朝鮮戦争時、韓国軍にも「慰安婦」がいたということを、このブログで紹介したことがあります。
2002年2月23日に、金貴玉(慶南大客員教授)が、京都で開かれた第5回「東アジアの平和と人権の国際シンポジウム」で「韓国戦争と女性:軍慰安婦と軍慰安所を中心に」という論文を発表したことがきっかけとなって、韓国のオーマイニュースと日本の朝日新聞が論文の内容を伝えました。
朝日新聞「朝鮮戦争時、韓国軍に慰安婦制度-大学教授が発表」(リンク)
「オーマイニュース」のほうは、[創刊2周年記念発掘スクープ]として、3回に分けて大々的に報じています。
オーマイニュース「韓国軍も「慰安婦」を運用した」
2002年2月22日(リンク1、2)
2002年2月26日(リンク1、2)
2002年3月4日(リンク1、2)
金貴玉教授は、韓国の陸軍本部が1956年に編纂した「後方戦史(人事編)」と、複数の予備役将校たちの回顧録、そして関係者の証言から、韓国軍慰安婦の実態に迫っています。
『後方戦史』によれば、「軍慰安隊」の設置目的は次の通り。
「表面化した事理だけをもって、簡単に国家施策に逆行する矛盾した活動であると断定するなら別問題だが、実質的に士気高揚はもちろん、戦争にともなう避けることのできない弊害を未然に防止できるだけでなく、長期間交代のない戦闘によって、後方への行き来ができないゆえ、異性に対する憧れによって引き起こされる生理作用に起因する、性格の変化などにより、うつ病およびその他の支障をきたすことを予防するために、本特殊慰安隊を設置することになった。」(第3章1節3項特殊慰安活動事項)
韓国軍は、「特殊慰安隊」という部隊を編成していたらしい。上の「国家施策に逆行」というのは、1948年に米軍政庁が公娼廃止令を出していたのにもかかわらず、1951年に「特殊慰安隊」が設置されたことを示します。
韓国軍は、これが法令に反することを承知の上で設置していたわけです。
設置された期間は、金貴玉よれば1951年夏に始まり1954年3月に閉鎖されたとのこと。
設置場所は、ソウル地区の3個小隊、江陵地区の1個小隊、その他春川、原州、束草の計7か所。
慰安婦の人数は、『戦史』148ページには、ソウル地区第1小隊19人、江陵第2小隊31人、第8小隊8人、江陵第1小隊21人の計79人となっているが、150ページの「特殊慰安隊実績統計表」(リンク)では、ソウル第1小隊19人、ソウル第2小隊27人、ソウル第3小隊13人、江陵第1小隊30人の計89人とあり、同じ本の中に異なる数字がある。
「実績表」(リンク)によると、89人の慰安隊員が1952年の1年間で、204,560人の韓国軍人の相手をしたとのことです。
一方、チェ・ミョンシン将軍(予備役陸軍中将)は、自身の回顧録「死線を超えて」(1994年)の中で、
「当時、韓国陸軍は士気高揚のために約60数人を1個中隊とする慰安部隊を三、四個運用していた」
と書いており、それに従えば韓国軍慰安婦の数は180~240人。1953年4つの小隊が新設されたことを考慮すれば300人を越えると推測されます。
また、『後方戦史』には、
「一線の部隊の要請により、出動慰安を行い、所在地でも出入りする将兵に対し、慰安行為に当たった」
「一方、慰安婦は1週間に2回、軍務官の協力で軍医官の厳格な検診を受け、性病に対しては徹底した対策を講じた」
とも記され、慰安隊が固定式だけでなく移動式のものもあったこと、軍によって性病検診が行われていたこともわかります。
チャ・ギュホン将軍(予備役陸軍大将)の自身の回顧録「戦闘」(1985年)には、
「予備隊になって部隊の整備をしているとき、師団恤兵部から将兵を慰問しに来た女性慰安隊が部隊の宿営地付近に到着した、との報せがあった。中隊の人事係の報告によると、彼女たちは24人用の野戦テントにベニヤ板と雨合羽で仕切りをした野戦寝室に収容されたそうで、他の中隊の兵士たちは、列を作るほどたくさん利用したそうだ」
とあり、移動式慰安隊の存在を裏付けます。
また、慰安隊は「第5種補給品」という名前で、「モノ扱い」されていました。
「ある日の朝だった。連隊1課から中隊ごとに第5種補給品(軍補給品は1~4種までしかなかった)の受領指示があり、行ってみると、わが中隊にも1週間に8時間の制限で、6人の慰安婦が割り当てられてきた」(キム・フィオ将軍(予備役陸軍少将)の自伝『人間の香り』2000年)
先のチェ・ミョンシン将軍によれば、前線での慰安部隊への出入りは「チケット制」で運用されていて、戦場で勇敢に戦い、功の大きかった者から順にチケットをもらうことができ、また、功の大きさによってチケットの枚数に違いがあったということです。
次は、オーマイニュースにある「日本軍・韓国軍慰安婦制度の異同」(→リンク)
|
日本軍慰安婦 |
韓国軍慰安婦 |
募集法 |
半強制 |
就業 |
主な募集対象 |
一般女性 |
職業女性(売春婦) |
設置目的 |
士気高揚 |
士気高揚、戦闘力損失防止 |
運営時期 |
1930~1945 |
1951~1954.3 |
運営法 |
休日に軍票利用 |
予備隊/チケット制 |
慰安法 |
従軍慰安 |
固定慰安所と移動式併用 |
設置場所 |
東南アジア、太平洋全域 |
ソウル、江陵など |
慰安婦の規模 |
計10~20万人 |
180~240人(年間) |
慰安隊の編成 |
民間人 |
部隊(中隊単位) |
運営主体 |
軍/民間 |
軍/民間 |
慰安施設 |
軍幕舎/民家 |
野戦幕舎 |
衛生検査 |
週1回(軍医官) |
週2回(軍医官) |
慰安軍人数 |
10~30人(1日) |
6~7人(1日) |
慰安の対価 |
軍票/お金 |
チケット/お金 |
これを見ると、韓国軍慰安婦よりも日本軍慰安婦のほうが数も多いし過酷だったと言いたいようです。でも、韓国軍慰安婦は「慰安隊」という部隊ですから、軍の関与度がまったく違うでしょう。
慰安婦は、上の表ではすべて売春婦だったようになっていますが、記事の中には北派工作員による拉致、強姦によって「慰安婦」にさせられた事例が紹介されています。
金教授によれば、慰安婦の規模は、「現在のところ、韓国戦争当時の公式、非公式の慰安婦の規模を知る方法はない」としつつ、「ただ、戦争直前の私娼の規模を上回っていたと推定するほかない」とのこと。
1947年11月に米軍政庁が公娼廃止令を発表する直前の1947年10月20日の公娼の規模は2124人だということです。
また、慰安婦が設置された背景を次のように説明します。
「1950年、戦争中に多くの女性たちが強姦された。しかし、51年の夏になると、戦線が膠着状態に入った。それで、50年には前出の国連軍の民間人捕虜が言ったように、女たちが非正規的な形で軍部隊に付いて回り、昼間は洗濯をして、夜は兵士を慰安するというような形で運用されていたが、51年夏に戦線が膠着状態になると、軍が自ら慰安婦制度を効果的に運営できるシステムを作る必要性を感じたのだと思われる。すなわち、50年には戦争という名で多くの女性たちに対し強姦、拉致して慰安婦生活を強制することが可能だったが、51年には戦線が膠着状態になり、後方の退屈な戦争が続いたので、定期的に前線から後方に交替で送られてくる将兵たちに、何か誘引策が必要だったのだ。」
慰安隊の運営形態については、
「大きく見て、陸軍本部で管轄した固定式慰安所、移動式慰安所、非正規的な慰安婦の3つの形態だ。「後方戦史」によれば、陸軍は、ソウルに3か所、江陵に3か所、束草、原州、春川など全部で9カ所の固定式慰安所を設置し、慰安婦を釘づけにして運営した。そして、必要に応じ、たとえば前方から準後方地域に帰ってきた部隊が慰安婦を要請すると、慰安婦女性たちをそこに送った。一種の移動式である。第3の形態は、一部の将校たちの記憶によれば、各師団や連隊単位で私娼の女たちを連れてきて、慰安婦として利用し、師団の恤兵部や連隊の人事関連部署でお金を支給する、非正規的な臨時慰安所だ。非正規は、部隊の事情に応じ、独自に慰安婦を利用したものだが、正規の慰安所との共通点は、個人(軍人)ではなく、軍(部隊)が費用を支給したという点だ。だが、非正規的な形で運営した慰安婦が、正規的に運用した慰安婦よりも多かったというのが、一つの仮説である。」
東亜日報は、慰安隊が組織される前の1952年に、「軍人のために慰安所を作るべきだ」という記事を書いています(リンク)
「第一線の将兵が休暇で帰郷するとき、疲れた心身を癒し、勝利のために命まで捧げる真の愛国者たちの士気を高めるため、全国各地に暖かい慰安所を早急に設置すべし」(東亜日報、1952年12月30日付、「休暇帰郷将兵に慰安を提供しよう」)
1954年3月、特殊慰安隊は解体されました。その後、軍人の性欲処理は、軍部隊周辺の数多くの軍基地村施設、公・私娼売春業が担うことになりました。
ソウル大学の李栄薫教授は、2007年に出した『大韓民国の物語』(日本語版は2009年)の中で、金貴玉教授の研究を引用する形で「韓国軍慰安婦」に触れています。
さらに、米軍慰安婦についても書いています。教授は中学生時代まで慶尚北道の米軍基地のそばで過ごし、米軍慰安婦たちを身近に見ていたそうです。
「1962年段階で登録されていた2万人以上の慰安婦が6万5千名の米兵に性的なサービスを提供していました。大部分は学歴のない貧しい家庭の娘たちでした。未成年者も少なくありませんでした。「基地村」のバーや、ダンスホールが彼女たちの営業場所でした。記録を読むとショートタイムで2ドル、ロングタイムで5ドルが1962年当時の相場でした。固定的な性的関係を持つことによって月給をもらう女性もいました。そのような売春市場を経由した韓国女性が、1980年代までに100万人を越えたといいます。」
先日お伝えした「米軍慰安婦訴訟」の原告は120人。元韓国軍慰安婦は今のところ名乗り出た人はいません。
金貴玉教授が論文を発表したあと、一次資料である『後方戦史』は閲覧禁止になったそうです。
日本軍慰安婦、韓国軍慰安婦、米軍慰安婦について、その正しい実態を比較研究する学者が出てくることを期待します。
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