東日本大震災から10年の節目を迎え、当時の事を昨日のように思い出しました。
この未曾有の災害については5年前にも投稿しましたが、風化しないよう再投稿します。
当時は次の様な状況でした。
私の妻の実家は陸前高田市でしたが、津波で壊滅的な被害を受け街全体が消えてしまった悲惨な映像がニュースで次々と放映されていました。
しばらく安否確認が取れなく、心配が募るばかりでて眠れない日が続いていました。
家は津波で全て流されたが、実家の皆さんや従妹たち全員の無事が確認でき、胸を撫で下したのは地震発生から5日後でした。
直ぐに飛んで行きたかったのですが道路が寸断され、燃料の軽油も入手困難で断念せざるを得ませんでした。
災害緊急電話が被災地に設置され一人2~3分通話が出来、必要な物資を聞いてそれらを買い求め、行く準備をしました。
友人からも心配して電話を頂くとともに、沢山の救援物資や義援金を頂きました。
軽油はガソリンスタンドに長時間並んでもポリタンクに20リットルしか買えない時、息子の友人が調達し、大量に届けてくれました。
車の燃料タンクを含めて220リットルと、往復分以上の軽油が確保出来ました。
震災後8日が経ち、一関から国道343号線で陸前高田に何とか行けるらしいとの情報があり、翌日支援物資を積んで出かけました。
高速道路は宇都宮までしか使えなく、その先は地震で凸凹の一般道をひたすら走り続け、地震発生から10日目の3月21日に避難場所になっていた小学校に到着。
実家の皆さんや従妹などに再会、無事を喜び合いました。
1週間ほど滞在していましたが、毎日のように雪がちらつく寒い日が続きました。
避難者全員が教室のコンクリート床に段ボールを敷き、毛布にくるまって寝ている状態で、妻の義姉さんは体調を崩し、持病が悪化していました。
その為、義姉さんと従妹を埼玉に連れて帰り療養することになりました。
車内で生活に必要なものが揃っているキャンピングカーが、この時ほどありがたく感じたことはありませんでした。
その後、元気になった義姉さんを送りがてら支援物資を届けに、この年は7回ほど行きました。
食料や衣類、またランドセル、学用品、長靴、自転車 等・・・!
娘の友人達からは大量の学用品とランドセル40個が届けられたり、知人から30kgのお米や布団などの寝具を頂いたり、本当に感謝をするばかりでした。
妻の実家が有った周りの状況を記録に残そうと写真に収めました。
その時の一部ですが以下に写真を載せます。
キャンピングカーの手前に妻の実家が有りましたが、跡形も有りません。
その右後ろの家はここにあったわけでは無く、何処からか流されてきた家です。
三陸海岸全体がこの様に瓦礫で埋まり、街々が消えてしまっていました。
この惨状は絶対に忘れて欲しくありません。
次の写真は2014年8月に撮影した嵩上げ途上の写真で、高さは14mほどになります。
これは2019年8月の一本松周りの状態です。
完成した防潮堤の前には高田松原を再生しようと松が植林(矢印)されています。
同じ時に撮影したものですが、新しい実家がある高台からの眺めです。
嵩上げされた住宅地には、少しづつ家が建てられていますが、圧倒的に空き地が多いです。
市街地は写真の右奥で見えませんが、昔の様な賑わいは返っていません。
復興はまだまだ時間が掛かります。
これからも忘れず見守って欲しいと思います。