未来技術の光と影。
SIYOU’s Chronicle




コロナ関連のニュースが終了し、「のど自慢」の時間になったのだが、泉谷しげるが歌を歌い、さだまたしが鐘を叩くという、シュールな場面で始まった。

生放送である「のど自慢」がコロナの影響で実施出来ないための緊急番組のようだ。

このような柔軟な対応が出来るのは、スポンサーのしがらみに縛られないNHKならではのことだと思う。

このNHKの柔軟性は、他局では期待できない。

それ、一点をもってしても、NHKの存在意義は大きいと思う。

一例を上げると、「未来少年コナン」の放映時、制作が間に合わない時に特別番組に差し替えてもらった。NHKでなかったら、「未来少年コナン」は出来なかった。と、確か監督が語っていた。

ま、一例だよ、一例。

自分は基本、NHKとテレ東しか見ないので、「NHKをぶっ壊」されては、困る。

P.S.

番組中で、採血センターで働くスタッフからの投稿が読まれた。

「採血センター勤務なので、テレワークが出来ない。血清は2週間しか持たないので中止することが出来ない。こんなご時世でありながら、ちゃんと採血に来てくれる人がいて、予約で一杯な状態。最新の注意を払っているが、往復の電車などもあるのに、非常にありがたい。」

この感動的な話の後に

さだ「『5G』の時代になれば、家でも採血出来るんじゃない?」
アナ「?」
さだ「こうやって」(注射しているジェスチャー)
泉谷「〇〇〇〇(スルーして別の話)」
アナ「泉谷さん?(これ(さだの発言)どう思う?)」
泉谷「『ファイブジー』って何?」


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今から半年前

昨年の9月末に「新型のウィルスの流行でパンデミックが発生し、東京オリンピックが中止になることだってありうる。」

そう、誰かが言ったとしても、ゾンビ映画のような光景を想像し、「そんなこと、ある訳ないじゃん」と、誰もが思ったはずだ。

パンデミックと言う言葉が割と一般的に認知されるようになったのは、前回のSARSだったかMERSの時位からで、既にその時にはNHK特集などで、パンデミックが発生するメカニズムを解説した後で、「それは『起こるかどうか』という問題ではなく『いつ起こるか』という問題である」と、そう締めくくっていた。

にも、関わらず。だ。

恐らくは、専門の研究者も、その時のNHKのスタッフも、冒頭の質問を投げかけられた時に「可能性としては、十分にあり得る。」との見解は示しただであろうが、心象としては「まっ、実際にオリンピックが中止になることはないだろうけど」と、そう思ったと思う。

それは恐らく、人間の脳のハードウェアがもたらす「想像力」の限界によるものだ。

現在日本でも、パンデミックが発生していることになっているが、あまり実感がない。

イタリアやスペインの惨状をテレビで見ても、正直、人ごとにしか感じられない。

いや、正確には「自分のこととして、認識することが出来ない」のである。

実際に外出自粛要請なとが出される事態に陥っていながら、イマイチ危機感を感じられない。

昨年の時点で「新型ウィルスでパンデミックが発生し、日本が戒厳令下におかれ、外出禁止になったりすることもあり得る。」と、そう聞いた所で、今のような状況を思い浮かべられた者が、果たしているだろうか。

今日現在の、このなんとなくいつもの日常の中で実施されている外出自粛措置。

本来であればかなりヤバい状態であるにも関わらず、我々はそれほど危機感を感じていない。

脳は、そんなに長い間、危機感を維持することが出来ないからだ。

そうでなけば、鬱病に陥ってしまうので、脳が持っている自己保身本能から、長期に渡る危機に対しては、平静な心を保つために、日常的な感覚しか持てないような仕組みになっていると思われる。

アメリカのニュースで、春休みを迎えた若者がビーチに集って浮かれている様が伝えられていた。

こういう時「自分だけは大丈夫と楽観視している。」との批判を良く聞くが、実査には「危機に陥っている自分を想像することが出来ない。」というのが、実情であろう。

経済が刻々と悪化して行く状況を、リアルタイムで見聞きしていながらも、世界大恐慌のような状態がやって来ることもあり得る。と、そう実感しているものは少ない。

それは、何度も言うが、人間の脳の自己保存の仕組みから来るものであり、人間の脳のハードウェアの限界から来るものである。

人は皆、かつて自分が経験したこと以外の状況を、実感として想像することは出来ない。

「パンデミック」という言葉を聞いて思い浮かべるのがゾンビ映画の光景であるのは、かつて自分が体験したことのある光景が、それしかないからである。

逆に言うと、今までに色々な苦労や仕事や日常生活で危機に直面して来た者の方が、まだ、ましな判断が出来る。

人類の存亡を脅かすほどの危機であったとしても、それは映画のように劇的にやって来るのではなく、日常の中にこっそりと侵入して来て、気付いたら食卓のテーブルの隣の席に座っていた。と、そんな風にしか人間の脳には捉えることが出来ない。

まだまだ、終わりではない。

これからやってくる未曾有の危機。

浮かれた若者を野放しにしてはいけないし、自分は大丈夫と漠然と思っていも、現実はもっと厳しいとの覚悟が必要だ。

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私は韓国映画が好きだ。

一部の「声のデカい教養のないその癖自分達は高尚だと言いたげなただヒステリックな暇人達」の啓蒙活動により、骨抜きにされてしまった日本のドラマ、映画。

主戦場から排斥された有り余る熱意と情熱と欲望は、サブカルへと戦いの場を移し、数多の傑作を生み出しているのだか、やはり、映画界にそれが生かされていないのが寂しい。

日本が失ってしまった勢いが、韓国映画には健在である。

そんな中、前評判の高かった「パラサイト」を、期待満々で先行上演で観に行ったのだが、正直、期待外れに終わった。

冒頭で「ネタバレ」禁止のお願いがあったので、しばらく控えていたが、そろそろ書いてもいーんじゃないか?

以下、「ネタバレ」を含むので、まだ観ていない人は抜けて欲しい。

・・・

なお、「映像が素晴らしい」とか「カット割りがどーの」との面からの評価は、私には分からない部分であるので、映画全体を否定しているわけではない。


では。


一番の原因は、展開に唐突感が感じられ、共感に至らなかったことである。

家族全員での食事のシーンから、帰宅するまでの流れ。

ここはね、震えるほどの感銘を受けた。

家族の団欒が打ち砕かれる切っ掛けとなったのは雨だ。

そして、帰宅後の現実も、雨によってもたらされている。

ここまで、雨をキーにして、実は副題に重要な意味があったことも明らかになって行く。

一見、美しく見える雨。見惚れる家族。だが雨によりそれが打ち切られ、帰宅の途中で激しさを増し、そして天罰とでも言いたげな現実が、雨によってもたらされる。

この流れが、ストーリーとして、映像を伴った、映画ならではのストーリーとして、私の魂を震え上がらせた。

一見、一つの勝利を勝ち獲ったかに見えた、弱者が強者から勝ち取ったかに見えた、ひと時の至福の時間。

それが雨という、たった一つの、それほどの暴挙でもない、日常的な不運が切っ掛けで、全て打ち砕かれ、現実を思い知らされることになる。

所詮、虚構の上に成り立った豊かさは、幻に過ぎないことを、イヤと言うほど突き付けらる。

恐らく、ここで映画が終了していら、魂が震えたままで映画が終了していら、かなり深い感銘を受けていたに違いない。

だが、その翌日からの部分の、取って付けた感が半端ない。

ストーリー展開にも、必然性というのか、ひとつの物語としての流れが感じられない。

後半がメインなのであれば、その行動に至った心理的背景などが、それ以前で描かれていなければ、共感を得ることは難しい。

「え゛っ?何で?」

と、?が沢山付いたまま、映画は終わってしまった。

頭上に?を浮かべたまま、ポカンと口を開けたままで、映画は終わってしまった。

弱者に現実を突き詰めたまま終わってしまっては、多くの観客からの賛同を得るのが難しいと、制作サイドからチャチャが入ったのでは?と、私にはそう疑えてしまうようなあっけなさであった。

弱者を侮ってはいけない。とのカタルシスを与えて、ファンサービスとしたのではないか。

んー。

最後の父の行動も、息子の行動も、全くピンと来ないのだが。。。

まっ、私には欠けているネジが沢山あるから、理解できないだけなのかもしれないが。

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