クリンの広場

たまっこくりんのおもいのたけ

同志社大学はなぜあの場所にあるのか?(京都教会巡り・3)

2024-01-10 | 仏教・神道・キリスト教

ランチのあと、お母さんが、

「👵ちょっと相国寺に寄ってもいい?お線香買いたいの。」と 言いました。

「🐻いいけど、しょうこくじ、って どこにあるの?」

「👵このすぐ裏よ」「🐻えっ!?

「🐻ほんとだ(同志社大学の真裏、っていうか横というか・・お寺とキャンパスが隣接してます

(こんなキリスト教大学が、となりに来て、お寺(相国寺)はびっくりしなかったんだろうか・・

だって、

同志社ができたのって、明治時代の初めでしょう

 

考えてみれば・・

 

同志社って、ごしょ(京都御所)とも道路を挟んで・となりだし(しかも北

いくら、天皇が 東京に行っちゃった後だとしても、

そんなのって、アリだったんだろうか・・

「👩アリじゃないよ~。どんなに寺院勢力や京都人から拒絶されたことか・・

大変だったんだよ、同志社。

でも、同志社の敷地って、もとは薩摩藩邸があったところなんだよね

薩摩は明治政府の中心だからね

『開国和親』をうたっている手前、跡地に英学校ができても、問題ないっていう考えだったんじゃない?」

チットが 言いました。

 同志社の土地は、さつま(薩摩)から、山本覚馬という・京都の大物の手に渡り

やまもとかくま(山本覚馬)から、

じょう(新島襄)に 提供されたそうです

※ちなみに山本覚馬の妹が、新島襄の妻・八重。←そういえばそうだった~(NHK大河「八重の桜」で観たじゃんね

 

覚馬は、西郷さんたち・さつま(薩摩)の大物からも 敬服されてた(なんと)会津人でした

 

頭が良くて、先見の明があり

幕末から、会津藩で洋学を推進していた・山本覚馬だったからこそ

この地を じょう(新島襄)に、惜しげもなくゆずったのでしょう

 同志社大学が、わざわざこのキャンパスを

「今出川校地」と 呼びならわす理由が、 

ハッキリわかりました。(歴史があらわれているのです

 もちろんそれでも、相国寺は、屈指のめいさつ(名刹)だから、

「うちの横に来ないで」って

反対したし

京都市中の人々も、ぎょうてんして、反対しまくったらしい。

 

その反対運動は、

じょうが死ぬまで やまなかったらしい。

 

 

いけずです。

 

 とはいえじょう(新島襄)は、

岩倉使節団のお抱え通訳にもバッテキされる、実力の持ち主👑✨

加えて、

アマースト大学に留学中、あのクラーク博士に 気にいられ👀

 のちに、クラークを来日させるほど かんしん(感心)させた、

「クラークが初めて見た日本人」でした。

(※クラークは札幌農学校の先生です🐄「Boys, be ambitious」の人ですね

 

まじめ、

情熱家、

忍耐力あり、

良心的、

正直、

を 体現した人物であった・じょう(新島襄)は、

 

学校経営が うまくいかなくても(資金難)、

どんなに反対されても、

 

じっと がまんして

がんばりました

 

 そのせいで、若死にしてしまったのであろう・じょう(新島襄)の

「供養」のために、

クリンたち、相国寺でいちばん高いお線香を 買いました

 

 

(※関係がなくても、良い人のためにカタキは討っておくのが、クリンたちです🐻 

次は、「だいうす町」にまいります

 

 

 

コメント (26)
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