豊川稲荷からは豊橋へ。この都市は初デビューです。
路面電車が走ってるのは知らなかった。今の年に路面が残っているのは、大体においてこれまでに何らかの市民的なパワーの結集があった証だとにらんでいます。
北へ1.5キロ位でしょうか、市役所前で降りると、土塁に沿って濃い緑が延びています。
その前にたつのが正ハリストス教会、地元の職人が京都まで出かけて技術を学んだそうです。
今度は道を渡ります。土塁の切れ目の向こうは豊橋公園、城跡です。
地元のガイドさんによれば、少なくとも名古屋城が出来るまでは、愛知で一番敷地の広いお城だったとか。
名は『吉田城』、池田輝政がいわゆる城としての形を整えながら、すぐに姫路へ移封されたため、歴史の表舞台で名を残した期間は短いようであります。
城郭の一方には豊川が滔々と流れ、天然の堀として城を守っています。
路面電車が走ってるのは知らなかった。今の年に路面が残っているのは、大体においてこれまでに何らかの市民的なパワーの結集があった証だとにらんでいます。
北へ1.5キロ位でしょうか、市役所前で降りると、土塁に沿って濃い緑が延びています。
その前にたつのが正ハリストス教会、地元の職人が京都まで出かけて技術を学んだそうです。
今度は道を渡ります。土塁の切れ目の向こうは豊橋公園、城跡です。
地元のガイドさんによれば、少なくとも名古屋城が出来るまでは、愛知で一番敷地の広いお城だったとか。
名は『吉田城』、池田輝政がいわゆる城としての形を整えながら、すぐに姫路へ移封されたため、歴史の表舞台で名を残した期間は短いようであります。
城郭の一方には豊川が滔々と流れ、天然の堀として城を守っています。
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