「2030年代に原発稼働ゼロ」を目指す閣議決定が見送られた。
当然であろう。
「原発依存度0%、15%、20~25%」のどれが良いか?
そう、国民に訪ねたところ、「87%の人が原発ゼロを支持」したという。
それが、民意であり、民主主義国家であるのだから、それに従わなければならない。
そう、声高に唱える者がいる。
では、「交通事故の死亡者は、年間0人、1,500人、2,000~2,500人」のどれが良いか?
そう、国民に尋ねてみよう。
「0人」との回答がほぼ100%であろう。
であれば、すぐに自動車の利用を全面的に廃止するべきではないのか?
「前者のアンケートでは、『廃止するべきか?』の質問に『廃止するべき』との回答が得られたのに対し、後者では『自動車を廃止するべきか?』との質問をしている訳ではないので、このレトリックは成り立たない。」
そういう反論もあろう。
だが、「『交通事故の死亡者を0人にするべき』との回答が得られたので、『交通事故の死亡者を0人する』」との閣議決定に至った場合、現在の技術レベルであれば、それを実現するためには「自動車を廃止する」以外の手段がない。
だからと言って「○○年代までに自動車を廃止する」との目標を立てるのはおかしい。
「交通事故死亡者を0人にする」との目標を掲げるのが、正しいであろう。
では、前者の場合も、「2030年代までに原発事故ゼロ」を目標として掲げるのが正しいのではないのか?
唯一、真っ当な反論ができるのは、「核燃料廃棄物」の問題のみだ。
その他の反論は全て、「交通事故死亡者」の問題に対しても、同じ反論ができる。
一方では、それを唱えることが正義であるかのように、声高な反論が繰り返されるているのに対し、もう一方は、毎年4000人超、全世界では100万人以上の尊い命が失われている技術であるにもかかわらず、「自転車でたかだか20分程度のスーパーに買い物に行くのを、もっと楽したい。」程度の些細な理由から、誰もそれに異を唱える者がいない。
「自動車は他に代替のきく技術がないが、原子力は再生可能エネルギーで代替がきく。」
多くの者がそう思っているようだが、それは全く根拠のない、幻想に過ぎない。
「現に、今年の夏は皆が節電したので、原発など稼働しなくとも、十分にやって行けたではないか。」
では聞こう。なにを持ってして、『代替』と言うのか。
ピーク電力を賄う。という観点だけから言えば、現時点でも原発がなくともクリアできる。
ただし、この状態を何年も続けた場合には、電気料金を値上げせざるを得ないので、採算が成り立たず、閉鎖に追い込まれる工場、産業が続出する。
これだけでも、『代替』には、なっていないのは明らかだ。
「コスト高で海外に負けるのはしょうがない。もっと努力するべきだった。」
20年以上前に、自動車メーカーの工場で仕事をしたことがあるのだが、その時から既に、彼らは「昼休みは一斉消灯」などの節電対策に取り組んでいた。
それまで夏にガンガンに冷房を効かせていた者が「28℃に以下に設定しない。」だとか、「使わない電気は小まめに消す。」などの節電運動は、鼻で嗤われてもしかたがない。
当然、彼らに意見する資格は、ない。
また、では、海外に生産拠点がシフトすれば、それで良いのか?
自分達の周りに原発が無ければそれで良いのか?
日本に原発がなければ、それで良いのか?
日本で作らなくとも、海外で安価な製品を作ってもらって、それを買って使えば、それで良いのか?
よく「自分達だけ良ければ、それで良いのか?」との感情的な反論を聞くが、自分達の行動も、実はあまり変わり映えのしない結果を導いていることに、疑義はないのか?
「自分の子供たちにツケを廻してはいけない。子供たちの将来を考えれば、どんなガマンでも自分達はするべきだし、できるはずだ。」
残念ながら、石油産出のピークは過ぎている。
風力と、現行の太陽光発電パネルのみでは、日本の社会は成り立たない。
なんらかの技術的ブレイクスルーが起こらない限り、原発を再稼働しなければならい日がやって来るのは必至だ。
それは、子供たちの将来などという迂遠な話ではなく、もっと身近に迫っている現実であることを、もっと声高に叫ぶ者が必要ではないのか?
そして、その役目は、本来は政治家が担うべきものであるはずだ。
そう唱えれば、怖いからと耳を塞ぎたい、そのような事を言う者の口を封じたいと思う有権者の、顔色を伺っているだけの政治家ばかりの国に、そしてそういった政治家ばかりがまかり通りような国民性に、未来は、ない。
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