「ところが,1945年8月15日,彼の年齢が38歳に達した日から,事態はがらりと変わった。日本の無条件降伏を知って町にあふれ出た彼の同胞達が,到る所に群をなして,独立の歓喜に酔いしれている中で,彼は,親日民族反逆者の群の中の一人として,脱日本の世に圧され,罪を待つ身となった。日本体制の中にあって,生命がけの曲芸に挺身し,小さいものではあったが,同胞の利益を心がけた,と言ってみたところで,聴き入れら . . . 本文を読む
任文桓が京都から東京に向かおうとして1923年9月1日,突然,木造二階建てがきしみ始めた。関東大震災である。バウトクは東京行きを断念,京都のある工場で働き始める。そこにはすでに李という職工が働いていた。 まず,職場の人の呼び名を覚えることから始まった。旦那はん,おくさん,たいしょう(長男),ぼんぼん(次男),伊藤はん…,李どん,仙吉どん…。かんじんのバウトクは,「にん(任)どん」は呼びにくいから . . . 本文を読む
任文桓の『愛と民族-ある韓国人の提言』(同成社1975年)は,引用者の鄭大均が「植民地世代が残したもっとも劇的ですぐれた自叙伝」と高く評価し,その紹介にもっとも多いページ数を割いている。 以下に,その概略を紹介します。 任文桓は1907年,韓国併合以前の全羅北道錦山に生まれた。自伝では,まず併合初期,日本人と新付日本人(朝鮮人)の教育機会に大きな差があったことが語られる。入学条件の一つに頭を丸刈 . . . 本文を読む
再び金素雲『こころの壁』より 釜山の街の屋台店で,私が日本語を使った。主人は半生を満州で暮らした六十がらみの老人,おかみさんは片言も韓国語を知らぬ日本婦人である。避難民でゴッタ返している動乱さ中のある日,親分とか,兄貴とかいわれる種類の,威勢のいい男が一人,この屋台店で私の日本語を聞き咎めて食ってかかった。「お気に障ったかね」 私が穏やかにそういうと,その男は眼を怒らしながら昂然と言い放った。「 . . . 本文を読む
これもまた金素雲の文章。 終戦の年の二月,月のない夜道を,私は中野の或る裏通りに知人を訪ねての帰りでした。二,三日降りつづいた雨がやっと上がったばかりで,あたりは灯火管制中の,鼻をつままれてもわからぬ真っ暗闇でした。「ぬかるみを踏んづけては大変だが――」 路地の角で私は進みかねてためらっていました。そのとき,(管制が終わったのか)向こうから来る提灯が一つ目に入りました。「そうだ,あの明かりの通り . . . 本文を読む
次は,鄭大均が「外国人が日本人の美徳について記した最も印象的な文の一つ」と評している文章です。 数えて十五年になります。そのころ私は京城に住んでいて,たまたま東京へ旅行中でした。 ある日,宿である東京鉄道ホテルに東京駅から電話がかかりました。東京駅から私へ電話のかかる用事などは思い当たりません。誰か名前の似た人へ掛け違ったのではないかと危ぶみながら,私はその電話に出ました。「実は,あなた様へ宛て . . . 本文を読む
金素雲は,自伝『天の涯に生くるとも』以外にたくさんの随筆を発表したようですが,今はどれも入手が難しい。 幸い,鄭大均『日本(イルボン)のイメージ』(中公新書,1998)の中に,相当部分が引用紹介されているので,そこからいくつかを再引用します。 私の生まれた牧の島(絶影島)と釜山の市街とは,いまは開閉式の鉄橋になっているが当時は八トンのポンポン蒸気が往復しながら人を運んでいた。 ある日,その渡船の . . . 本文を読む
東大教授の小堀圭一郎が,人に紹介されて金素雲の知遇を得,韓国の民話について話をかわすうち,小堀氏が韓国の昔話をよく知っているので,素雲は小堀に「三国遺事などをよほど勉強したのか」と尋ねた。「いいえ,勉強などは一向に。実を申せば唯一冊子供向きの本が私の知識の材源なのです。子供の頃に愛読し,何故か今でもなくさずに持っていてなお時々取り出して読むことがあります」「何という本です」「『三韓昔がたり』とい . . . 本文を読む
次は,1931年生まれの作家,河瑾燦(ハ・グンチャン)の文章。 植民地に育った子どもがいかに日本文化にどっぷりつかっていたかを窺わせます。 幼い頃,私が初めて見た映画は,日本のサムライ映画だった。国民学校一年の時だったから,今から五十年前のことである。もちろん日帝時代である。その頃は映画のことを「活動写真」と呼んでいたが,なるほど確かに動いている写真を見て,私は不思議でたまらなかった。その中に登 . . . 本文を読む
今回は在日ではなく,韓半島で日本の支配を受けた世代の証言です。 鮮于輝(ソヌ・ヒ,1922年生まれ)は,韓国の小説家であり,「朝鮮日報」の主筆も務めた言論人でもあります。言葉が通じなかったわけではありませんが、植民地支配、戦争という状況がもたらした親子の葛藤の例として紹介します。 父は七十歳頃までも,米一俵位は,両手でもって軽くなげる位の体力をもった人であった。朝鮮人が中国人によって大量虐殺され . . . 本文を読む
次にご紹介するのも,やはり在日韓国人の証言ですが,そこで語られている経験は,まだ日本に渡る前,韓半島でのものです。 金時鐘の『「在日」のはざまで』からの一節。 朝鮮人の私が,朝鮮語を朝鮮で失くしたのは小学校二年のときであった,と先ほど言った。それが私には「真なること」を学びとる手始めであったわけだが,早くもそれは,朋輩を出し抜く競り合いの始まりでもあったものだった。 週はじめに十枚ずつのカードが . . . 本文を読む
最初は,在日韓国人の証言。 高史明の『生きることの意味』(1974年)は,自らの在日としての半生を記した自伝で,感動的な作品です。 その中の一節…。「わたしはかつて,なにかを父に相談したことがなかったのでした。わたしのそれまでの生活ときたら,用意してある食物を食べ,遊んで,寝るだけです。たいていのことは兄に話したら,それですみました。 それは,心の心配事のない幼い生活だったといえるでしょう。わた . . . 本文を読む