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「天国と地獄」(1963年 日本映画)

2025年01月08日 | 映画の感想・批評
 この映画の製作が発表されたとき、世界のクロサワがなぜアメリカの三文探偵小説を映画化するのかと世間は眉をひそめました。
 そもそも黒澤明はテーマ主義を宗とする日本の映画界では溝口健二、小津安二郎、今井正に比べて分が悪く、たかが娯楽映画の名匠と見くびられていました。
 「天国と地獄」の原作はエド・マクベインのベストセラー「87分署」シリーズの一編「キングの身の代金」です。ニューヨークの87分署に所属する刑事スチーブ・キャレラを主人公とする警察小説で、わが国でも愛読されました。興味のあるかたはハヤカワ・ミステリ文庫から新訳が出たところですので、ぜひお読みください。そのおもしろさは保証します。映画とはまた違った趣向があります。
 さて、黒澤作品ですが、ぼくが高校1年のころ、地元の芸術祭の特別出し物として県立会館で上映されたときに初めて鑑賞しました。同級生何人かと見たのですが、いずれも度肝を抜かれ、翌日の休み時間の話題は身の代金を特急列車の窓の隙間から落とすというアイデアでした(原作にはありません)。
 今回、見直して見てもそのおもしろさは群を抜きます。
 見習い工からたたき上げで大手製靴会社の重役に登り詰めた男(権藤=三船敏郎)が会社の経営方針を巡って主導権を握るため多数株を取得する工作をするのですが、その矢先に起きるのが誘拐事件です。しかも、誘拐犯は権藤の息子と運転手の息子を取り違えて誘拐するというヘマを犯す。しかし、いまさらどうすることもできないので、そのまま突っ走って権藤に身の代金を要求するのです。権藤からすれば人違いで誘拐されたひとの子のためになぜ身の代金を払わねばならないのか合点がいかない。第一、かれは株を買い占めるために多額の資金を準備したところだから、みすみすそれを他人のために使えないという足枷が嵌められているのです。
 権藤邸にさっそうと現れるのが仲代達矢扮する警部と三人の刑事です。あまりにもスマート過ぎる仲代のキャラクターにリアル感がないと、当時批評家の間で酷評されるのですが、テーマ主義とリアリズム志向がこの国の映画ジャーナリズムの主流であるのはいまも変わりません。日本映画に登場する刑事は概してよれよれのコートにぼさぼさ頭がトレードマークで、それをリアリズムと勘違いしている(コロンボと同じスタイルですが、向こうはリアリズムのつもりではなくユーモアのセンスです)。
 序盤は権藤邸のリビングが主な舞台で、そこに集まった権藤の家族ら関係者と警察が犯人からの電話を待ち、事件の対応を協議する場面が続きます。下手をすればテレビドラマ的というか演劇的になる絵面ですが、黒澤は卓越した演出でさばきます。10人内外の登場人物が限定された空間の中で突然立ち上がったり部屋を横切ったり、あるいはそれぞれが表情を変えたりとさまざまな動きをする。固定ショットながら見る者を飽きさせない工夫をしているのが見どころです。それが後半あたりからセミドキュメンタリ・タッチに変わるのもおもしろい。
 結局、権藤は曲折の末に身の代金の支払いに応じます。その受け渡しがさきほど紹介した特急列車の窓の隙間でした。7㎝幅の鞄に現金を詰めて特急こだまの窓から放り投げろというのが犯人の指示ですが、特急の窓はそもそも開かない。ところが、実は洗面所の窓は開くように設計されていて、その隙間が7㎝だというのには参りました。もうひとつの原作にないアイデアは身の代金の入った鞄の裏地に二種類のカプセルを仕込むというもの。ひとつは水に溶けると悪臭を放ち、ひとつは燃やすとピンクの煙りが出る。犯人が鞄を焼却炉に持ち込んで処分するや煙突からピンクの煙り(映画はモノクロですが煙りだけ着色)が立ち上がる場面は公開当時話題になりました。
 ほかにも印象に残る場面があって、脅迫電話の録音を繰り返し聞いている若い刑事(木村功)が背後の電車の音に気づき、いろいろ調べてそれが江ノ電だ突きとめる。駅員に扮する沢村いき雄が何とも達者な演技で江ノ電がカーブを曲がるときの音を再現するところがたまらなくおかしかった。
 ただ、この映画の終盤は調子ががらりと変わってしまう。おそらく黒澤の製作意図はタイトルのいう階級格差であって、その材料に誘拐ミステリを利用したということでしょう。ミステリ・ファンからすれば真相が解明されればそれでいいというものですから、ラストの権藤と犯人の対峙は蛇足にしか見えない。そこが難点といえばいえます。
 水上勉の通俗的な犯罪小説「飢餓海峡」をみごとな人間ドラマに昇華した内田吐夢と黒澤は本質的に違う映画作家です。よけいな社会批判など捨ててしまって単なる娯楽映画に徹してほしかったと、黒澤ファンであるぼくは、つい思ってしまうのです。(健)

監督・脚色:黒澤明
原作:エド・マクベイン
脚色:小国英雄、菊島隆三、久板栄二郎
撮影:中井朝一、斎藤孝雄
出演:三船敏郎、仲代達矢、香川京子、三橋達也、山崎努


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