あも&サチアキの交換日記

どうやら交換日記が続いているようです(祝何年目?

私の人との距離感

2020-05-08 | from:sachiaki
昔っから人との距離感が遠いタイプなんですけれど、
初手は近しい感じがするので、近しいと思っていたのに拒否されたり
ちっともそこから距離が詰まらないので驚かれるということがたまにあるsachiakiです。

人との距離を縮めたがる「おれたち仲間じゃん」っていう人だと
うまくいかない時があったりします。
なんでもを知りたがったり、一緒にご飯や遊ぶことをいっぱいしないとダメだったり。
なので銭湯とか一緒に入りに行くのは好きで楽しいのだけど、
知りたくなかったことまで知ると気持ち的に萎えることがあったりします。

なんでしょうね。

ハンドルネームなやり取りの人と仲良くなったりすると
この人面白いなーって思っても、あまり実感を伴ったものにしたくないので
実名を知りたくないとか、そういうの。

というわけで、そこそこ長い付き合いの友人が
外国でも評判がよかったという映画の主演をされたと聞き、
また、その映画をダウンロード視聴できるというので視聴していたのですが、
ドキュメンタリー風に撮られたそれが、
彼女のリアルと映画用の脚本とすごくうまく混在させられてて
脳内が混乱するという、妙なことになっている始末です。

こういった時に実感を伴うほど彼女のことを知っていれば
こんなに混乱することはなかったのかな?とか
色んなことを考えてしまいました。

私は彼女をとても尊敬しているし、
憧れの一人としても扱っていたのですけれど、
そういった遠い距離に置きっ放しにしてきたツケを払っているのかな
なんて思ったりもしました。

実態を知りたくないというのは変な話ですよね。

人間を人間として扱えってしょっちゅう思っているのに
私自身が人を人として扱いたくないと思っている
そういうところがあるんだろうなって内省していました。

だって、それってアイドルはうんこなんてしない!
っていうのと似ていることだものねー。

とはいえ、私の中にその人というものを受け止められるキャパというものがあるので
やっぱりあまり深く関わりたいとは思わない。

そういえば「存在の耐えられない軽さ」という小説があるけれど、
いや本当にその通りなんだよなって思いました。
その人を深く知りたくない。
知れば知るほど己を知ることになるからだ。

私は私をあまり知りたくない、手放したいのかもしれない。

そんなことを改めて感じました。

表現という題材で常にさらけ出していく人たちはすごいなと思うのと同時に
そこまで自分という内在するものの厚さを信じられることがすごいなと。

自分は無理。今のところ。

だから自分を開きたくない。
開いたのちにあまりにも空疎なものしかないと知ったら
生きていける自信がない。

そんなことを思いながら友人が出ていた映画を見ていました。

自己からどこまで遠ざかることができるのか
そんなことを考えてしまうのでした。
自己から遠ざかるためにどこまでも自分の中に潜るのも似たようなことだと思いますけどね。

とりあえず演技とはいえ、人様のセックスシーンとかって
あまり見たいものではないのだな、ってことを知ったって感じ。
どんな人もそうだと思うけれど、
近しい人のそういったものを見たくないっていうのは
両親のそういったものを見たくない、っていうのを考えてもらえればすぐい
あぁって思ってもらえるのでは……。

次に会った時にどんな顔すればいいのか分からないの。
なんて言ったら「笑えば良いと思うよ」って一蹴されちゃう奴だし、
結局のところその人の一面を一枚重ねたってだけで
大して代わりはないのでしょう。

そんな感じ。

さて、今日はこの辺にて。モイモイ
コメント
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