未来技術の光と影。
SIYOU’s Chronicle




ほぼ一月ぶりの休みであった。

今度の休みには、映画を観に行こう。と、決めていた。

以前から気になっていた映画があった。

ドライヴ

普段の昼食は自席でコンビニのサンドイッチを食べているのだが、休日出勤した日には自分へのご褒美として、外食している。

と、言っても、土曜日なら「小諸そば」。日曜日は「サブウェイ」だ。

オフィスからどちらに行くにも、ホテル西洋の前を通る。

しばらく前からそこに掲げられていた予告の中に、それはあった。

この仕事が終わったら、これを観に行くんだ。と、そこを通るたびにその思いが募った。

それを心の拠り所として、なんとか崩壊せずに生き延びて来られたとも言える。

封切られるころには一段落着いている予定であったが、ここまで延びてしまった。

やっと観られるチャンスが訪れたが、既に大きな劇場では上映されていない。

ネットで検索してみたが、どこも小さなスクリーンでしか演っていない。

映画を観る。程度の楽しみも、満足に果たせないのか。

疲労感が増した。

もーどーでもいーや、と、自暴自棄になりかかり、観に行くのを止めようと思った。

最後に、予告を観てどうするか決めようと思った。

行くと決めた映画は、なるべく予告を観ないようにしているのだが、もう、半分諦め気分で観てしまった。

良い方に、予想外であった。

こりゃ、やっぱ、行くしかないな。

覚悟を決めた。

「ヒューマントラストシネマ有楽町」

聞いたことがない。

そんな映画館、あったっけ?

有楽町駅前のイトシアの上にあるらしい。

どうりで知らないはずだ。

ネットでスクリーンサイズを調べたが、掲載されていなかった。

オンラインでのチケット購入もできない。

イトシア自体、それほど大きな建物でもない。

かなり覚悟して行ったにも関わらず、やはり、スクリーンは小さかった。

「黒板みたいだ。」

泣きたくなった。

帰ろうかと思った。

こなん小さなスクリーンの劇場の、存在意義にすら疑問を感じるほど、その落胆ぶりは大きかった。

鷹の爪団も、映画泥棒も現れることなく、スタッフのアナウンスでの上映中の注意事項が流れた後、予告が始まった。

予告で流れた映画も、良い感じだった。

少し、気持ちが落ち着いて来た。

いざ、始まってみると、それほどスクリーンサイズが気にならない。

こーゆー映画館も、アリなんだな。と、帰りに思った。

映画は正しく私のツボだった。

予告を観なければ、衝撃(予想を良い方向に裏切られたという衝撃)がもっと大きかったろうと、悔やまれたが、それでも十分に楽しめた。

暴力とロマンスが混在している。

暴力が非情であればあるほど、逆にピュアな部分が引き立って来る。

一見、現実味のないストーリーであるにも関わらず、共感覚がハンパない。

号泣する類の映画ではないが、心に残る作品だ。

これは、一人で観る映画だ。

終わった後で語られるどんな言葉も、この映画の大切なものを、損なってしまいかねない。

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「渡辺麻友」


「ネズミ」の時から気になる存在であった。

自分が惹かれているのは、「ネズミ」なのか、「まゆゆ」なのか。

はっきりとは解らなかったが、「さばドル」を観ていて感じたことがある。

「まゆゆ」は色々と器用なので、観ていて面白い。

この場合、「器用」というのが、褒め言葉なのか、そうではないのか?

「器用」というと、どうしても「小手先」とのイメージがある。

「器用」な人はコツを掴むのが上手いので、人よりも早く、ある程度のレベルに達してしまう。

だが、そこから先に進むためには、普段使わない筋肉の発達が必要であったり、様々な局面に臨機応変に対応できる、熟練者の経験が必要となったりする。

基本的なレベルにはすぐに達してしまうため、そこから先に進むまで、しばらくこれと言って、目に見えた進歩が感じられない時期が続く。

「器用貧乏」と呼ばれる人は、この退屈な時期に耐えられずに、次の新しいものに手を出してしまい、結局全てが「なんちゃって」のレベルに留まってしまう。

そのレベルで留まっている限り、「小手先」との誹りを受けてもしかたがない。

だが「器用」というのは、何をするにも有利に働く、かなりオールマイティーな才能である。

特にアイドルのように、様々な能力を求められる者にとって、それは強力な武器であろう。

あの、なんのリアリティもない歌詞(缶詰の方だ)を自分のものにして謳いあげてしまう力技には、ただの器用に留まらない才能の図太さを感じた。


「さばドル」

そのタイトルから受ける印象とは裏腹に、実は、人生の見直しを迫られるほどの重厚なドラマであった。

私もそのひとりだ。

人生、このままで良いのか?

オレもまだ十分、やり直せるのではないのか?

人生の再考を迫られた。

得られた結論はこれだ。


「そうだっ!オレも、アイドルになろうっ!!」


まゆゆが17歳。しじみが38歳。

ダブルスコアを、さらに4歳も超えている。

その点、私が50歳。篠田麻里子が26歳。

ダブルスコアには、達していない。

まだまだ、可能性はある。

さっそく、練習してみた。


「梨本くん、また、けんか?」


ちょっと、似ているかも、しれない。

いや、十分にイケるのではないか?

・・・

いや、私の目指しているのは、高校教師ではなかった。


「なぜ?笑い物になるだけだよっ!」


これも、違った。

「きっちりと、終わらせて来なさい。」
「ナシューさん、なにやってるんすかっ」
「チキチータ。いや、セニョリータ。」
「うざ先。深呼吸だっ。」
「まゆ選手っっーー!!」

一通りやってみたが、しっくりと来るものがない。

「私は、まゆゆ。私は、アイドル。」

・・・などと言っている場合ではなかった。

明日も仕事だ。

私にも、「次のラストチャンス」はやって来るのであろうか。


P.S.

ラストのしじみのダンス。素敵だった。


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「原発はダメ、自然エネ拡大まで天然ガス」では解決しない
ピークオイル問題が日本に投げかけるのもの
http://business.nikkeibp.co.jp/article/opinion/20120227/229101/
実は、たった数年間で、これまで「ピークオイル」論を批判してきた専門機関や石油会社の多くが、石油生産のピークが近いことに言及するようになりました。
 代表的なところでは2010年、国際エネルギー機関(IEA)が、「2006年に在来型石油生産はピークを過ぎた」「安い石油の時代は終わった」と、報告書の中で述べました。どうやら、キャンベル氏の予想は結果的にかなり正しかったことになりそうです。


「M7級の首都直下地震が今後4年以内に約70%の確率で発生する。」という、今年1月の東京大学地震研究所の発表により、にわかに巨大地震発生の危機が現実的なものに感じられるようになって来た。

簡単な事柄であったとしても、実際に行動を起こし、地震に対する備えを始めた者も多いことであろう。

震災前に同じ発表があったとしても、「また、そんな人を脅かすようなことを言って。どうせ、何十年も先のことだろ。」と漠然と思い、気にも留めない者がほとんどであったはずだ。

地震発生のメカニズムは学校で習うので、誰もが、周期的に大地震が発生することは、知識としては知っている。

いつかは必ず来るのが解っていながら、それを身近に迫った現実的な危機として受け取めることが苦手なのは、人間の性ではある。

NHKの「メガクエイク」第2シーズンが始まった。

第1シーズンは震災前であったので、ただの科学知識として見ていたが、第2シーズンの内容はもっと身に迫ったものになっている。

GPSなどの新たな観測危機の導入にともない、科学的な研究も進み、番組としての見せ方も進歩している。

巨大地震発生の予測に関する、科学的な裏付けは、もはや確実な地位を築いている。

その一方で、確実に訪れると解っていながら、誰もが漠然と「もっと先のことだろ?」と、気にも留めていない危機がある。

「石油の枯渇」だ。

石油はなくなるのか?

70年代のオイルショックの頃より、「○○年後には、石油はなくなる。」的な話は繰り返されて来た。

だが、掘削技術の進歩により、年々その予想は先送りされて来た。

この問題に対する警告は、すでにオオカミ少年の様相を呈している。

だが、冒頭の記事を読んで欲しい。日経ビジネスオンラインの会員にならないと、2ページ目以降を読むことができないが、そのためだけに会員になる価値はある。

要点のみ取り上げると、「ここ数年で、過去には(石油の枯渇に)否定的であった研究者、研究機関も含めて、石油が枯渇する時期の予測が一致して来た。

2014年前後に需要が供給をオーバーシュートし、2020年頃には生産減退が始まる。

というのが確実なところであろう。」というものだ。

私はかなり信憑性のある記事である。と読んだ。

この手の話をすると、「そんなの、石油の価格を吊り上げるための策略だよ。」と、訳知り顔で言う者がいる。

だが、彼に、その話の根拠を確認してみて欲しい。

たぶん、その手の話を何かで読んだことがある。程度のものであろう。

ネットで検索できる「石油は枯渇しない。」との説と、冒頭の記事の説とを読み比べて欲しい。

どちらに説得力があるのか。

「2014年に石油がなくなる。」と、言っているのではない。

朝起きたらニュースで「昨日で、石油がなくなった模様です。」と、報じるなどと言うことはあり得ない。

もっと前に、もうすぐ無くなりそうなことは解る。

それは、枯渇する1年前ぐらいか?

いや、もっと前。どんなに短くとも、10年前ぐらい前には解るであろう。

10年後に石油がなくなると解ったらどうするか。

売り惜しみ?

いや、そんな穏やかなものでは済まない。

燃料以外に、石油からでなければ作れないもののための原料として、絶対に必要とする者が大勢いる。

価格はあっと言う間に10倍100倍になる。

だが、もう一度戻ってみよう。

いきなり、「10年後に石油がなくなることがわかった。」などの発表があるだろうか。それまで誰も気付かずに。

それもまた、あり得ないであろう。

世界の各国のプラントが、同時に枯渇するわけではないし、どこか1か所で見通しが立ってくれば、その他の同様のプラントでも、おおよその寿命なども解ってくる。

そうなってくれば、すぐに値上がりが始まる。

いや、もっと前から、薄々と現場が勘づき始めたころから、穏やかに値上がりが始まるであろう。

今が、まさにその時だ。との主張もある。

地震の予測に対する科学的な研究が進歩しているように、石油の寿命に関する科学的研究も進歩している。

石油の掘削技術が進歩しているのと同時に、掘削技術の限界も見え始めているのではないのか?

世の中には、自分の都合の良いデータばかりを集めた煽り記事があるのは確かだ。

だが、科学的に裏付けされた予測と言うものがあるのも、確かな事実だ。

もちろん、不確定要素が沢山あるので、研究者/研究機関によって、そのパラメーターの解釈が異なり、結果の数字が異なって来る。

信憑性のあるデータに基づきながらも、その結論には大きく開きがある。

「2014年にオーバーシュート」と言うのは、確かにその大きな開きの中でも、悲観的な数値かもしれない。

だが、研究が進み、または確たる現実が突き付けられ、不確定要素がだんだんと減って来ると、研究者の結論が、どんどんと集約して来る。

「どんどん集約して来ている。」ことは、各研究者/研究所の発表を追っていけば、解ることだ。

筆者の主張はそこだ。

「2014年にオーバーシュート」という(一つの)科学的な裏付けのある予測がある。

と、言っているのではなく、全世界の研究者/研究所の予測値が、そのあたりに向かって、急速に収束し始めている。

と、言っているのだ。

これは、もう、目をつぶってやり過ごすことは出来ない。

2014年が悲観的だとしても、遅くとも2020年頃には、石油がなくなりはしないが、「もう、ピークは過ぎた。」ことが既成の事実となる時代が来るであろう。

石油はどんどんと上がって行く。

そうなってしまえば、燃料として燃やしてしまうのは、ナンセンスだ。

石油を燃やすぐらいなら、札束を燃やして発電した方が安くなる時代すら、現実のものになる危惧がある。

その時、日本はどうするのか。

天然ガス?メタンハイドレート?

そんな時代には、他の燃料も、同様に値上がりしているのは必定だ。

現在、人類が獲得してる技術の中で、石油にとって替われるほどのものは、「原子力」しか残されていない。

その時になって慌てても間に合わないのは確実だ。

「軽水炉」に替わる、新しい「原子力」の利用方法の開発を、「軽水炉」被害に遭った国だからこそ、大手を振って、取り組むべきではないのか?

もう一度冷静に考えよう。

我々は「軽水炉」被害者であって、「原子力」被害者ではないことを。

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これからの「原発」の話をしよう
http://wired.jp/2012/03/22/atomic-dream-event-report/
「原発」は一体どこで間違えたのか? 原発は本当にすべてが間違いなのか? 安全でクリーンな「原発」はありえないのか? 原子炉工学の専門家を招き、原発の開発史の闇に消え去った「ありえたかも知れない原発」の可能性を検証したトークイヴェントの内容をご紹介。

紙媒体『WIRED』VOL.3」を読むまで、『トリウム熔融塩炉』について全く知らなかった。

昨年、あれだけ原発関連の特集番組が作成されたにもかかわらず、この方向でのアプローチはなかったようだ。

今の反原発の様子は、「ヒンデンブルク号」の事故を見て、「全ての飛行船は(爆発するから)危険だ。」と言っているようなものだと、私は思う。


福島第一の事故映像を見て、「なぜ背後の高台に作らなかったのか?」と、疑問に思った。

あそこに建てていれば、今回の津波など、何の問題もなかったのに。と。

その疑問は昨年のNHKの検証番組で明らかにされていた。

「ターンキー契約」

開発元であるGEが、設計から施工までの一切を行い、使用する日本側は、完成した設備を引き渡された時点で、キーを回すことによって使用開始する。

それにも大分問題があると思うが、さらに悲惨な事実がある。

費用を安くする代わりに、GEは一切の仕様変更を認めなかった。

米国のどこか向けに設計されたものを、そっくりそのまま、福島に建造したのだ。

件のNHKの番組は、衝撃的なシーンから始まった。

発電所を迎えるために、あの海抜35メートルの高台を、ブルドーザーで切り崩していた。

高台をわざわざ20メートルも切り崩し、代わりに10メートルの防波堤を築く。

この技術的なナンセンスがまかり通った最大の理由は、GEの設計図にあったポンプの能力では、海水を35メートル汲み上げることが出来なかったからである。

ポンプをもっと能力の高いものに変更するのに、実質的にはどれくらいの手間や費用がかかるのか?

当時日本に原発を売りに来ていたGEセールスマンの、姑息で幼稚な営業手段(本人は手腕だと思っていたのであろうが)が、今回の大災害の根底にある。

さて、『トリウム熔融塩炉』だ。

詳細は冒頭の記事や、ネットで検索して欲しいが、現在主流の「軽水炉」方式の原発の欠点を、かなり克服できる技術だ。

絶対に安全とは言い切れないが、その安全性は、水素ガスを満載した「ヒンデンブルク号」と、近代のヘリウムガスにより浮力を得ている飛行船ぐらいの違いがある。

そもそも40年前の技術。それも、当時の技術の粋を集めて練られた設計であるならばともかく、全く違う条件のために設計されたものを、なんの技術的な改善や考察を行わぬまま、だだコピーしているようなものとは、雲泥の差がある。

非常電源が地下にあるのは、ハリケーン対策のための設計だったようだ。

もっと安全な「原子力」の利用方法がある。

日本の生き残る道は、そこにしかない。

その理由はまた、次回としたい。

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アマゾン関係者がアップルのソーラーファームに疑問符
http://wired.jp/2012/03/24/amazon-apple-solar/
広大な土地を利用しているAppleのソーラーファームでさえ、隣接するデータセンターの稼働に必要な電力の4%しか供給できない

以前から疑問に思っていたことがある。

「自然エネルギーが普及すれば、原発は不要だ。」との主張を良く聞くが、何か根拠があって言っているのであろうか? と。

自然エネルギーとして持ち出されるのは、太陽光と風力だ。

実際にどちらも、実用化されている。

だが果たして、日本中の電力を賄うのには、どれだけの太陽光パネルが必要なのであろうか?

そう言った試算を見たことも聞いたこともない。

前から気になっていたこの疑問に、少しでも答えてくれそうな記事が冒頭のものだ。

この主張をしているJames Hamilton氏は、Amazonでデータセンター設計の責任者を務めるし、かつてMicrosoftでもデータセンターの設計に携わった経歴の持ち主だ。

かなり信憑性のある試算だと思われる。

Appleがノースカロライナ州に建造したデータセンターは約4万6000平方メートル、東京ドーム1個分だ。(Appleの超巨大なノースカロライナデータセンターの空撮ムービー

そして、そこに隣接して建設が予定されているソーラーファームは約40万平方メートル。

「バチカン市国」とほぼ同じ大きさだ。

ピンと来ないと思うので補足すると、東京ディズニーランド(約51万平方メートル。ディズニーシーを含まず)より少し狭い。

これで4%であるので、単純に計算すれば、Appleのデータセンターの電力を全て太陽光パネルで賄うためには、

40万平方メートル÷(4/100)=1000万平方メートル=10平方キロメートル の敷地が必要だ。

これはほぼ中央区の面積にあたる。

23区全部を太陽光パネルで覆ったとしても、得られる電力は、Apple のデータセンター4・50個分だ。

実際に23区内の電力を全て、太陽光パネルで賄おうとすれば、この100倍。いや、おそらくはもっと2・3桁上の発電能力が必要になるであろう。

「太陽光エネルギーが普及すれば、原発は不要だ。」

そう唱える人は恐らく、コンピュータの処理速度や記憶装置の容量などの飛躍的な進歩を見て、漠然と、それぐらいの技術の進歩はすぐに達成できる。と、思っているのであろう。

太陽光エネルギーを、100%以上の効率で電力として取り出すことは出来ない。

試算の元になったエネギー変換効率がどのくらいか不明だが、少なく見積もって10%だとしても、改善の余地は10倍しか残されていない。

太陽光エネルギーで、電力を全て賄うのは、どんなに技術が発達したとしても、理論的・技術的に不可能なのではないのか?

ビルゲイツが、「単なる『子どもだまし』」と言っていたのは、こんな単純明快な理由からではないのか?

誰か真っ当な反論をしてみて欲しい。

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