遅生の故玩館ブログ

中山道56番美江寺宿の古民家ミュージアム・故玩館(無料)です。徒然なる日々を、骨董、能楽、有機農業で語ります。

『納札 東西名物名所合せ』(9)

2021年02月07日 | 納札・紙物

『納札 名物名所合せ』の続きです。

これまで紹介してきた納札は、ほとんどが、縦長の一丁札でした。納札帖の後半になるにつれ、大きな札が多くなります。

 

これまでと同じく、縦長の一丁札が2枚です。ただ、単純な長方形ではなく、四隅がカットされたモダンデザインの札です。

右:浪花 佐藤保   大正十年十月二三日
  浪花名物 天満天神

大正10年10月23日と記されていて、東西名物名所合せの交換会が行われた時期がわかります。

 

左:贈催主 天愚會 西田亀 大中雲峰 後藤花雪 森田正    江戸名物 浅草雷門

天愚會は、東京の会で、4人の催主名が記されています。

天愚會の名は、千社札の元祖、天愚孔平(1733~1817年)によると思われます。天愚は、松江藩江戸詰の武士でしたが、奇妙な衣装と行動で、奇人、変人として広く知られていました。千社札(納札)は彼の考案といわれ、継竿の先につけた刷毛で天井などに貼り付ける風習も彼が始めたと言われています。

 

(天愚會) 後藤 東錦繪売

右左ともに、一丁札2枚を繋げた大きい納札です。そしてさらに、この大判札が左右2枚でセットになっています。天狗のイラストは、天愚會を表しています。 

左の絵から、江戸の風俗がわかります。浮世絵は、店頭で売られていただけでなく、街頭にも錦絵売りがいたのですね。

 

勇祭りに初鰹 大

大中は、最初の納札にある、天愚會催主の一人、大中空峰です。

この納札も、上と同じく、左右大判2枚でセットです。

【勇祭りに初鰹】

東京、初夏の催しだと思いますが、詳細不明(^^;

 

西田亀
 江戸亀戸土産 

この納札も、上と同じく、左右大判2枚でセットです。

西田亀も、最初の納札にある天愚會の4人催主の一人です。

江戸亀戸の土産、張子の亀が吊られています。上に木杯。どうやらこの亀、そうとうに酔っているようです(^.^)

 

この納札も、左右大判2枚でセットです。

天愚會 大中空峰 西田亀 後藤 森田正・・凝った字体で書かれています。

左側の大版納札には、浅草名物、江戸玩具の飛んだりが2個描かれています。傘に吊られた人形は不明(^^;

なお、右頁左の納札に伊世万、扇令とある二人は、大阪、睦會の人ですが、協賛ということでしょうか。

 

 

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『納札 東西名物名所合せ』(8)

2021年02月05日 | 納札・紙物

『納札 東西名物名所合せ』の続きです。

すべて、縦長の一丁札が、折帳に2枚ずつ貼られています。

 

【年の市】
年末に神社やお寺の境内で立つ市で、正月飾りから日用品まで、様々な物が売り出されます。江戸時代、各地で開かれましたが、もっとも有名で人を集めたのは12月20、21日の神田明神境内の浅草観音市です。一方、日本橋の年の市は25-30日に行われ、納めの歳の市と呼ばれました。
【諫鼓鶏】  
 江戸時代、江戸の二大祭(神田祭、山王祭)の時に大伝馬町(東京都中央区日本橋)から出た山車が諫鼓鶏(かんこどり)です。諌鼓に鶏が止まっているのは善政が行われて世の中がうまく治まっていることを表しています。江戸時代、山車行列は、1番が大伝馬町の諫鼓鶏、2番が南伝馬町の御幣をかついだ猿と決まっていました。なお、納札に書かれている「閑鼓」は当て字でしょう(閑古鳥?(^^;)

 


【明神柴崎納豆】
江戸時時代、納豆が、庶民の間に急速に普及しました。なかでも、神田明神名物 「芝崎納豆」は、多くの人々に愛好されました。今も、神田明神鳥居横の神田天野屋で求めることが出来ます。川柳にも、納豆売りがよく登場します。納札には、納豆売りが描かれ、川柳が添えられています。「朝製の 柴咲なつとう めしませ  納豆のよくねて おきるたおやかに はたらくことを 人めわするな」

【よし原の獅子】
吉原には、8月1日から晴天30日間、芸者、幇間が、仮装をして凝った踊りの新曲を披露した年中行事がありました(吉原俄)。吉原俄(よしわらにわか)と獅子舞を組み合わせて舞踊化したものが長唄「俄獅子」です。

 


【住吉竹馬とごろごろせんべい】
 住吉大社(大阪市住吉区)の北側付近は住吉新家といわれ、紀州街道に面して、料亭や茶店、売店が軒を連ね、旅人や参拝客相手に商売をしていました。名物として、竹馬、ごろごろせんべい、蛤、麦藁細工などが売られていました。

この納札も、一丁札の上部が少しだけおりまげられています。

それを伸ばすと・・・

 

馬のたてがみが出てきます。出る部分は小さいながらも、一応、飛び出す納札です。よく見ると、竹の下部には車が付いていて、納札の枠の上にまたがって描かれています。竹馬をもう少し小さく描けば、たてがみも車も枠内におさまるのですが・・・・・どうしても遊んでみたかったのですね(^.^)

【住吉千疋猿】
 大阪の住吉大社で授与されていた猿の人形が千疋猿です。住吉で製作された土製の人形(住吉人形)の一つで、お守りとして作られました。現在では手びねりの伝統技が途絶え、復刻品が授与されています。しかし、昔の品には遠く及びません。

 

『伝統の郷土玩具』より

13匹の猿を底辺にしたピラミッドの頂上で、三番叟猿が手をかざしています。縁起物らしい楽しげな雰囲気が特徴的で、家内和合のお守りです。このような物を手びねりで作る技には驚嘆します。現存する品は数少なく、貴重な資料です。

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『納札 東西名物名所合せ』(7)

2021年02月03日 | 納札・紙物

『納札 東西名物名所合せ』の続きです。すべて、縦長の一丁札です。

 

【隅田川】 
徳利、都鳥、貝の郷土飾り、姉さんかぶりのお面が描かれています。これらは、当時、隅田川畔の土産物屋や茶店で売られていたのでしょう。
【目黒の餅花】
目黒不動尊(瀧泉寺、東京都目黒区)門前では、縁日の28日、名物として、餅花が売られていました。餅花とは、米の粉を練って小さく丸めた餅を木の枝につけたもので、花が咲いているように見えることからこう呼ばれています。 

 

【富士棐】
 不明(^^;
【王子の鎗祭】
王子神社(東京都北区)では、8月上旬、例大祭(槍祭)が行われ、田楽舞が奉納されます。「槍祭」の由来は、神楽殿の回りに槍を奉納し、交換する習俗によります。この時、御槍という槍のお守りが授与されます。
また、関東の稲荷神社の総元締めである王子稲荷神社(東京都北区)では、大規模な狐の行列が行われます。その時、火防凧や暫狐などとともに、願掛け狐(有名な張り子の狐)が授与されます。

 


【夏祭梵天】(ぼんでん)
 梵天とは、竹の先端に房を付けたものです。これをかかげる祭りは多くあり、この絵が、関東地方のどこの祭りを表しているのかは不明です(^^;
ただ、納札では、梵天の竹の竿先に付けたビラビラが見当たりません。白い球になっているだけです。これはひょっとして・・・・・白い球を捲ってみたところ・・・

 ⇛ 

やっぱり、ビラビラがありました。

張り込んだ納札帳は、本来☟だったのですね(^^;

【酉の市】

酉の市は、各地にありますが、一番規模が大きく有名なのは、浅草、鳳神社の市です。おかめの面をつけた熊手は福を掻き込む縁起物として、酉の市の一番の品です。

 

 

 

 

 

 

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中観音堂の円空仏

2021年02月01日 | 故玩館日記

岐阜にも緊急事態宣言が出ています(愛知と連動(^^;)。

ずっと巣籠り状態なのですが、最近、NHKで円空特集をやっていたので、こんな時こそ円空さんと思い、出かけることにしました。

向かう先は、円空が開基したと言われている中観音堂です。休日なのに、電話を掛けても誰も出ないし、やはり閉館でしょうか。まあ、ダメもとで出かけることにしました。

 

やっぱり閑散として誰もいません。

外に置いてある円空仏のレプリカなどをながめてぶらぶらし、

横にある円空上人産湯の井戸を覗いたりしていました。

まあ、今日は帰ろうかと思っていた時、

「よろしければ見ていってください」

と声がかかりました。

地元の人で、午前中当番とのこと。

寒い中でウロウロしているのを見かねたのでしょう。まるで仏様のような人です(^.^)

中観音堂はこれまで何度も訪れているのですが、今回は、他に誰もおらず、心ゆくまで円空仏を見ることができました。

 

       高 222.0cm

この十一面観音像が中観音堂の本尊です。

ここにある17体の円空仏のうち最大で、観音堂の中央に置かれ、その両脇に他の円空仏が配置されています。

観音堂と円空仏は、地元の人々によって大切に守られてきました。現在は脇に円空資料館が併設され、地元の人が毎日、交代で詰めています。

円空の生誕地には諸説ありますが、現在、美濃の国のこの地、羽島市上中町中が最も確からしい所だと考えられています。寛永9(1632)年、美濃国(羽島市上中町中)で生まれた円空は、幼い頃、母親を洪水で亡くしました。円空が全国行脚をし、12万体もの円空仏を彫ったのは、母親を供養するためだったと言われています。円空仏がたたえる微笑みは、母親の面影が投影されているのかも知れません。

新幹線羽島駅から数km東南東のこの場所は、西に長良川、東に木曽川の2大河川に囲まれた水田地帯です。河川の配置がこのようになったのは天正十四年の大洪水以降です。それまで、長良川、木曽川ともに定まった流れはなく、多くの分流がこの辺りを流れていました。堤防などは何もなく、毎年洪水にみまわれました。その頃、この辺りは、美濃ではなく、尾張だったのです。ですから、信長が美濃を攻略するには、多数の分流、特に、一番西の大きな分流、境川(現在は排水路に近い小河川)を越えて西へ侵攻せねばならなかったのです。

天正十四年の大洪水以降、木曽川の本流は、数km東に変わったため、この地は、地理的には、尾張から美濃になりました。江戸時代に入ると、徳川御三家尾張藩は、慶長13年(1608)木曽川左岸に、「御囲堤」と呼ばれる大堤防を築き、藩内を洪水から守りました。西側の地域はそのままですから、この地の洪水はかえって増加しました。西の美濃側には、慶安3年(1650)、「篭堤」と呼ばれた堤防が築かれたましたが、この堤防は「尾張より低きこと3尺たるべし」というもので、増水時は、西の美濃側の堤防が決壊するようになっていたのです。

円空が生まれたのは、寛永9(1632)年です。ですから、当時、この地は尾張藩の犠牲となり、毎年のように激しい洪水に襲われていました。円空の母親もその犠牲になったのでしょう。

本尊十一面観音像の背面には四角にくりぬいた痕があります。内には円空が使った鉈が入っていて、「中を見た者は目が潰れる」と言われてきました。そのため、この観音像の内部を見た人は誰もいませんでした。

この度、地元の人々は意を決して、内部調査を行うことにしたのです。350年ほども闇の中に閉ざされていたのは、小型の銅鏡とボロボロになった九重経、そして、数珠と思われる透明の玉類でした。これらは母親の遺品の銅鏡、供養の経典、仏具と考えられ、ここが円空生誕の地であることの裏付けとなりました。

 

       30.3㎝、ヒノキ

 

  阿弥陀如来像 66.0㎝、ヒノキ

 

102.5㎝、ヒノキ   103.5㎝、ヒノキ

 

       114.2㎝、クス

 

       28.0㎝、ヒノキ

 

     68.5㎝、ヒノキ

 

   不動明王像 73.9㎝、ヒノキ

 

       57.5㎝、ヒノキ

 

       45.0㎝、ヒノキ

 

この地は、濃尾平野のまん中に位置します。地形的に上流で降った雨が集まりやすく、繰り返し大洪水に襲われました。人々は、円空仏にすがりながら、日々を送ってきたのでしょう。

中観音堂を守ってきたのは、100軒ほどの地元集落の人たちです。多くの家には、小さな円空仏が残されいて、大切に受けつがれています。

 

 

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