世の中は刺激的なものを求め続け、
1ヶ月も経てば糾弾する内容も変わっていきます。
どんだけ心を揺り動かされたかのように感じても
その刺激は恐ろしく短い期間しか働いてくれません。
自分自身が受けた傷の時は一生を左右するようなことでも
他人の傷に対してそこまで受けれ入れることがないのは
心の防壁として正しい動きとはいえ、
ゴシップを好み、刺激的な映画ばかりを好み、
刺激なしでは生きられないようになると
その人に慈悲の心があるのか疑問を浮かべてしまうsachiakiです。
そして昨日今日とちまたを騒がせている
誹謗中傷が原因(だと思われていること)で人が死んでしまっているところも
人々の心の劣化が疑問視されていますが、
私は劣化とかそういうものではなく、
そもそも「悪」というものは陳腐であって
ごくごく普通の感情であり、
ごくごく普通にやりかねないことの一つだというのに
誹謗中傷をした人たちを糾弾しているその人たち自身が
その「陳腐な悪」の一翼を担っていることに無自覚なことに唖然としてしまうわけです。
アイヒマン実験というものをご存知でしょうか。
これはかなりショックングな実験で、
今では実験をしたことそのものを非難されたりしていますが
これほど人間の攻撃性を、もしくは攻撃をするのを止められる理性のなさを
感じさせるものはないと思います。
そしてそれは特別攻撃的な人というわけでもなく、
これを書いている私でさえやりかねない、
あまりに平板な人間の心理であるゆえに
暴虐はこれからも繰り返されるという恐怖を感じるわけです。
アイヒマン実験については映画にもなっていますので、
興味がある方はぜひご覧ください。
アイヒマン実験、人はどこまで残酷になれるのか。/映画『アイヒマンの後継者 ミルグラム博士の恐るべき告発』予告編
哲学者ハンナ・アーレントはいいます。
「悪とは、システムを無批判に受け入れることである」
この言葉を念頭におくと、自粛警察などという軽口が叩かれている
あの一連の間抜けな人たちの行動心理も見えてくると思います。
彼らにはシステムに対して「なぜこれをするのか」ということを考えることなく
ただただシステムを受け入れ、それに従わないものに対して
自分が感じている抑圧の解消とともに幼稚な手段に出ているに過ぎません。
いまだにYoutubeやTwitterなどでは数字を稼ぎたいからか、
もしくは一度振り上げた拳を下げる理由がなくなってしまったからか
死んだ人の口が開かないことをいいことに追加攻撃がとどまるところを知らない様子。
これも数字が伸びる→数字が伸びれば広告等の収入が上がる(認知度が上がる)
という成功報酬のシステムに絡め取られ、
そこから降りることができなくなってしまった哀れさを感じてしまいます。
人を傷つけたことによって、成功体験と同じところが刺激され
喜びと感じる人もいますが
大方の人々は自分が傷つけたと知れば自分も傷つくものです。
これが「叩いた方の手も痛い」というものです。
だからこそ、「叩いてごめんなさい」が必要だし、
それが加害者の心を結果的に慰めることになるのです。
被害を受けた人の心や体の傷は残念ながら巻き戻せませんが
加害者が内省し、次に踏みとどまることができれば
少しはマシな世の中になっていくのだと思います。
こんなことを書いている自分ができた人間でないことも分かっているし、
批判されるだけの粗もいっぱいあるれど、
少しでもマシな人間になれるように
これからも功徳を積んでいけるように、もがいていこうと思います。
と、ここまで書いてきたら力尽きてきました。
もっと資料となる本とかを読み漁り、
様々な事象をひろってみれば良いんですけどね。
とりあえず「悪」と呼ばれるものの多くは
悪人がなすものではなく
ごくごく一般的な、なんなら善良な人々が
なにも考えずに自分が受け取っているシステムやルールから逸脱する人を
ほんの少しものを言ってやろう、こらしめてやろう、注意してやろう、
そんな気持ちでやっている些細なことばかりである。
というようなことを書きたかっただけなので。
そんじゃまた明日。モイモイ
1ヶ月も経てば糾弾する内容も変わっていきます。
どんだけ心を揺り動かされたかのように感じても
その刺激は恐ろしく短い期間しか働いてくれません。
自分自身が受けた傷の時は一生を左右するようなことでも
他人の傷に対してそこまで受けれ入れることがないのは
心の防壁として正しい動きとはいえ、
ゴシップを好み、刺激的な映画ばかりを好み、
刺激なしでは生きられないようになると
その人に慈悲の心があるのか疑問を浮かべてしまうsachiakiです。
そして昨日今日とちまたを騒がせている
誹謗中傷が原因(だと思われていること)で人が死んでしまっているところも
人々の心の劣化が疑問視されていますが、
私は劣化とかそういうものではなく、
そもそも「悪」というものは陳腐であって
ごくごく普通の感情であり、
ごくごく普通にやりかねないことの一つだというのに
誹謗中傷をした人たちを糾弾しているその人たち自身が
その「陳腐な悪」の一翼を担っていることに無自覚なことに唖然としてしまうわけです。
アイヒマン実験というものをご存知でしょうか。
これはかなりショックングな実験で、
今では実験をしたことそのものを非難されたりしていますが
これほど人間の攻撃性を、もしくは攻撃をするのを止められる理性のなさを
感じさせるものはないと思います。
そしてそれは特別攻撃的な人というわけでもなく、
これを書いている私でさえやりかねない、
あまりに平板な人間の心理であるゆえに
暴虐はこれからも繰り返されるという恐怖を感じるわけです。
アイヒマン実験については映画にもなっていますので、
興味がある方はぜひご覧ください。
アイヒマン実験、人はどこまで残酷になれるのか。/映画『アイヒマンの後継者 ミルグラム博士の恐るべき告発』予告編
哲学者ハンナ・アーレントはいいます。
「悪とは、システムを無批判に受け入れることである」
この言葉を念頭におくと、自粛警察などという軽口が叩かれている
あの一連の間抜けな人たちの行動心理も見えてくると思います。
彼らにはシステムに対して「なぜこれをするのか」ということを考えることなく
ただただシステムを受け入れ、それに従わないものに対して
自分が感じている抑圧の解消とともに幼稚な手段に出ているに過ぎません。
いまだにYoutubeやTwitterなどでは数字を稼ぎたいからか、
もしくは一度振り上げた拳を下げる理由がなくなってしまったからか
死んだ人の口が開かないことをいいことに追加攻撃がとどまるところを知らない様子。
これも数字が伸びる→数字が伸びれば広告等の収入が上がる(認知度が上がる)
という成功報酬のシステムに絡め取られ、
そこから降りることができなくなってしまった哀れさを感じてしまいます。
人を傷つけたことによって、成功体験と同じところが刺激され
喜びと感じる人もいますが
大方の人々は自分が傷つけたと知れば自分も傷つくものです。
これが「叩いた方の手も痛い」というものです。
だからこそ、「叩いてごめんなさい」が必要だし、
それが加害者の心を結果的に慰めることになるのです。
被害を受けた人の心や体の傷は残念ながら巻き戻せませんが
加害者が内省し、次に踏みとどまることができれば
少しはマシな世の中になっていくのだと思います。
こんなことを書いている自分ができた人間でないことも分かっているし、
批判されるだけの粗もいっぱいあるれど、
少しでもマシな人間になれるように
これからも功徳を積んでいけるように、もがいていこうと思います。
と、ここまで書いてきたら力尽きてきました。
もっと資料となる本とかを読み漁り、
様々な事象をひろってみれば良いんですけどね。
とりあえず「悪」と呼ばれるものの多くは
悪人がなすものではなく
ごくごく一般的な、なんなら善良な人々が
なにも考えずに自分が受け取っているシステムやルールから逸脱する人を
ほんの少しものを言ってやろう、こらしめてやろう、注意してやろう、
そんな気持ちでやっている些細なことばかりである。
というようなことを書きたかっただけなので。
そんじゃまた明日。モイモイ