唐突ですが『誰かを知っている』と言う場合、どの程度から「知っている」という言葉を
使うのでしょう?
同じ場所に通い、顔も覚えていて、直接自己紹介したわけではないけれど、間接的に名前も
知っている。例えば、子どものクラスメートのお母さんたちなどは「 ○○ちゃん/くんの
お母さん/お父さん 」 ということで、わたしの中では 知っている と分類します。
知っている限り、会えば 挨拶もするし、チャンスがあれば 話しかけようとも思います。
どちらかといえば、わたしはチャンスがあれば平気で色んな人に話しかけるほうだと思います。
ま、その辺は 個人差があるでしょうから、それは それでいいのです。
たとえ話しかけなくても 認識 するということは、その人を自分の中に存在させているか
いないか、ということを意味していると思います。
で、今までわたしは 「 大抵の人は 自分と少なからず 同じだろう 」と 能天気な考えを
持っていたのが、決定的な勘違いだったのではないか? ということに気付きました。
というのはですね、ある日 ベンジャミンの友達のお母さん(白人系)と あるクラスメートの
お母さんの話していたときに
「プレイグループで定期的に会っていたし、名前はわからないけれど、子どもの顔も彼女の顔も
覚えているわよ。でも、わたしは 『彼女』 を知らないわ (But I don't know her) 」
と彼女がコメントしたときに、わたしは とっても ショックを受けました。
「それって、知っている ってことでしょ?
友達ではないかもしれないけれど、知ってるって範疇には入るんじゃないの????????」
と、心の中で叫びましたが、それはあくまでも私の感覚であって、少なくともその人は そういう程度は
「知っている」範疇には入れないのだということが分かり、かなり驚いたものの、全ての謎が解けたような
気がしました。
子どものクラスメートのお母さん(主に白人系)に声をかけても、無視されるとか
挨拶すら返してくれないとか
プレイグループに行っても 誰も話しかけてくれない とか
話しかけても 怪訝な顔をされるとか
それは 彼らがわたしを 「 知らない人 」 という範疇に入れていて、わたしの存在を
認識してくれていないから ということが分かったからでした。
きっと彼らの論理では 『 知らないから 無視して 当然 』 なんだろうし、ましては
話かけられたからと言って 話に応じようとも思っていない のでしょう。
認識しないということは、存在しないと同じなのですから。
最初は「人種差別だ」と思ったけれど いろんな人に話を聞いて「どうも人種差別とは違うらしい」
ということがわかり、「地域性のものらしい」という結論に達したのですが、それにしても、
どうしてそういう態度になるのか? ということが気になっていたわけなのでございます。
ま、それはさておき、ふと思ったのは
仮に彼らがそう思っているとしたら、それはそれでいいのだけれど
そんなことじゃ、いつまでたっても 知り合いが 増えないんじゃないの ???
ま、増やせばいいというものでもないのは分かっておりますが。
私の話をすれば、異国からやってきて、家族も知り合いも友達もいなかったようなものにとって、
いい友達をみつけるというのは、とても大事なことだし、必死なわけで、きっかけさえあれば
声をかけようと思うし、友達をつくりたい と 常に思っているわけです。
でも、こちらがどんなに頑張っても 相手に
「 わたしは あなたを知らないから 親しくなれない 」
と遮断されてしまったなら、もちろん わたしも 友達になれないし、彼らだって
新しい友達が増えていかないだろうし、古くからの友達しか、友達じゃない
ということになるんじゃないの ???
と思うわけです。
でも、ずっと ここで 生まれ育った人には そんなことは どうでもいいのかもしれませんけどね。
一方 アジア系の人は 態度がちょっと違います。
大抵、彼らは 顔さえ認識すれば 声をかけてくれます。
この前も 「 ハロ~ わたし あなたの顔 みたことあるわ 」と話かけてくれた人がいて
気がついたら、その人は ベンジャミンのクラスメートのお母さんだったのでした。
友達のご主人のお葬式で会った人と 偶然公園で再会したときも 「わたし、あなたとどこかで
会ったときがあると思うんだけれど」と 声をかけられ、わたしは お葬式でお会いしたことを
覚えていたので、そのことを話したら 「あぁ、そうだわ~」と 言って そこから話が盛り上がり
学校で再開しても 立ち話するような関係になりました。
そういうのが わたしには自然なのですが、そうじゃない人たちもいて、しかも それが
その人たちの 普通 なんだ と思って なるほど ねぇ と思った次第でございます。
かといって全ての人がそうかというと、そうなのではないわけだし、白人だとか、
アジア人だとか、簡単にひっくるめることはできないというのも事実なのであります。
そして、どちらがいいとか、悪いとかそういうことではなく、ある人にとってはそういうものだ
ということなのでしょう。
ちなみに マイクにその話をしたら
僕も 顔を知っている程度では 声をかけないかもしれないな
と言われまして。
え~ そうなの ???? と またびっくり。
人に対する感覚の違いは
やっぱり 君も コーカソイド だから ?
それとも
あまり人に興味がない シャイなエンジニア だから ???
ま、世間にはいろんな人がいるということで、自分の尺度で人を判断するのは
極力避けなければいけないねぇと思うのでございます。
使うのでしょう?
同じ場所に通い、顔も覚えていて、直接自己紹介したわけではないけれど、間接的に名前も
知っている。例えば、子どものクラスメートのお母さんたちなどは「 ○○ちゃん/くんの
お母さん/お父さん 」 ということで、わたしの中では 知っている と分類します。
知っている限り、会えば 挨拶もするし、チャンスがあれば 話しかけようとも思います。
どちらかといえば、わたしはチャンスがあれば平気で色んな人に話しかけるほうだと思います。
ま、その辺は 個人差があるでしょうから、それは それでいいのです。
たとえ話しかけなくても 認識 するということは、その人を自分の中に存在させているか
いないか、ということを意味していると思います。
で、今までわたしは 「 大抵の人は 自分と少なからず 同じだろう 」と 能天気な考えを
持っていたのが、決定的な勘違いだったのではないか? ということに気付きました。
というのはですね、ある日 ベンジャミンの友達のお母さん(白人系)と あるクラスメートの
お母さんの話していたときに
「プレイグループで定期的に会っていたし、名前はわからないけれど、子どもの顔も彼女の顔も
覚えているわよ。でも、わたしは 『彼女』 を知らないわ (But I don't know her) 」
と彼女がコメントしたときに、わたしは とっても ショックを受けました。
「それって、知っている ってことでしょ?
友達ではないかもしれないけれど、知ってるって範疇には入るんじゃないの????????」
と、心の中で叫びましたが、それはあくまでも私の感覚であって、少なくともその人は そういう程度は
「知っている」範疇には入れないのだということが分かり、かなり驚いたものの、全ての謎が解けたような
気がしました。
子どものクラスメートのお母さん(主に白人系)に声をかけても、無視されるとか
挨拶すら返してくれないとか
プレイグループに行っても 誰も話しかけてくれない とか
話しかけても 怪訝な顔をされるとか
それは 彼らがわたしを 「 知らない人 」 という範疇に入れていて、わたしの存在を
認識してくれていないから ということが分かったからでした。
きっと彼らの論理では 『 知らないから 無視して 当然 』 なんだろうし、ましては
話かけられたからと言って 話に応じようとも思っていない のでしょう。
認識しないということは、存在しないと同じなのですから。
最初は「人種差別だ」と思ったけれど いろんな人に話を聞いて「どうも人種差別とは違うらしい」
ということがわかり、「地域性のものらしい」という結論に達したのですが、それにしても、
どうしてそういう態度になるのか? ということが気になっていたわけなのでございます。
ま、それはさておき、ふと思ったのは
仮に彼らがそう思っているとしたら、それはそれでいいのだけれど
そんなことじゃ、いつまでたっても 知り合いが 増えないんじゃないの ???
ま、増やせばいいというものでもないのは分かっておりますが。
私の話をすれば、異国からやってきて、家族も知り合いも友達もいなかったようなものにとって、
いい友達をみつけるというのは、とても大事なことだし、必死なわけで、きっかけさえあれば
声をかけようと思うし、友達をつくりたい と 常に思っているわけです。
でも、こちらがどんなに頑張っても 相手に
「 わたしは あなたを知らないから 親しくなれない 」
と遮断されてしまったなら、もちろん わたしも 友達になれないし、彼らだって
新しい友達が増えていかないだろうし、古くからの友達しか、友達じゃない
ということになるんじゃないの ???
と思うわけです。
でも、ずっと ここで 生まれ育った人には そんなことは どうでもいいのかもしれませんけどね。
一方 アジア系の人は 態度がちょっと違います。
大抵、彼らは 顔さえ認識すれば 声をかけてくれます。
この前も 「 ハロ~ わたし あなたの顔 みたことあるわ 」と話かけてくれた人がいて
気がついたら、その人は ベンジャミンのクラスメートのお母さんだったのでした。
友達のご主人のお葬式で会った人と 偶然公園で再会したときも 「わたし、あなたとどこかで
会ったときがあると思うんだけれど」と 声をかけられ、わたしは お葬式でお会いしたことを
覚えていたので、そのことを話したら 「あぁ、そうだわ~」と 言って そこから話が盛り上がり
学校で再開しても 立ち話するような関係になりました。
そういうのが わたしには自然なのですが、そうじゃない人たちもいて、しかも それが
その人たちの 普通 なんだ と思って なるほど ねぇ と思った次第でございます。
かといって全ての人がそうかというと、そうなのではないわけだし、白人だとか、
アジア人だとか、簡単にひっくるめることはできないというのも事実なのであります。
そして、どちらがいいとか、悪いとかそういうことではなく、ある人にとってはそういうものだ
ということなのでしょう。
ちなみに マイクにその話をしたら
僕も 顔を知っている程度では 声をかけないかもしれないな
と言われまして。
え~ そうなの ???? と またびっくり。
人に対する感覚の違いは
やっぱり 君も コーカソイド だから ?
それとも
あまり人に興味がない シャイなエンジニア だから ???
ま、世間にはいろんな人がいるということで、自分の尺度で人を判断するのは
極力避けなければいけないねぇと思うのでございます。