前回の続きです。
元宿稲荷神社傍にこんな石碑と説明板があります。
石碑は天保11年のものです。天保年間には全国的な凶作があって、大飢饉や百姓一揆が全国で発生した時代です。天保8年に「大塩平八郎の乱」が起こり、同12年には老中水野忠邦が「天保の改革」を実施した波乱の時代です。
時の将軍は11代徳川家斉です。彼は50年在位し55人の子供を作った人物で、幕府財政を破綻の危機に追い込み「天保の改革」が必要となったのですが、葛飾北斎などの浮世絵師が活躍する「化政文化」に突入した時代でもあります。
さて、説明板を見ます。先ずは「富嶽三十六景 武州千住」(右上)です。
よく分かるように左上の地図をトリミングします。ここにある「神社」とは前報の「元宿稲荷神社」です。
ここから帝京科学大学の黄土色の建物が見えます。つまり、北斎はここに立って、大学の右向こうに富士山を見たのです。
そして、大学に続く道路が、説明板にある「元宿堀」の跡です。
更に、元宿稲荷神社が守護していた「旧千住四本煙突(通称「千住お化け煙突」)」が、あの白いマンションの向こうに在ったのです。
ちなみに、お化け煙突の一部と写真とモニュメントが帝京科学大学の建物の向こう側、隅田川土手にあります。
こんな場所です。