるべきだった。そうは、思わないか?」
「今となっては、評語を伝える相手がいませんけどね。」
「そう言わずに、せっかくの傑作なんだから、ちゃんと伝えてくれよ。」
「誰に、ですか?」
「南極コロニーは?」
「連絡途絶えてそろそろ一週間ですから、恐らく、もう。」
「・・・そうだ。オメガ計画の伝書ロケット、あれ、まだ、飛ばせただろ。」
「あんなもん、各省庁の最後の意地の張り合いで、新しいメッセージを追加する余裕なんか、1バイトも残っていませんよ。」
「そうか。残念だな。そろそろ無線が届かなくなるころだろ。最後に一つだけ頼みがある。」
「なんでしょう?」
「いいか、絶対に諦めるな。諦めたら、そこで終わりだ。諦めなければ全てが叶うとは言わないが、そういった追い詰められた状況からこそ、不可能を可能に変えるような、奇跡的なアイデアが生まれるものなんだよ。」
「分かりました。肝に銘じます。・・・では、本物のコーヒー用意して、待ってますからね。」

◇◇◇

「どれだね?」
「これです、船長。明らかに人工の物体、恐らくは未知の文明による宇宙船と思われます。」
「確かに人工物のようだが、宇宙船にしては小さ過ぎるようだな。それに、パッと見たところ、推進装置らしきものも見当たらない。もう少し、鮮明にならないのかね?」
「今、やっています。出ました。これ、明らかに、高度な文明の文字か記号のようですね。」
「良し。回収に行くぞ。」

モニターに映し出されたモノリス状の物体には、赤い塗料でこんな記号がペイントされていた。

『防護服、着てても地球はアッチッチー』

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先に書いておくと、タイトルの曲はこれ『LUIS BACALOV/ EDDA DELL'ORSO -"The Grand Duel" (1972)

バイプレイヤーズ』を観ている。

これは、もう、観るしかない。

ドラマはいつも、録画して観ているので、大抵オープニングとか飛ばしちゃうんだけど、これは、毎回観ている。

魅入っている。


遠藤 憲一
 遠藤 憲一

大杉 漣
 大杉 漣

田口 トモロヲ
 田口 トモロヲ

寺島 進
 寺島 進

松重 豊
 松重 豊

光石 研
 光石 研

いやー、惚れ惚れするわ。何回観ても。

で、第11話で上映された『フィルム版バイプレーヤーズ』のBGMが、聞いた覚えがあるのに思い出せない。

ちょっと懐かしい感じがする。たぶん、映画で使われていたんだと思うんだけど、覚えているということは、何回も観た映画のはず。

んーーーー。

気になったので、色々検索してみたけど、『バイプレーヤーズ フィルム BGM』とかで検索しても、全くヒットしない。

1日経って、そこだけ見直したら、思い出した。

で、なんで、そんな曲知ってるかと言うと、実はこれ。

Kill Bill Volumen 1 Soundtrack - The Grand Duel Parte Prima

前回のエントリーで「騎士団長殺し」を書いた時、全くアクセスがなくてがっかりしていたんだけど、自分でブログ検索して見て良く解った。

凝り過ぎたがために、このタイトル「神をも冒涜する思いで辿り着いた懸念は決して自己擁護のためのセーフティネットではなく」を見たとしても、誰も『騎士団長殺し』のレビューだとは思わないよな。

で、今回は、そのものズバリのタイトルにしてみた。



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騎士団長殺し』を読み終えた。

前作(色彩を持たない~)がピンと来なかったので、今回は元の作風に戻したのかと、嬉しかったのも束の間、読み進むにつれ擬かしさが募った。

私は捻くれ者なので、世の中で騒がれているものは、斜に構えて否定することにしている。
そんな、一般に広く支持を得ているものなど、面白いはずがない。と。

私が最初に読んだ村上春樹は『1973年のピンボール』だ。

30年ほど前にハルキストであった後輩に薦められた。
ドンピシャであった。
「僕」の心境にどっぷりとハマって沈み込み、読後しばらくは「身動きが出来ない」状態であった。

その後、他の作品も読み、村上春樹に傾倒して行った。

ただ、デビュー作には全く何も感じなかった。もし、最初に『風の歌を聴け』を読んでいたなら、「誰があんなもん読むんだよ」と、全く相手にしていなかったと思う。

『1973年のピンボール』を選択してくれたその後輩の慧眼に、感謝するばかりである。

「いつも通りの春樹作品」に喜んでいたのも束の間、読み進むにつれて、違和感を覚え始めた。

良くも悪くも、いつもの村上春樹の小説だ。それ以上でも、それ以下でもない。

登場人物すら、いつものメンバーである。「少女がいないな」と思っていると、ちゃんと出て来る。

ねじまき鳥クロニクル』や『1Q84』の時のように、先が楽しみでしょうがない。明日、会社を休むことになっても良いから、このままいつまでも読んでいたい。

そう、思わせるようなワクワク感が、感じられない。

最近常に感じている「何をやっても面白くない。」という鬱状態なのか、それとも老化によって感性が鈍ってしまったのか。

恐らくは残りの人生、もう、良いことなど何も残っていないであろう。という絶望感に、また一つの具体的な判例を追加してしまった。

そう、思っていた。

だが、「施設」から脱出したあたりから、様相が顕著になって来た。

これはもしかすると、作品にも問題があるのではないか?

神をも冒涜する思いで辿り着いた懸念は、決して自己擁護のためのセーフティネットではなく、ひとつの真実として定着していった。

記述が冗長だ。私の体験もまりえの体験も、このシーンにこれだけのページ数が必要なのか。水増ししている感が否めない。

決定的だったのは、ストーリーの矛盾点についての弁解が、唐突に織り込まれていたことだ。

嘗て、このようなことは決してなかった。

村上作品に、あってはならないことだ。

しかもご丁寧に太字で書かれている。

ひょとすると、その太字の部分こそが、今回の作品の要なのかもしれない。

年老いた私には、そんなことも解らなくなっているのか。そして、そのような春樹初心者に対して、精一杯のヒントを提示してくれているのか。

いや、違うことを承知で皮肉なことを書いたのは、それで全てが台無しになるようなことが、平然と行われていることに、絶望を感じたからだ。

後日談的な記述も冗長だ。

感情の頂点で、スパっと切り離され、その解決は読者に委ねられるような、そんな読後の絶対的な何かが、欠如している。


しばらく、商業的な作品からは、手を引くべきではないのか。

もっと肩の力の抜けた短編や中編の新作を、また、読んでみたい。

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映画は、退屈だった。

「この映画は人物が描けていない」「心理描写が描けていない」などの批評を聞くことが良くあるが、ストーリーが面白ければ、そんなものは不要だ。

もちろん、全ての映画にそういう要素が不要だと言っているのではないのだが、私の好きな映画に、そういったつまらない批評が付いていると、がっかりする。

たぶん、そういう映画が好きで、そういう映画こそが映画であると信じている人が、啓蒙活動の一環として言っているのであろうが、一体誰に対して訴えているのか?

映画によらず、小説でもコミックでも、ある程度は読者のバックボーンに依って、感動が成り立つ。

主人公の心境に共感出来る要素があれば、ちょっとしたセリフや表情で、彼なり彼女なりの心境が痛いほど伝わって来る。

そのような境遇に遭った、または逢ったことの無い者に、主人公の心境を伝えるために、それまでの経緯をことこまかにストーリーに組み込んでも、所詮経験のないものにはピンと来ないし、経験のある者にとっては、退屈なだけである。

万人に感動を与えようとすれば、それは誰でも経験したことがある心理作用に訴える必要があり、どれも同じような、希薄なものになって行く。

逆に、人物の境遇などに、普段、人には語らないような、心に抱えた大きな『蟠り』の部分に触れるものがあり、クライマックスでそれが解消されるようなものであれば、その感動は計り知れないものとなる。

全く興味のない世界(正確に言うと、意味嫌って関わらないようにして来た世界)の説明が延々となされ、そしてそれが、肝心の主人公の行動の動機へは結びついていないため、唐突感のみが残り、どこかで見たメロドラマの一シーン程度の希薄さすら伝わらない。

意外な展開を軸に、人間ドラマを肉付けしたような、たぶん最近のサスペンス小説(?)の流行り(全く読んだことがないので失礼なことを書いているのは承知だが)のような原作を、さらに間違った方向で映画化してしまった感がハンパない。

我慢していたが、肝心のモノローグの部分で寝てしまった。


たまたま舞台挨拶があるのを知り、もう発売開始から数日経っているので諦め気分であったが、まだ空きがあったので反射的にチケットを購入した。

挨拶も、やはり、あなたがそこに居るのに、全くトキメキが沸かなかった。

何をやっても面白くない。半ば鬱状態に陥っている自覚はあるが、それでも、ひょっとしたら何か良いことがあるのでは?

いや、「そんなことは、もう、おまえには残っていないんだよ。」との声を確認するため、夢や希望の芽を、一つずつ摘んで行くための作業であったような気がする。


最近、少し幸せに気分になったのは『ラ・ラ・ランド』だ。

日本版WIRED編集長の若林さんが、素敵な批評を書いている。

『ラ・ラ・ランド』を、擁護してみる|WIRED.jp

この人の雑誌版の巻頭テキストも、いつも素敵な内容だ。


P.S.

私が今まで一番泣いた映画は『熱いトタン屋根の猫』だ。学生だったか、社会人になってすぐ位に、一人で行ったお目当ての映画が混んでいたので、予備知識0で気まぐれで入った劇場でやっていた。

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