遅生の故玩館ブログ

中山道56番美江寺宿の古民家ミュージアム・故玩館(無料)です。徒然なる日々を、骨董、能楽、有機農業で語ります。

月岡芳年『月百姿 稲葉山の月』

2025年02月20日 | 故玩館日記

今回も地元にちなんだ品です。

月岡芳年『月百姿 稲葉山の月』

26.7㎝x35.6㎝。浮世絵版画刊行会、昭和51年。(オリジナルは明治15-23年)

浮世絵師、月岡芳年が、古今東西の物語などから題をとり、月にまつわる百図を描いたシリーズの中の一枚です。

稲葉山(金華山)の頂には、岐阜城(稲葉山城、井ノ口城)がありました。

その城を夜中に攻め入る武将を描いています。

必死で岩にしがみつき、登っています。大きな瓢箪を背負っています。これは、木下藤吉郎、後の豊臣秀吉ですね。

もう一つ、この図で注目されるのは巨大な月。戦場の場面でありながら、静かな抒情にあふれた情景です。

作者の月岡芳年(1839-92)は、幕末から明治期にかけて活躍した浮世絵師です。歌川国芳の門下で、残虐絵や歴史画を得意としました。その中でも、『月百姿』シリーズは晩年の作で、彼の最高傑作といわれています。

それを、現代の彫師と摺師が見事によみがえらせました。

さて、例によって、浮世絵の実地考証です(^.^)

金華山は、全山、巨大な岩山です。この絵は、そこを必死で登っていく秀吉を、背後から、満月が照らし出しているという憎い画面設定です。このような険しい崖になっているのは、長良川に面した金華山の西側です。したがってこの絵は、南東から対象を描いたことになります。天文には詳しくありませんが、満月は、日が入ると東の空に出て、真夜中には南の空にあり、明け方には西に沈みます。ですから、この絵のように、北西方向に満月が位置する日時があるとは思えません。

また、この絵では、木下藤吉郎が瓢箪を背負っています。彼は、永禄10年、織田信長の稲葉山城攻略で先兵をつとめて潜入に成功し、これが出世の糸口となったといわれています。そして、瓢箪が秀吉の馬印に。実際、金華山頂付近には、「千成瓢箪発祥の地」とよばれる場所があります。そこには次のような説明書きが・・

「永禄10年(1567)8月14日、木下藤吉郎(のちに羽柴秀吉、豊臣秀吉と改称)は蜂須賀小六や山麓の猟師堀尾茂助など僅か七名を従えて、岩戸口から稲葉山城のここまで潜入し、薪小屋に火を放って手柄をたてたと伝えられている。この時、藤吉郎は城兵を倒した鎗先に腰から下げていた瓢箪を結び付け、鎗を振り回しながら大音声で勝鬨をあげたという。以来、秀吉の馬印、千成瓢箪発祥の地とされている。   岐阜市」

しかし、近年、秀吉の稲葉山城潜入や墨俣一夜城築造は疑問視されています。いずれも、講談の演題としては面白いけれど、話が出来すぎ(^^;

でもまあ、浮世絵ですから、この際、かたい話しは抜きで鑑賞すればいいですね(^.^)

 

 

 

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渓斎英泉『木曽街道六拾九次之内五十五 河渡』

2025年02月18日 | 故玩館日記

木曽街道(中山道)の全宿場を描いた木曽街道六十九次の浮世絵のうちの一枚です。

渓斎英泉『木曽街道六拾九次之内五十五 河渡』

26.8㎝x39.1㎝。大正時代?

歌川広重、渓斎英泉による『木曽街道六十九次』シリーズの内、55番目の宿場、河渡(合渡)の夜の風景です。

『木曽街道六十九次』は、広重の『東海道五十三次』シリーズと並んで有名な浮世絵シリーズです。

今回の品は、『木曽街道六十九次』の55番目宿、河渡を描いた浮世絵です。広重がすべてを描いた『東海道五十三次』シリーズと異なり、『木曽街道六十九次』シリーズは、広重と英泉、二人が担当しました。しかも、版元や版木が頻繁に変わり、シリーズの全貌ははっきりしていません。現在、すべてのオリジナル浮世絵が揃ったセットは、10に満たないとも言われています。いきおい、後世に多くの復刻版が作られました。これもまた、混乱に拍車をかけています。

その中で、一番オリジナルに近いと思われるのが、木曽街道版画刊行會による『木曽街道六十九次』シリーズです(大正時代の刷りと考えられます)。今回の品も、その中の一枚でしょう。

長良川の鵜飼の様子が描かれています。

「木阻路ノ驛 河渡 長柄川鵜飼船 英泉画 印(保永堂)」

長良川で漁師たちが鵜をつかって魚を獲っています。ここ河渡宿は、木曽街道(中山道)の宿場町で、長良川の渡しがあった交通の要所です。故玩館のある美江寺宿からは、4㎞ほど東、主に川止め時の客を相手にした小さな宿場町です。関ケ原合戦では、前哨戦がありました。

この場所は、これまでブログで紹介してきた長良川の鵜飼場からは、3㎞ほど下流です。今回の浮世絵が描かれた江戸後期(天保5-10年頃)には、この辺りでも鵜飼が行われていたことがわかります。

漁師の表情など、さすが浮世絵師です。

しかし、よく見ると、川岸に小高い山が迫っています。以前のブログで紹介した長良川の鵜飼いは、金華山の麓で行われていました。ところが、下流のここ河渡はまったくの平地です。近くに山はありません。広重もそうですが、英泉の場合も、現実そのものではなく、脚色した風景を描いているのですね(^.^)

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川崎千乕『長良橋舟梁功竣図』(明治7年)

2025年02月16日 | 故玩館日記

先日のブログで、岐阜名所の古い絵葉書を紹介しました。そこでは、岐阜公園や鵜飼とともに、長良川に掛かる大橋、長良橋がありました。また、依然に紹介した古い岐阜市地図にも、長良川に掛かる橋が載っていました。

今回の品は、長良川に最初に掛けられた橋(舟橋)を描いた絵です。

木版画(石版画?)川崎千乕『長良橋舟梁功竣図』、35.9㎝x48.7㎝。明治七年。

長良川の鵜飼いと舟橋が描かれています。

右下の記述。

「明治七年十一月舟梁功竣之日寫於岐阜藍水東涯之客舎 千乕 印」

日本画家、川崎千乕の描いた「明治七年十一月舟梁功竣之日」の様子です。岐阜藍水(長良川)の東涯(詳細不明)の客舎で筆をとったとあります。

【川崎千乕(かわさきちとら)】天保七(1837)年ー 明三五(1902)年。明治の日本画家。名古屋生れ。尾張藩士(浮世絵師)の家に生まれ、大和絵を習得し、歴史画を得意とした。東京美術学校の教授を務める。日本画家、川崎小虎は孫。

風景図の上側には、国学者、足立弘訓 の長良川の鮎についての一文、〇斎による七言絶句『船鎖橋』、

芭蕉の十八楼の句、彦根藩家老、岡本黄石の七言絶句『長良川の鵜飼』が記されています。

「金華山」は、以前に紹介した明治十六年の『日本交通分縣地図 岐阜県』と同じく、「金花山」の表記となっています。この頃は、「金花山」の方が一般的だったのでしょうか。

さて、今回の品のハイライト、舟橋です。

岐阜の市街部とながらの里(現、岐阜市長良)を結ぶ橋が完成した明治7年11月の光景です。正面の山は、百々ケ峰(どどがみね)。

多くの人が橋を渡っています。両岸にも見物人。橋には、欄干が付けられ、ガス灯も設置されていることがわかります。

江戸時代、長良川には橋がありませんでした。今回の図に描かれた舟橋が、初めての橋なのです。これまで、渡船でしか行き来できなかったものが、自分の足で向こう側へたどりつける・・・人々の感慨は想像を絶するものであったでしょう。この橋は、それが出来た年、明治七年を記念して、明七(めいしち)橋と呼ばれました。

橋をよく見ると、半分は木橋、残りの半分には船を並べ、その上に板が張ってあります。木橋は、川の東部、ワンド上にあります。この時期は川の水が少ないので、砂、砂利の川床です。一方、川の西部は本流で流れが速いので、船を並べる工法をとったのでしょう。

橋は、舟15艘を並べて、鉄鎖(長さ二百間、重さ七百貫目)で繋いだもので、幅三間、長さ百九十間ほどでした(一間=1.8m、一貫=3.75㎏)。

なお、上図には薄いですが、赤い細丸長の印が押されています。「美濃教義新聞第十四號附録」と読めます。これは、明治7年に、岐阜市の撃桃社が、月2,3回発行した宗教新聞(雑誌)です。今となっては、その附録が、はからずも長良川の貴重な歴史を伝える物となっています。

この舟橋+木橋のハイブリッド明七橋は、当時としては画期的なもので、大勢の見物人で賑わいました。芝居小屋や覗きメガネの店まで出たそうです。但し、個人の所有物であったので、通行料が要りました。人は4厘、馬が9厘、人力車、1銭(せん)4厘でした。

長良川が湾曲するあたりが、河原町。「芭蕉翁古跡、今十八楼、やまもと」の記述があります。芭蕉が鵜飼を楽しんだ頃の水楼はすでになく、江戸後期にこの場所に出来た旅館「山本屋」が現在も続く十八楼なのです。

この辺りは瀬になっていて、流れが速いので、鵜飼見物には向いていません。現在は、長良橋上流の瀞場が鵜飼の舞台です。しかし、明治初めごろまでは、この辺までが、観光鵜飼の場所であったらしいことが、今回の絵や以前の『美濃國長良川烏鬼行圖』(明治15年)からわかります。また、この圖には船橋が描かれていて、明治15年に至っても、この舟橋が使われていたこともわかります(下図)。

その後、明治17年に2代目の長良橋が完成し、木橋+舟橋ではなく、すべて木橋になりました。そして、明治34年、3代目の橋が県費で造建され、通行は無料になりました。大正4年には、最新の鋼鉄製トラス橋(上は板張)が完成し、4代目の長良橋となりました(下写真)。

現在の長良橋は、昭和29年造建の総鋼鉄製橋(5代目)です。

作者の川崎千乕は、今ではあまり顧みられなくなった画家の一人です。しかし、江戸絵師の流れを引く彼の技量はなかなかのものです。

マッチ棒を見つめていると、ガリバー旅行記の世界みたいですね(^.^)

こんなにも繊細な彫りを木版画で?石版なら可能でしょう。しかし、明治7年の段階で、地方の弱小出版社が最先端技術を駆使した印刷物を出すとはとても考えられません。

ここでは、やはり、木版画ということにしておこうと思います(^.^)

 

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紫サツマイモの苗づくり

2025年02月13日 | ものぐさ有機農業

先日のブログで、紫サツマイモを入れた餅を紹介しました。

紫サツマイモの苗を入手するのが年々難しくなってきているので、昨年は、自前での苗づくりに挑戦しました。

なんとか苗が出来、収穫した紫イモを使った餅つきを先日、やっと済ませたわけです。

ただ、去年の8月に左手を負傷し、その後ほとんど作業ができずに、サツマイモ作りも満足できるものではありませんでした。

そこで、今年こそは、となった次第です(^.^)

 

冷蔵庫の上に置いてあった段ボールです。

さて、紫サツマイモは無事か?

おそるおそる蓋を開け、モミガラに埋めてあったイモを取り出しました。

おお、いけているではないですか。しかも、ベッピンさんぞろい(^.^)

さっそく、育苗器に腐葉土を入れ、

虎の子の紫サツマイモを置き、

腐葉土をかぶせて、ジョウロで水撒き。

30℃に保ち続けてやれば、3月末には芽がでるはずです。

(^.^)期待が膨らみます(^.^)

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古絵葉書~岐阜公園&長良川鵜飼~

2025年02月11日 | 故玩館日記

ここしばらく、岐阜市の古い地図などを紹介してきました。

そうこうするうち、岐阜市の古い絵葉書が出てきたので紹介します。

16枚。大正時代。

先日紹介した俯瞰絵地図『岐阜名所圖絵』(大正14年)の下図附近、岐阜公園界隈と長良川鵜飼が絵葉書になっています。

「板垣伯爵銅像」

明治十五(1882)年)4月6日、岐阜公園で、自由党党首板垣退助が暴漢に襲われました。一命は取り止めたものの、全身に傷を負いました。「板垣死すとも自由は死せず」の言葉は、この事件に由来します。大正7年(1918)、事件を記念して、銅像が建立されました。その後、戦争中に供出。現在の像は、戦後、再建された物です。

「大典記念三重塔」

「稲葉神社」

「萬松館」

織田信長の公館跡と伝わる場所に、明治21年に開業した高級旅館で、天皇や明治高官なども逗留しました。現在、料理屋として営業しています。

水回りの様子から、明治、大正の雰囲気が伝わります。

「長良川の鵜飼」

崖の淵で鵜舟を繰る印象的な夜景です。鵜飼が行われる最上流部エリアです。この少し上流から鵜舟は下ってきます。

先に紹介した『岐阜名所圖絵』のカバー裏表紙の写真☟

よく似た構図です。

次の絵葉書も、この付近でアングルを変えて撮ったのでしょう。

「鵜匠と烏」

「船溜まりの鵜舟」

先回の浮世絵『美濃國長良川烏鬼行圖』(明治15年)や『美濃 岐阜市街全圖』(明治15年)でも描かれた、長良川本流脇のワンドを上流からみたところです。岸にある建物は遊覧船乗場、その向こう、樹木の茂った辺が十八楼です。

「金華山、長良橋、鵜飼」

金華山を望む長良川西岸からの展望。長良橋より下流部です。現在は、鵜舟はここまでは下りません。

「長良橋と遊覧船」

長良橋上から見物する人が見えます。明治時代には木橋であった長良橋は、大正4年に鋼鉄製の鉄橋(板張り)となりました。

『岐阜名所圖絵』でも、鉄橋が描かれています。ワンドの船溜まり、遊覧船乗場や十八楼(芭蕉翁遺跡)も見てとれます。

次のブログでは、船を並べた、最初の長良の橋について紹介します。

 

 

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