ランチのあと、お母さんが、
「👵ちょっと相国寺に寄ってもいい?お線香買いたいの。」と 言いました。
「🐻いいけど、しょうこくじ、って どこにあるの?」
「👵このすぐ裏よ」「🐻えっ!?」
「🐻ほんとだ」(同志社大学の真裏、っていうか横というか・・お寺とキャンパスが隣接してます)
(こんなキリスト教大学が、となりに来て、お寺(相国寺)はびっくりしなかったんだろうか・・
だって、
同志社ができたのって、明治時代の初めでしょう
考えてみれば・・
同志社って、ごしょ(京都御所)とも道路を挟んで・となりだし(しかも北)
いくら、天皇が 東京に行っちゃった後だとしても、
そんなのって、アリだったんだろうか・・
「👩アリじゃないよ~。どんなに寺院勢力や京都人から拒絶されたことか・・
大変だったんだよ、同志社。
でも、同志社の敷地って、もとは薩摩藩邸があったところなんだよね
薩摩は明治政府の中心だからね
『開国和親』をうたっている手前、跡地に英学校ができても、問題ないっていう考えだったんじゃない?」
と
チットが 言いました。
同志社の土地は、さつま(薩摩)から、山本覚馬という・京都の大物の手に渡り、
やまもとかくま(山本覚馬)から、
じょう(新島襄)に 提供されたそうです
※ちなみに山本覚馬の妹が、新島襄の妻・八重。←そういえばそうだった~(NHK大河「八重の桜」で観たじゃんね)
覚馬は、西郷さんたち・さつま(薩摩)の大物からも 敬服されてた(なんと)会津人でした
頭が良くて、先見の明があり、
幕末から、会津藩で洋学を推進していた・山本覚馬だったからこそ
この地を じょう(新島襄)に、惜しげもなくゆずったのでしょう
同志社大学が、わざわざこのキャンパスを
「今出川校地」と 呼びならわす理由が、
ハッキリわかりました。(歴史があらわれているのです)
もちろんそれでも、相国寺は、屈指のめいさつ(名刹)だから、
「うちの横に来ないで」って
反対したし、
京都市中の人々も、ぎょうてんして、反対しまくったらしい。
その反対運動は、
じょうが死ぬまで やまなかったらしい。
いけずです。
とはいえじょう(新島襄)は、
岩倉使節団のお抱え通訳にもバッテキされる、実力の持ち主👑✨
加えて、
アマースト大学に留学中、あのクラーク博士に 気にいられ👀、
のちに、クラークを来日させるほど かんしん(感心)させた、
「クラークが初めて見た日本人」でした。
(※クラークは札幌農学校の先生です🐄「Boys, be ambitious」の人ですね)
まじめ、
情熱家、
忍耐力あり、
良心的、
正直、
を 体現した人物であった・じょう(新島襄)は、
学校経営が うまくいかなくても(資金難)、
どんなに反対されても、
じっと がまんして
がんばりました
そのせいで、若死にしてしまったのであろう・じょう(新島襄)の
「供養」のために、
クリンたち、相国寺でいちばん高いお線香を 買いました
(※関係がなくても、良い人のためにカタキは討っておくのが、クリンたちです🐻
次は、「だいうす町」にまいります)