未来技術の光と影。
SIYOU’s Chronicle






「マップをGoogleのマップに戻してくれ。」
「マップヲ、グー・グルノマップニ、モドシ、マシタ」

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「おしゃべり撃退装置」でイグ・ノーベル賞 つくば・産総研 栗原研究員
http://www.tokyo-np.co.jp/article/ibaraki/20120927/CK2012092702000135.html
 迷惑を顧みず話し続ける人をだまらせる装置「スピーチ・ジャマー」を開発し、ユーモアあふれる科学研究に与えられるイグ・ノーベル賞(音響賞)を受賞した産業技術総合研究所(産総研、つくば市)の研究員栗原一貴(かずたか)さん(34)=情報理工学=が米の授賞式から帰国し、産総研で「これからも人々のコミュニケーションを支援する情報技術を研究していきたい」と喜びを語った。

「ったく、あついら、やかましいと思わないか?」
「えっ?・・・あーいや、自分は全然OっKぇーすよ。」
「嘘付くんじゃねーよ。お前さ、ちょっと行って注意して来いよ。」
「いや、マジやばいっしょ。見た目ハンパないっすよ。」
「いーから、行ってこいよ。」
「そんな、口で注意したくらいで、人の言うことなんか、聞くような奴らじゃないですよ。」
「口で聞かなきゃ、他のもんで聞かせて来いよ。」
「ムチャ言わないで下さいよ。」
「そーいやあれだ、最近はなんか、『超音波』浴びせると相手が黙る機械があるそーじゃないか?」
「『スピーチジャマー』っすか?イグノーベル賞受賞した?」
「あー、それ、それ。」
「超音波じゃなくて、相手の会話を0.2秒遅れで聞かせると、頭が混乱して上手く話せなくなるそうですよ。」
「じゃっ、それ、行ってみようか?」
「いや、そんなもん持ってるはずないじゃないですか?」
「要は、相手の言葉を0.2秒遅れで聞かせてやりゃあ、いーんだろ?」
「あー、はい・・。」
「だったらお前、あいつの耳元でさ、あいつの喋ってることを、ちょっと遅れて囁いてやれよ。」
「いや、ムリっすよ。」
「やりもしねーで、解らねーだろ?原理的には、同じじゃねーのか?」
「原理的にそうかもしれませんが・・・」
「原理的にそーなんだよ。早く行って来いよ。」
「あっ、いや、でも、本物でも、効き目には個人差があるそーですから。」
「あいつ、頭悪そーだから、効果抜群なんじゃねーのか?」

・・・

「あー、楽勝でしたね。以外に効き目あるもんすね。」
「あのおばさん達じゃねーよ。」
 「あのおばさん達じゃねーよ。」
「あっちの若い奴らだよ。」
 「あっちの若い奴らだよ。」
「何、ふざけてんだよ。」
 「何、ふざけてんだよ。」
「そんなもん、俺に効くかよ。」
 「そんなもん、俺に効くかよ。」
「生麦生米生卵」
 「生麦生米生卵」
「子供の喧嘩かよっ?」
 「子供の喧嘩かよっ?」
「・・解ったよ。必ずしも、効くとは限らない訳だな?」
「解って、もらえましたか。」
「あー、だけど個人差があるんだろ?早く行って来いよ。」

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「人間の料理人に『アイアンシェフ』で勝つことを目標に進められて来たロボットシェフ開発。

番組再開後30年にして、遂にこの日を迎えることが出来ました。

第28代アイアンシェフ!『鉄人28号』の登場です!!」

「ガォー」

「あっ、外部からの指示や助言は禁止ですから。」

「ガォー」

「いや、ですから、リモンコンから手を離して下さい。」

「・・・」

「では、総裁どうぞっ!」

「私の記憶が確かならば、・・・えー、なんじったかのぉ。」


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満島ひかり、映画界のベテランをうならせる!名カメラマン・木村大作「いい女優になれる」 - シネマトゥデイ映画ニュース
http://www.cinematoday.jp/page/N0046158
 あと普通は、カメラの位置とかを意識して芝居するんだけど(満島は)平気で背中向けたり、自分の顔が裏になっても良いって思って芝居する。びっくりしたよ。将来努力すればいい女優になれると思うよ」と吉永に言及したときとはまた違った表現で、新たな才能にエールを送っていた。

『北のカナリアたち』関連の話題が出始めた。

本屋ではちょっと前から、原作本と共に、映画のショットがチラホラし始めた。

11月3日より公開。とのことなので、そんなに先走っているわけではない。

だが、最初に「次回作は『北のカナリアたち』」との記事を読んだ時には、まだだいぶ先だと思ったのだが、あっと言う間に1年が過ぎてしまった。

冒頭のインタビューは、撮影のカメラマンだ。

ベテランのカメラマンが言っているのだから、カメラをそれほど意識ない女優さんというのは、かなり珍しいのであろう。


私は歯を見せて笑う者を信用できない。

厳密に言うと、上の前歯と下の前歯がくっ付いた状態で、口角を上げ、唇だけ開いた状態の笑顔だ。

普通に笑ったのでは、絶対に口の形がこんなにはならない。

普通は歯が見えないし、余程面白いことがあって口を開いて笑った場合には、前歯も離れる。

普通の人が、ちょっとチャレンジしてみた場合、かなり不気味なる。

好印象を与えられる程度の笑顔を浮かべるには、かなりの練習が必要だ。

「人に好印象を持ってもらうために努力している。」と、捉えれば、良いことなのであろうが、どうしても人を欺こうとしている。との印象を持ってしまうし、「その程度で人を騙せているつもりなのか?」と、底の浅さを露呈しているように感じてしまう。

もっと言うと「その程度のことで、俺が歓心するとでも思っているのか?」と、逆ギレ状態に陥る。

さすがに女優さんともなれば、そんな人はいないのだが、ちょっと人気の出始めた、アイドルとも女優とも判別のつかないタレントさんに、この手が多い。

テレビで良く見るようになると、どのCMでも、全く、この、同じ顔をしている。

前にも書いたが、その点、満島ひかりは表情が豊かだ。

ドラマで見せる泣き顔に、真実以上のリアルを感じる。

しかも、45分間の間に泣くシーンが3回あれば、全部が全く違った顔をしている。

「こんな顔、放送して大丈夫なの?」と、こちらが心配してしまうようなヘンな顔であっても、魅せられて止まない。


もう、虜だ。


それほどの表情が出来る女優さんでありながら、「演技は顔ではない。」と言わんがばかりの演技に賭ける意気込み。

そして、その全身全霊の演技もまた、並みの女優さんではとても真似できないレベルに達している。

「私の演技は、顔なんか映らなくても一流なのよ。」と、言うのでは嫌味でしかないが、どう見られるか?よりも、ここはどう演じられるか?どこまで表現することが出来るのか?に集中するが余りの結果なのだと思う。

映画制作という観点からは、プロ意識に欠ける。との評があるかもしれないが、そんなレベルの討論は、結果として彼女の演技が与えてくれる、魂の揺さぶりの前には、全く意味を持たない。

後は、それを如何にフィルムに留めることが出来るのか?

ベテランカメラマンの腕の見せ所であったと思う。


『北のカナリアたち』


とても、楽しみだ。


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「2030年代に原発稼働ゼロ」を目指す閣議決定が見送られた。

当然であろう。

「原発依存度0%、15%、20~25%」のどれが良いか?

そう、国民に訪ねたところ、「87%の人が原発ゼロを支持」したという。

それが、民意であり、民主主義国家であるのだから、それに従わなければならない。

そう、声高に唱える者がいる。


では、「交通事故の死亡者は、年間0人、1,500人、2,000~2,500人」のどれが良いか?

そう、国民に尋ねてみよう。

「0人」との回答がほぼ100%であろう。

であれば、すぐに自動車の利用を全面的に廃止するべきではないのか?


「前者のアンケートでは、『廃止するべきか?』の質問に『廃止するべき』との回答が得られたのに対し、後者では『自動車を廃止するべきか?』との質問をしている訳ではないので、このレトリックは成り立たない。」

そういう反論もあろう。

だが、「『交通事故の死亡者を0人にするべき』との回答が得られたので、『交通事故の死亡者を0人する』」との閣議決定に至った場合、現在の技術レベルであれば、それを実現するためには「自動車を廃止する」以外の手段がない。

だからと言って「○○年代までに自動車を廃止する」との目標を立てるのはおかしい。

「交通事故死亡者を0人にする」との目標を掲げるのが、正しいであろう。


では、前者の場合も、「2030年代までに原発事故ゼロ」を目標として掲げるのが正しいのではないのか?


唯一、真っ当な反論ができるのは、「核燃料廃棄物」の問題のみだ。

その他の反論は全て、「交通事故死亡者」の問題に対しても、同じ反論ができる。

一方では、それを唱えることが正義であるかのように、声高な反論が繰り返されるているのに対し、もう一方は、毎年4000人超、全世界では100万人以上の尊い命が失われている技術であるにもかかわらず、「自転車でたかだか20分程度のスーパーに買い物に行くのを、もっと楽したい。」程度の些細な理由から、誰もそれに異を唱える者がいない。

「自動車は他に代替のきく技術がないが、原子力は再生可能エネルギーで代替がきく。」

多くの者がそう思っているようだが、それは全く根拠のない、幻想に過ぎない。

「現に、今年の夏は皆が節電したので、原発など稼働しなくとも、十分にやって行けたではないか。」

では聞こう。なにを持ってして、『代替』と言うのか。

ピーク電力を賄う。という観点だけから言えば、現時点でも原発がなくともクリアできる。

ただし、この状態を何年も続けた場合には、電気料金を値上げせざるを得ないので、採算が成り立たず、閉鎖に追い込まれる工場、産業が続出する。

これだけでも、『代替』には、なっていないのは明らかだ。

「コスト高で海外に負けるのはしょうがない。もっと努力するべきだった。」

20年以上前に、自動車メーカーの工場で仕事をしたことがあるのだが、その時から既に、彼らは「昼休みは一斉消灯」などの節電対策に取り組んでいた。

それまで夏にガンガンに冷房を効かせていた者が「28℃に以下に設定しない。」だとか、「使わない電気は小まめに消す。」などの節電運動は、鼻で嗤われてもしかたがない。

当然、彼らに意見する資格は、ない。

また、では、海外に生産拠点がシフトすれば、それで良いのか?

自分達の周りに原発が無ければそれで良いのか?

日本に原発がなければ、それで良いのか?

日本で作らなくとも、海外で安価な製品を作ってもらって、それを買って使えば、それで良いのか?

よく「自分達だけ良ければ、それで良いのか?」との感情的な反論を聞くが、自分達の行動も、実はあまり変わり映えのしない結果を導いていることに、疑義はないのか?

「自分の子供たちにツケを廻してはいけない。子供たちの将来を考えれば、どんなガマンでも自分達はするべきだし、できるはずだ。」

残念ながら、石油産出のピークは過ぎている。

風力と、現行の太陽光発電パネルのみでは、日本の社会は成り立たない。

なんらかの技術的ブレイクスルーが起こらない限り、原発を再稼働しなければならい日がやって来るのは必至だ。

それは、子供たちの将来などという迂遠な話ではなく、もっと身近に迫っている現実であることを、もっと声高に叫ぶ者が必要ではないのか?

そして、その役目は、本来は政治家が担うべきものであるはずだ。

そう唱えれば、怖いからと耳を塞ぎたい、そのような事を言う者の口を封じたいと思う有権者の、顔色を伺っているだけの政治家ばかりの国に、そしてそういった政治家ばかりがまかり通りような国民性に、未来は、ない。

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私が最初に読んだ村上春樹は、『1973年のピンボール』だった。

当時、一緒に仕事をしていた後輩が春樹崇拝者で、「昔、ピンボールにハマってた時があって...」な
話をしていた時に、「だったら先輩には、これ、お勧めしますよ。」と、貸してくれた。

『ノルウェイの森』とかがヒットしていたのは知っていたが、なんせひねくれ者なので、「皆が面白いと思うよなものには、大して面白いものはない。」との持論のもとに、村上春樹には全く興味がなかった。

だが、これは、正に私のツボであった。

「僕」と「鼠」の物語であるが、村上春樹得意の、2人の話が交互に展開する形式だ。

にも関わらず、2人の接点は、過去にピンボールをしている一場面しかない。

しかもそのシーンは、特にストーリーの分岐点である。とか、物語の原点だ。とかであるわけではない。

うっかりしていると、2人が一緒にいるのを、ごく自然に読み進んでしまう。

その潔さに、まず、心を打たれた。

斬新にも、「過ぎる」ということがあるのかと、深い感銘をうけた。

そして、読み進むにつれ、2人の気持ちがどんどんこちらに入り込んで来る。

それは、単純な悲しみや怒り、絶望感や、やるせなさ。などの既存の言葉では語ることが出来ない、だがしかし、過去に自分が漠然と感じていた様々な感情を、ぎゅっと固めて胸の中に放り込まれたような感覚だ。

胸が張り裂けそう。との言葉があるが、たぶん、それが一番近い表現だと思う。

後からデビュー作を読んで、正直これは、私には全く良さが解らなかった。先にこちらを読んでいたら、恐らく2度と春樹作品は読んでいなかったと思うし、冒頭に書いた衝撃も得られなかったことであろう。

最初に『1973年のピンボール』を勧めてくれた後輩に、感謝している。

さて、ピンボールだ。

私がハマっていたのは、大学生の時だ。

サンシャインの、今はトイザラスがある場所は、かつてはゲームセンターであった。

そこにあった、H.R.ギーガーの絵柄の「SPACE INVEDERS」
http://jimsmash.blogspot.jp/2007/03/pinball-of-day-space-invaders.html

大小2個ずつの4フリッパーという、かなり変則的な台だ。

確かに、当時エイリアンは大好きだったので、デザインも気に入っていたのだが、ハマった理由は、その台の設定が、すごく甘かったためだ。

中央のレーンを通すと、ボーナスの倍率が、2X、3Xと上がって行き、5回目ぐらいで[EXTRA]ランプが点灯、それをクリアするとその後は[SPECIAL]が点灯しっ放しになるので、いくらでも CREDIT を増やす事が出来る。

それは、左のターゲットなども同じなので、真っ赤なランプが点灯しまくった台で、パンっ!パンっ!と、景気の良い音を鳴らして喜んでいた。

その上、CREDIT の上限が設定されていないため(普通は、5とか10以上、CREDIT を貯めることが出来ない)100円あれば、1日遊んでいられた。

だが、逆に、一端 CREDIT が貯まってしまうと、緊迫感がなくなってしまうため、ある一定以上に技術が向上することもなかった。

「僕」のように最高得点に執着することもなく、ただ、漠然とプレイしていたように思う。

今でも時々、無性にピンボールがしたくなるのだが、先日ふと私の頭を横切ったのは、ピンボールの写真集だ。

働き始めの頃に、神田の洋書専門の古本屋で見かけたピンボールマシーンの写真集。

手に取ったのだが、その時には買わず、1月後ぐらいにもう一度その店を訪れた時には、もうその本はなかった。

かなり悔やまれた。

ふと、その写真集が、「あの時買っておけば・・・」と、何度も思った後悔と共に、思い出された。

「今なら Amazon で、あれではなくとも、同じようなものが手に入るのでは?」

そう、思って、pinball(もちろん、洋書を探そうと思ってキーワードは英語だ)で検索した結果見つけたのが、今日のタイトルにある『pinball hall of fame the williams collection』だ。
http://www.amazon.co.jp/Pinball-Hall-Williams-Collection-%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%AA%9E%E7%89%88PS3%E5%8B%95%E4%BD%9C%E5%8F%AF/dp/B001L8DKIE

『williams』という単語にビビっと来た。

自分でプレイしてる頃には、メーカー名など全く興味がなかったが、『1973年のピンボール』を読んで以来、その社名は一種の崇拝の対象として、私の頭に刻まれた。

それは、ある人々における『Apple』とか、またある人々における『海洋堂』とかに対する思いと同じレベルだ。

久々にプレイしてみたくなって、購入した。

評判の通りの、精度の高い物理エンジンと、.01ミリと違わずに再現されたレイアウトが作り出す再現度は、完璧だった。

いや、完璧過ぎる。

何かがおかしい。(最近、こればかりだ...)

以前、「Microsoft Pinball Arcade」をやった時には、その再現性に感動した。

昔プレイしたことがある台で、そのターゲットを攻略する時には、どう弾けば、どうボールが反応するか?

指が覚えてるいる「それ」の通りに、ボールが弾む。

「スゲーっ!!」と、その時には思った。

多分、期待していたよりも、完成度が高かったために、感動が大きかったのだと思う。

その点、『williams collection』には、購入前から完成度が高いのは記事で読んでいたし、「Microsoft Pinball」の経験から、PS3 の処理能力で、正確な物理エンジンで再現したら、寸分違わぬものが再現出来るであろうことが、予測できていたがために、「あー、予想通り完璧だ。」と、感動が薄かったのかもしれない。

いやいや、単純に、年を取って、ものごとにあまり感動しなくなって来たのではないのだろうか。


この夏に久しぶりに『1973年のピンボール』を読んだ。

せっかくの夏休み、何かスペシャルなことがしたくて、こちらは、ガラガラの通勤電車で読んだ。

最近は、電車の中では睡眠を取らないと体が持たないので、自分的にはかなり贅沢な行為である。

だが、危惧した通り、魂の揺さぶられ方が、また弱くなってしまった。

この本は何度も読んでいるのだが、ある時期から、以前のような感情の奔流が感じられなくなってしまった。

ストーリーが、頭に入ってしまったからなのか?

いや、昔は短期間に再読しても、感動は変わらなかった。

そうは言っても、しばらく間を置こうと思っていたのだが、ありま効果がなかった。


そのような本が、もう一冊ある。

松本大洋の「ZERO」だ。
http://www.amazon.co.jp/ZERO%E2%80%95The-flower-ring%E2%80%A6%E2%80%A6%E2%80%A6alone-spirits-special/dp/409184734X/


何度読んでも、ラストで涙が止まらなくなる。

それは、一部の読者が言っているような単純なメロドラマではなく、「強すぎる者の悲劇。強すぎるがための深い孤独。」そしてそれが、自分ではコントロールできない物であるがための絶望感に似た何か。

その「何か」が、何であるのか、他では味わったことのないので言葉で説明し辛いが、圧倒的なパワーで魂の中に流れ込んで来る。

これも、ある時に読み終えて、何も感じなかった。

最後のページをめくり、最後の文字を読み、だが、何の感情も湧かないまま、パタンと本を閉じた。

何か、とても大切なものが失われてしまった事実を、他人事のように感じながら、本を書棚に戻した。

残りの人生で、これだけのものに出会えるチャンスは、まだあるのだろうか?

得られるものより、失って行くものの方が、確実に大きい。

何かがおかしい?

いや、それが今、私が直面しなればならない事実なのかもしれない。


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料理の鉄人13年ぶり復活!司会&シェフ一新(サンケイスポーツ) - goo ニュース
http://news.goo.ne.jp/article/sanspo/entertainment/ssp20120908004.html

 1990年代に社会現象を巻き起こしたフジテレビ系「料理の鉄人」が10月から「アイアンシェフ」(金曜後7・57)のタイトルで13年ぶりに復活することが7日、同局の改編発表で分かった。

『料理の鉄人』

毎週、欠かさずに見ていた。

ずっと、復活を望んでいた番組の一つだ。

・・・いや、他には思いつかない。

私が復活を切望していた唯一のテレビ番組と言っても良いかもしれない。


私は味覚オンチなので、グルメとかに全く興味ない。

もちろん、「これ、美味しいなぁ。」と、思うことはあるが、ある一定水準を超えてしまうと、もう、違いが全く解らない。

昼はいつもコンビニのサンドイッチだ。

新しいお店を開拓するとか興味がないし、グルメ番組なども全く興味がない。

例外は、ちょっと前に放映していたドラマ版「孤独のグルメ」だ。

主演の松重豊が、すごく良い感じにハマっていた。
(あー、10月10日から、Season2 放送のようだ。この記事、書いて良かった!!)


だが、料理番組とか、料理人には興味がある。

子供の頃は「世界の料理ショー」とか楽しみに見ていた。

「料理の鉄人」は毎週、惹き付けられるように観ていた。

多分、料理という根源的なもの、何百年、何千年と蓄積されて来た技、そして、さらにその高みを押し上げようとする料理人の情熱、真摯な姿勢などに強く魅せられるのだと思う。

お気に入りは「鉄人森本」だった。

恐らくは、かなりの天才である。

時には突飛とも思えるような斬新な料理に果敢にチャレンジしてるが、しっかりとした修行の結果身に付けた職人の技を感じさせる。

コーラを飲んだりなどのパフォーマンスも、客を喜ばせたいという、根源的な要求の一面であろう。

そして、審査員がちゃんとその料理を評価している所がまた、素晴らしい。

伝統を重んじる和食の世界で、ここまで来るには、かなりのバイタリティーが必要であったはずだ。

それが、正しく評価されていることに、激しく感動を覚える。


さて、新鉄人には誰が?

是非、山本征治 に演って欲しい。

店が疎かになるから、そんなもん出ないだろ?

彼の店に行くことは、絶対にない(行っても良さが解らないし)から、正直、そんなこと気にせずに出て欲しい。

彼はNHKの番組で2度観た。

「ふたり しのぎあい、果てなき絆 ~日本料理人・山本征治×奥田透~」
http://www.nhk.or.jp/awards/award/20110523_03.html

「プロフェッショナル 覚悟をもって、我が道を行く」
http://www.nhk.or.jp/professional/2012/0409/index.html

どらも、番組としても素晴らしかったが、やはり、山本征治の人そのものが素晴らしい。

尊敬する人というとちょっと違う。

私のヒーローと言ったところだろうか。

彼のように人生を送れたら、どんなに素晴らしいだろう。

なんでも良いから、もっと山本征治を、彼の生き様を観てみたい。


さて、一つ懸念事項がある。

ちょと前に電車の中吊りでみた「伸介が料理の鉄人で復活を画策している。」というものだ。

記事は読んでいない。

だが、こうして料理の鉄人の話が出てきたところを見ると、全くのデタラメであったわけでもないであろう。

まさかとは思うが、彼には無理だ。

加賀丈史の代役は、コスプレの域にも達しない。

審査員も無理だ。

確かに、人より秀でている部分もあるのだが、それを拠り所に、自分を過剰評価しているフシがある。それとも、それを認識した上での自己防衛なのか。

毒舌をウリにしていたので、なんとかうまい批判をしてやろう。そして、時には素直に褒めてやろう。

そういう、相手を称賛することよりも、自分をいかに良く見せるか?ばかりを腐心している態度は、前述の平和な時間をブチ壊してしまうだろうし、それでもなお、独りよがりに得意げな顔をしていたら、テレビをもブチ壊したい気分になる。

フジに抗議のメールでもしようかと思ったが、10月開始では、もう、覆せない。

まさかね・・・。

いくらななんでも、局の人も解ってるよね・・・。


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最近のお気に入り2曲

『X-Man - Madinina Kuduro (Clip Officiel) [JUST WINNER Production ]』
http://www.youtube.com/watch?v=J-yW4TTfFlw

『Os Kazumbis & Cabo Snoop: Kagado 2012』
http://www.youtube.com/watch?v=DDWk1PhpO6k

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