未来技術の光と影。
SIYOU’s Chronicle




NHKスペシャルシリーズ日本新生「わたしたちの食」を見た。

改めて思ったが、放射能に対する反応が過剰に過ぎると思う。

塩分を採り過ぎれば深刻な病気の発症リスクが高まる。それは、糖分も同じだ。

それならば、「糖分の過剰摂取は肥満を招き、命にかかわる病気の発症リスクが高まるので、一日の摂取量を制限するべきだ。」との考えはどうであろうか?

「そんなこと必要無い。」という意見が殆どではないだろうか。

なぜ、必要無いのか。

「ちょっと多く摂ったからと言って、直ぐに病気になるわけではない。」

など、など、いくつかの反論が出ると思う。

だが、その殆どは、放射能に因る健康被害に対しても当てはまるはずである。

「放射能をちょっと多く摂ったからと言って、直ぐに病気になるわけではない。」

など、など、だ。

だが、放射能に対して、このような発言をした場合、感情的な排斥を受ける。

この差は、一体、なんなのであろうか。

一番尤もらしいらしい反論は、「適量の糖分は生きて行く上で必要不可欠であるが、放射能は全く必要ない。」といった内容であろう。

だがそれは、「放射能の摂取量を制限する」ことを擁護するが、「糖分の摂取量を制限しない」ことに対する擁護とはならない。

「ある程度のCO2の排出は、現代社会が成り立つために必要不可欠である。」という事実が、「CO2の排出量を制限する必要はない。」との結論に結び付かないのと同じだ。

ちょっと理屈っぽくなったが、要は、「糖分の摂取量」に対しては無頓着とも言える寛大さを示す者が、「放射能の摂取量」に対しては大騒ぎ過ぎるのを、異様に感じる。と、言いたい。

「放射の許容値が、国に因って、学者に因って、違いがあるので信頼出来ない。」

との声も良く聞く。

では、仮に「糖分の摂取量の許容値」を決めようとした場合はどうであろうか。

「糖分の摂りすぎが死亡リスクを高める。」ことは、誰もが認める事実であろう。

では、いったい、どれくらいまでならば、『安全』なのであろうか。

「一日50gまでならば安全」と、言えるような数値を決定することが可能なのか。

『安全』と言い切るためには、この数値を守れば、それに因って発病するものは0人である。ことが必要なのか。

この数値を守っていても、それが原因で発病し、死に至る者が全世界の人口の0.1%未満程度であれば許容値と出来るのか。

「そんなの、人に因って個人差があるし、生活習慣に因っても大きく違う。」と、普通は思う。

だがそれは、放射能についても全く同じだ。

話をもっと進めて、では、「食物に含まれる糖分の許容量」はどれほどであろうか?

一日の糖分の摂取量の上限を仮に50gとし、りそれを200kカロリーとしよう。

一日に必要なカロリーを2400kカロリーとすると、200÷2400≒0.08。

この結果から、「糖分を8%以上含む食品は危険」と、言えるのか。

また、逆に「糖分の含有量が1kg当たり80g以下の食品は安全」と、言えるのか。

「その食品ばかり食べるわけではない。一回の食事の総量に含まれる糖分で判断しないと意味がない。」

「毎日同じだけの糖分を摂るわけではない。年間でどれだけ、などの長期的な基準が必要。」

などの意見がすぐに思いつくと思う。

だが、こと、放射能に限って言えば、「糖分の含有量が1kg当たり80g以上含まれる食品は危険であるので出荷停止」のような数値を決定し、それを守ることを、消費者が政府に求めている。

理屈としては、全く同じことなのだが、片方は直感的に「言ってることがおかしい」と解るのに、放射能に関してはそれが正当な要求であると、信じて疑わない者が大勢いる。

政府はちゃんと「そのホウレンソウばかり1年間食べ続けたとしても」とか「直ちに命の危険があるわけではない。」と、正しい説明をしている。

それを、糖分であれば、誰もが納得できることであるのに、放射能については、そうはならない。

「学者に因っても数値が異なる値を、暫定基準値とするのはおかしい。政府は信用できない。」との意見を平気で声高に唱える。し、その過ちを正す者もいない。

「NHKで『放射能の安全値は学者の間でも意見の統一がされていない。政府は信用できない。』と言っていた。」の部分だけが、あたかも事実であるかのように広まって行くことになる。

全く、やるせない思いだ。

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『スマグラー』初日に妻夫木聡が打倒!三谷幸喜宣言「何としてでも今週でガッツリとる」
真鍋昌平の人気コミックを映画化した『スマグラー おまえの未来を運べ』の初日舞台挨拶が10月22日、新宿バルト9で行われ、出演者の妻夫木聡、永瀬正敏、松雪泰子、満島ひかり、安藤政信、阿部力、我修院達也と、石井克人監督が登壇した。

『スマグラー』を観てきた。

残念ながら、今回は舞台挨拶のチケットが手に入らなかった。

本当に、数秒で売り切れていた。

かなり、ヘコんだ。

だったらなにも、初日に行く必要はないのだが、そこはファンの心意気、そして、初日に行けずに、次週には小さいスクリーンに移ってしまって悔しい思いをしたことが何度かあるので、頑張って行って来た。

久々に「威勢の良い方の満島」が観れるかと期待していたが、外れた。

おかしい。

満島が全くハマっていない。


私はマンガが好きだ。

だが、かなりの「偏食」である。

基本、少年マンガは、もの足りなくてダメなので、週刊誌は読んでいない。

以前は「スピリッツ」を読んでいたのだが、「なんか、最近、フツーになって来たよな。」と、思い、ある時やめてしまった。

今、定期購読しているのは「IKKI」だけだ。

一時期ほのぼの系(?)の作品が増え、ほとんど飛ばしていた。

「最近は、こーゆーマンガが新しいのか?面白く感じないのは、自分がじじぃになって来たからなのか?」

やめようかと思ったが、これをやめてしまうとマンガとの繋がりが絶たれてしまうので、思い留まった。

その後、「オノナツメ」に出会い、「やめなくて良かった。」と、心底思った。

「五十嵐大介」の連載も始まり、「松本大洋」も戻って来た。

「ストラト!」も面白いし、「ニッケルオデオン」も素敵だ。

だが、月刊誌なので、これ一誌だけでは足りない。

basso名義の作品も読み尽くし、「なんか、面白いマンガねーかな?」と、思うと、ネットに頼ることになる。

だが、マンガほど、ネットで情報を読んでもピンと来ないものはない。

そんな中で、最近気になっていたが、一歩踏み出せないでいたのが「闇金ウシジマくん」だ。

今回の映画化を機に、「闇金ウシジマくん」と「スマグラー(新装版)」を大人買いした。

「ウシジマくん」は、面白い。絵柄も好みだ。だが、読んでいて、自分の将来(と言うか、まさに現実)がダブって、凄く不安になる。

問題は、「スマグラー」だ。

あまり良く考えずに買ってしまったのだが、当然、先に観た方が面白いに決まっているので、映画を観るまでコミックの方はお預けにした。

原作は4話240頁ほどで、ちょうど単行本一冊。

帰りの電車で一気読みしたが、とても連載デビュー作とは思えない。

一気に読ませる面白さ、そして、絵が力強い。これぞ、コミックの醍醐味だ。

以前から思っていたのだが、コミック原作の映画化(時にはアニメ化でも)で、原作通りのセリフが、すごく間延びした感じで聞いていられないことがある。

今回の満島ひかりの役が、まさにこのパターンであった。

他の役柄は原作を誇張してあり、セリフも変わっていたのだが、満島ひかりの役は、原作通りのセリフであった。

コミックの「ネーム」は、映画やドラマのセリフとは、根本的に異なる。

絵があった上でのセリフであり、文字数も限られているので、一字一句が練られ、削ぎ落とされた、洗練されたものになる。

どちらかと言うと、俳句に近いものがある。

それをそのまま現実の時間軸で声に出してしゃべっても、間が持たない。

先に映画を観たので、はっきりとは解らなかったのだが、コミックを読んで「そーゆーことだったのか。」と、合点が行った。

その点、同様に原作そのままでありながら、永瀬正敏は流石だ。そう言った不自然さが全くない。

しかし、いつの間にか、おっさんになった。

映画HPのトップ画像では、永瀬だとは気付かなかった。

だが鋭さの中に、大人の落ち着きも加わり、凄くイイ感じだった。(表現が稚拙で申し訳ない。)


それと、「田沼ちはる」の人物感が、原作とは大きく違っているのも解せない。

なぜ、こんな変更をしたのか?

原作の人物像を、実写で表現するのが難しかったからか。

たぶん、そうなのであろうが、そこは、頑張って欲しかった。

「ちはる」の魅力が半減、いや、一万分の一ぐらいになってしまっているし、原作の持っていた読後の爽快感も失われている。

作品自体の魅力が、一挙に平面的になっている。

尺の余裕はあったはずだ。

そこを、安易なギャグ調の演出で埋めても、映画館を出た後まで、観客に「面白かった」との印象を残すことは出来ない。


これで、しばらくは満島ひかりに会えない。

何を、心の拠り所とすれば良いのか。

また何か、素敵な出会いのあることを信じて、それでも、生きて行くしかないのか。

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『一命』世界41カ国公開決定 - 週刊シネママガジン
2011年10月15日(土)、『一命』の初日舞台挨拶が行われ、フランス、ドイツ、オーストリア、スイス、ギリシャ、ロシアなど、世界41カ国で公開が決定したことが発表された。市川海老蔵主演の時代劇で、3Dの公開となる。舞台挨拶には瑛太、満島ひかり(黒地に古典柄の吉祥柄、奈良しょっ紅錦の帯という着物で登壇)、三池崇史監督が出席した。

『一命』を観てきた。

『一命』を観るにあたって、心の準備のために『十三人の刺客』を借りて観た。

準備が必要であったのは、一つ、懸念事項があったからだ。

三池崇史

「DEAD OR ALIVE」は鮮烈であった。

「驚愕のラスト・・・」との触れ込みを、聞いて観たにも関わらず、緻密に作り上げた世界をラストで覆したその潔さは爽快であった。

後にも、先にも、これを超えるものは、もう出ないであろう。

だが、その後がいけない。

私の映画の見方は、お気に入りの女優を追いかけて観るか、気に入った作品があると、その監督の映画を追って観る。

だが、「DEAD OR ALIVE 2」を皮切りに、どの作品を観ても後悔の連続であった。

「おふざけ」が始まると、ツボが違うので、一気に冷めてしまうのだ。

だが、映画自体が全くつまらない訳ではないので、しばらくするとまた別のを観てみたくなるのだが、「ゼブラーマン」を最後に、パタリとその意欲も失せた。

しかし、たまたま見た「十三人の刺客」の予告には、「今までとはちょっと違うぞ?」と、思わせる何かがあった。

「普通に作れば、普通に面白いじゃないか。」

それが、観た後の、素直な感想であった。

後半の「チャンパラ」シーンは、特に奇をてらった演出があるわけでもないのだが、観ていて飽きない。

これには、かなりの力量を要すると思われる。


最近の、テレビドラマを映画化して、安易に集客を図る傾向は嫌いだ。大嫌いだ。

収益を上げるのは、勿論、必須条件だ。

だが、それのみを大上段に構え、安易な、安全な方向にばかり走ってしまうと、大切なもの、本質的なものが、どんどん双方から失われて行ってしまう。

「映画が力を持っていた頃には、当たり前に出来ていたことが、段々と難しくなって来ている。この映画が成功するかどうかが、これからの日本映画の可能性にかかっている。是非、皆さんもこの映画を宣伝して欲しい。」

三池監督の、その風貌に似合わぬ真摯な語り口に、甚く心を打たれた。

「そうだよな。オレなんかより、彼らの方が、その思いは何千倍も強いよな。」


『一命』は、素敵な映画である。

三池崇史が好きな人も、苦手な人も、三池崇史って誰?的な人も、是非見てほしい。


P.S.

これからは、三池監督の映画は、全て劇場で観ます。


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